2007.05.26 三斗小屋(その3)
■ 三斗小屋温泉へ
三斗小屋宿跡から温泉まではやや勾配のきつい登りになる。脇目も振らずに軍隊式にスタスタ歩けば1時間少々で登れるが、景色を眺めたり沢筋で休憩ながら登ると登山コース案内の1.5倍くらいで見積もっておいたほうが無難だろう。
那珂川源流の碑を過ぎてすぐのところに案内板が立っている。那須山塊付近では森林は若く土地も痩せていて云々…と書いてあるのは、茶臼岳の噴火で火砕流や降灰に見舞われ数百年単位でリセットされてしまうことを言っているのだろう。
案内板には鹿や猿は生息していないと書いてあるが、岩魚釣りでこの付近の沢を歩くと猿は時々見かけることがある。筆者的には熊に遭ったことはない。
三斗小屋温泉までの道は人一人歩ける程度の細道になる。あたりにはカラマツが多く、明るい陽樹の森である。
ところでときどきオフロードバイクでここを登ろうとする猛者がいるらしく、「帰れ、このすっとこどっこい!」 という注意書きがもう少し大人の言葉(笑)で書いてある。カラマツ林のあたりはまだ緩やかな勾配なので走れるかも知れないけれど、後半はシャレにならないので確かにやめたほうがいいだろう。
苔むした切り株に何か生えているのを見つけた。植物には疎いのだけれど絵になりそうだったので撮影w
温泉までの道程では、那珂川の支流となる沢筋と2回クロスすることになる。地図を見ても名前はついていないようだ。
清流と苔むした岩々。茶臼岳方面から来る登山ルートには水場がまったくないが、三斗小屋方面は給水ポイントには恵まれている。それなりの健脚さは要求されるけれど、街道をひらくならやはりこのルートなのだろう。最初に街道のプロトタイプを構想した会津藩士のセンスはなかなか良い。
さて標高を上げていくと季節も逆戻りしていく。あたりはまさに萌黄色の木々。平地でGW直前の頃(約一ヶ月前)に見たような新緑具合だ。
やがて急勾配の九十九折(つづらおり)を登りきって、三斗小屋温泉に到着。いやー、普段運動不足していると結構足にくるな(笑)
三斗小屋の大地主、大黒屋の堂々とした木造宿を見上げてみる。本館は明治二年の築だそうだ。黒光り具合がなんとも渋い。
水飲み場があったので干からびた身体に給水。もちろんこんな山奥に水道施設があるわけではなく、沢水を引いているものだ。
水飲み場に祀られているのは水速女神だ。水速比売神(みずはやひめ)とも呼ばれる水神様である。左に見える表面の摩滅した碑はちょっとわからないが、神様のお作法からみて山神(木花咲弥姫)のような気がする。
大黒屋に隣接する煙草屋旅館は改装工事中だった。玄関下を流れ下る沢は源泉からの温泉水らしい。
さて肝心の入浴可否だが・・・やはり、両旅館とも日帰り入浴お断りだった。休憩も駄目、さらにトイレも駄目か~。経営上の判断もあるのだろうけれど、日帰り登山で温泉を目指してきた人には厳しいなぁ。特にトイレお断りというのは日帰り登山の女性ハイカーをすっかり敵に回しそうな気がする……。
仕方がないのでかけ流しの捨て湯に手をかざしてとりあえず 「湯を味わった気分」 になろう。ちなみにかなり激しく熱かった。
湯の流れ下る沢をみると、石が緑色に染まっている。これは温泉藻の仲間らしい。普通の生物が存在できない高温の環境でも増殖する藻の一群で、いわゆる葉緑素(クロロフィル)に加えてフィコシアニンという青色色素を持ち、一般的な植物より青みがかった緑色を呈する。草津温泉などの源泉が緑色なのはこれが増殖しているものらしい。
煙草屋の裏側にまわって振り返ってみた。正面に見えるのは三倉山である。こうしてみると、なかなか見晴らしの良い立地なのだな。
ところで三斗小屋温泉には石垣と階段のみのスペースがいくつも残っている。江戸末期には大黒屋、柏屋、佐野屋、三春屋、生島楼の5件の温泉宿があったそうで、これはその名残らしい。
ただし戊辰戦争では全戸が新政府軍(三斗小屋攻めの主力は黒羽藩だった)により火をかけられて焼失してしまった。ちなみに煙草屋は三斗小屋が衰退した明治末期に黒磯駅前から進出した後発組である。
現在はこの2軒の旅館が別館として使用いる場所も、かつては他の旅館が建っていたスペースの再利用なのかもしれない。大黒屋も煙草屋も主要な建物は3軒ずつもっており、物資補給や発電の問題から山小屋並みの運営状況ではあるが、収容キャパシティはそれなりにありそうだ。
さて 「入浴できない温泉レポート」 で終わってしまうのはアレなので、温泉神社に立ち寄ってみる。煙草屋から100mほど上がった源泉口にほどちかい場所である。温泉集落から少し離れているせいか、ここは戊辰戦争で焼かれることはなかった。
これが温泉神社外観。三斗小屋宿の白湯山神社は朽ち果ててしまったが、こちらは健在だ。神社本殿は鞘堂の中で風雪から保護されている。
これが実に豪勢なのである。社殿はかなり手の込んだ白木彫りとなっていて、柱などは登り龍に下り龍という手の込み入れようだ。制作年代は不明だが、言い伝えでは東照宮造営に関わった彫刻師が保養に訪れて造営したとも言われており、それが事実なら380年近い年代ものということになる。
ちょっと手ブレしてしまったが、鬼板(鬼瓦というべきか?)。
側面は梅、龍、仙人、天女、稚児などの透かし彫りで埋め尽くされている。那須塩原市のホームページでは東照宮に匹敵する……などと書かれているが、たしかにこのレベルの高さをみると誇張ではなさそうだ。これだけのものがこんな山奥にあるというのも不思議なものである。
わずか一間(1.8m)四方に込められた贅を尽くした装飾美。彫刻に凝った神社の造営などは相応の費用負担が必要なはずで、逆に考えればこれが作られた当時の三斗小屋にはそれに耐えうるだけの財力と人の往来があったということなのだろう。・・・まさに 「今は昔」 の物語である。
暗い鞘堂から出るとあたりのまぶしさが一層きわだって感じられた。神様の敷地から見下ろす山々もなかなかオツなものだと思いながらしばし時を過ごし、山を降りた。
さて今夜は殺生石で御神火祭がある。三斗小屋で温泉に入れないなら板室あたりで一風呂浴びて祭りに向かおう。そんなわけで御神火祭のレポートになるのだが・・・長くなるのでそれは別項で報告することにしようヽ(´ー`)ノ
<完>