2007.05.26 三斗小屋(その2)
■地蔵と墓石
石仏からまもなく、三斗小屋集落の人々の眠る墓地が現れる。廃村から長い年月が経ち、すっかり木々に埋もれ古い墓石や石仏は倒れたままになっているが、新しい墓のいくつかは清掃した跡がある。今でも墓参している人はいるようだ。
墓を守る六地蔵はすべて首が落とされており、代わりに路傍の石が載せられていた。左から2体目の地蔵尊は銃弾を受けたような傷跡がのこっている。これは戊辰戦争の痕跡なのだろうか。首に関しては凍結によって石が割れた可能性もあるが、はてさて。
その戊辰戦争の戦死者の墓は、地蔵尊の隣に建っていた。戦死若干墓……とのみ書かれた墓石は新政府軍、会津軍、または犠牲になった村人のいずれを弔ったものか判然としない。
三斗小屋は当初会津軍の駐屯地だったために、村人は会津軍に使役される立場にあった。しかし戦闘は新政府軍の勝利に終わり、宿場は全焼、会津軍は大峠の向こう側に撤退してしまう。そして戦闘後に新政府軍の支配下に入ったとたん、村人は賊軍に協力したとして罪を問われるのである。なんと不憫なことだろう。
罪人とされた者の墓を堂々と建てられたかは、わからない。しかしその殺され方から言って、村人がなんらかの遠慮をしたであろうことは想像に難くない。筆者的には 「若干」 の中に新政府軍によって殺害された村人がカウントされていて、昔の隠れキリシタンの如くこっそり供養が行われたのではないかと勝手に想像している。
■ 三斗小屋宿跡
さて墓地から100mほど先に灯篭がみえてきた。あそこが三斗小屋宿跡地である。
まるでそこだけ別世界のようにぽっかりと開けた広場に、灯篭と石組みが残っている。向こうに見えるのが大倉山で、あそこを越えるともう福島県下郷町である。
道路に沿って石組みが2列に並んでいるのは、かつて街道の真ん中を流れていた水路跡である。どうやら馬の水場+洗い場を兼ねた構造だったらしい。汚れ物を洗う御垢離場は川下側に作られていた。
戊辰戦争後の三斗小屋宿の状況が案内板に書いてあった。幅40cmの水路を挟んで左右に3.6m(2間)の道路・・・上下合わせて幅7.6mといえばかなり立派な道路といえる。
この図では家屋数は15戸だが、戊辰戦争前の最盛期には24戸(一説では40戸とも)の規模であった。現在の市町村感覚では少なく感じられるかもしれないが、江戸時代の山村で24戸というのはそれなりに大きな部類に入る。ほとんど農地の確保できない立地で第三次産業(今風にいえば運輸サービス)で食っていたのだから大したものなのである。
宿の基礎知識は記念碑を呼んでいただくとして・・・
旅と写真のサイトとしては、説明写真ばかりではなくちゃんとそれなりの構図の絵も載せておかねば。 ちなみにこの灯篭に刻まれている 「白湯山」 というのは茶臼岳の別称である。
那須においては山岳仏教(修験道など)の一派として白湯山信仰と黒滝山信仰というのがあった。いまではすっかり廃れてしまったけれども、かつては白装束の行者が山を登る登山基地も兼ねていた。
集落の北側には大日如来像が智拳印を結んでいた。弘法大師空海に由来する山岳仏教の守り本尊である。山岳信仰のあるところには大抵この仏が祀られている。
修験道で信仰の対象となる不動明王も実は大日如来の化身のひとつとされている。白湯山信仰においても大日如来がその中心であったようだ。
…それにしても、この季節にくると本当に爽やかな高原という感じだなぁ。
ちなみにこの付近の標高は1100mほどある。車止め付近が840mくらいなので都合260mほど上がってきたことになる。三斗小屋温泉まで上るとおよそ1470mになる。
宿場跡から100mほど上ると、白湯山神社があった。・・・そう、「あった」 というべきなのだろう。現在は鳥居と石造りの小さな祠があるのみで、かつての社殿はない。
足元には、苔むした角材とトタンが散乱していた。社殿は朽ち果ててしまっているのだ。
神社を過ぎると、かつての街道は草木に埋もれており、三斗小屋温泉に向かう登山道のみが続く。宿場跡から300mほどで道は河原に落ち、そこに那珂川源流の碑が立っていた。
水は冷たく、うまいヽ(´ー`)ノ
多少後味に苦味が残るが、これはミネラル分を多く含む湧き水に特徴的なものである。
さて、ここでちょっと思案のしどころである。
3,4年前までは日帰り入浴できた三斗小屋温泉なのであるが、最近日帰り入浴を受け付けなくなったという話を聞いた。これが本当であれば、ここから先に登る意義は半減してしまう。
……が、それを確認するのも目的に入れて、ひとまず登ってみよう。風呂がダメでも、写真ネタが撮れればOKと割り切ってGO!だ。
<つづく>