2007.06.23 三島 (その1)




今年は花鳥風月というより歴史探訪っぽい展開になっている本サイトですが(笑)、今回は西那須野駅前の開拓地である三島地区を走って参りました。




三島はJR西那須野駅の西口から1kmほど進んだところに広がる開拓農地跡である。明治維新とともに新政府直轄地となった那須西原の南端近くに位置し、開拓時代には三島農場の中心地であった。

「三島」の名は廃藩置県にともない誕生した新生"栃木県"の県令、三島通庸のものだ。三島はこの地に農場を所有し、東北開発(三島は福島県令、山形県令も兼ねていた)の一端として陸羽街道(R4)、塩原街道(R400)などの道路整備を行っている。

三島はここに碁盤の目状の条里区画(※)を長編1.6km、短辺1kmにわたって設け、開墾を進めていった。1区画はちょうど1町歩(≒1ha)に相当し、水の供給は那須疏水第3分水に依存している。地区内には学校や病院、警察署なども配置され、ほぼ同時期に開業した東北本線西那須野駅前(開設当時は那須駅と称した)である立地と併せ、当初からある程度の都市開発を織り込んでいたものと思われる。この時期、同様の試みは十和田(青森)、札幌(北海道)などでも行われている。

今回は、そんな三島地区をふらふらと見て回ろう。

※ここでいう条里とは碁盤の目状に区切ったという程度で、律令の班田とは異なる。
※念のため説明すると「国道4号」と「R4」は同じ意味になる。RはRouteの略。大文字は国道、小文字は県道を表す。地図を読むときの決まり事なので良い子のみんなは覚えておこう。




■開拓の本気度:幹線道路が切り替わった明治期




さてまずは幹線道路:陸羽街道(R4)の状況を図で示してみたい。現在のR4は明治時代初期には国道6号線とされ、そのルートは明治18年時点では 宇都宮-白沢-上阿久津-氏家-喜連川-佐久山-太田原-鍋掛-芦野-白坂 とほぼ旧奥州街道そのものであった。これが大正年間の内務省告示では 「国道4号線」 の表記となっており、路線も 宇都宮-上阿久津-氏家-片岡-矢板-三島-東小屋-高久-小島-白川(白河) と那須野ヶ原の新開拓地経由に切り替わっている。実際には明治18年の時点で三島は新ルートの開削を強烈に押し進めており、内務省令はそれを後追いした格好だ。

道路だけではない。東日本を縦貫する東北本線もほぼ国道4号線に添って敷設され、物流の幹線が開拓地寄りに切り替わった。同じ時期に那須疎水も開通して農業基盤の整備が進んでいる。

これらは関東圏で最大の低利用地であった那須野ヶ原を、殖産興業のモデルケースとするべくして行われたものだ。開拓予定地はほぼ国有地で面倒な権利関係がなかったため、利害関係にうるさい旧街道添いの宿場町は捨て置かれ、物流インフラは完全に開拓地シフトで整備された。その方法論は、まず計画的に道路を遠し、区画を割って開拓者を入植させるというもので、思想的には北海道開拓に類似する。三島農場は、その中核として位置づけられていた。




さて前置きはともかく走ってみよう。ここはR4とR400の交差点である。R400は現在はカギ状にカクカクと接続しているが、これは後のバイパス化によるもので、本来の道のつながりとしては現在のr317がオリジナルのルートである。


 

■開梱記念碑




碁盤の目のほぼ中央、栃木銀行とスーパーみますやの向かい側に開墾記念碑が建っている。まずはここから見てみよう。




全部漢文なので読むのがちょっと大変なのだけれど、下野之那須野ハ廣袤壱萬余町砂礫偏野地多ク不毛ニシテ・・・と書き出してあるのが読める。

那須野の開拓は、那須疏水の開削だけで当時の国家予算の土木費の1/10を投入した一大プロジェクトであった。そこに国道6号線(現:4号線)開削、東北本線敷設を組み合わせると相当に気合の入った事業であったことが伺える。




開拓記念碑の脇には、塩原街道(R400)、新陸羽街道(R4)の開通式が行われた旨の案内標識が立っている。東京からR4を北上してくると、ここが白河方面(R4)、会津方面(R400)の分岐点になっていた。三島は栃木県令の他に山形県令、福島県令を歴任しており栃木-福島-山形を産業道路で結びたい思惑があった。その交通の要衝に、ここは位置している。




この時期、まだ三斗小屋を通る会津中街道は健在のはずだが、三島の構想では那須と会津を結ぶ街道としては塩原街道(R400)が優先していた。産業振興を考えた場合、すくなくとも荷馬車が通れる道路品質が必要だと三島は考えたのだが、会津中街道は峠越え(標高約1400m)の前後が登山道並みの急峻さで使いにくかった。それに比べたら塩原ルート(標高860m)のほうが現実味があるという判断だったらしい。




■那須野ヶ原博物館




さていきなり時間帯は夕方に飛ぶ(笑)。突然仕事をぶん投げられて夕方まで臨時出勤していたのである。底辺労働はこれだから(以下省略)。

それにしても、こうして普通に眺めているぶんには普通の道路である。地図をみてはじめて気がつく都市計画・・・というやつなんだろうなぁ。




夕方になってしまったので那須野ヶ原博物館も閉店時間。ちょっと惜かった・・・(^^;)




■三島神社




さて少々移動して、ここは開拓地の鎮守となっている三島神社である。碁盤の目の塩原寄りの端部に位置している。

いまどきのニュータウンには神社仏閣があろうとなかろうと気にしない派の人が多いと思うけれど、明治の頃(というか昭和の前半くらいまで)は集落単位で鎮守の社があるのは当たり前であった。振興の開拓地も同じで、人があつまればそこには神社が必要とされたのである。祭神は、豊受大神、三島大神、保食神となっている。




神社の内部には開拓地の功労者の写真が並んでいた。この神社は開拓関係者も神として祀られているのが特徴で、三島家の面々の他、開拓初期の入植者133柱も合祀されている。こういう実在の人物を神として祀るのを人神という。古くは菅原道真(天神様)などがいるが、普通の農民まで神様にしているのはちょっと珍しい。




三島通庸ご本人もその1柱として祀られている。彼は土木県令、鬼県令などと揶揄されながらも、山形/福島/栃木の県令を相次いで務めながら陸上輸送路の整備を推し進め、近代的道路網の建設に務めた。明治期における栃木県の産業の枠組みはだいたいこの人が種を撒いている。




■碁盤の目の区画を行く




ではいよいよ碁盤の目の中を巡ってみよう。基本的に道路幅は4mほどである。現在の感覚からするとやや狭い路地裏的な道路にみえるかもしれないが、維新以前の道路事情に比べたらこれは充分近代的な規格であった。

たとえば塩原街道開削のとき、古い街道は幅1間(1.8m)程度の本当にただの登山道のようなものであり、場所によって幅も一定しなかった。これを 「馬車がすれ違える規格」 ということで4mほどの一定幅の道路に置き換えたのである。この条理区画の中も同じ基準で道が通された。

※安藤広重の東海道五十三次を見ても当時の街道事情はまあそんなところかと思える。江戸幕府は公式には大街道は6間(1.8x6=10.8m)、小街道は3間(5.4m)、馬道は2間(3.6m)、歩行路は1間(1.8m)という基準を設けていたが、大動脈である東海道でさえ規格通りにつくられたのは江戸近傍の20km圏くらいであった。




ちなみに現在の道路運送車両法では車幅の最大値は2.5m(大型トラック等)と規定されている。乗用車は概ね1.8m以下(軽自動車は1.48m以下)で、馬車を基準にした4m道路でもなんとかすれ違うことができる。

余談になるが建築基準法でも家を建てる際には幅4m以上の道路に面していることが条件(※)になっている。この点でも三島の碁盤の目の区画は21世紀になってもちゃんと機能しているわけだ。

※緊急車両の通行のため幅4m以上の道路が規定されている。




さてもう少しウロウロしてみよう。 いまではすっかり宅地化された碁盤の目だが、もとが農地なだけにところどころに空き地や田畑も残っている。




駅から離れたところではまだ水田区画もあり、かつての風景を想起できる。明治初期には電柱もなかったから、本当にシンプルな景観だったことだろう。

江戸時代にはこんな道幅のある風景は珍しかった。 「年貢を絞り取れ」 というばかりの統治では、農民側も対抗して作物を植える面積を限界まで増やそうと畔(あぜ)を削り込んでしまう。そうなると道路に使える土地はどんどん細くなってしまう。




参考までに区画整理の行われていない古い地割の農地を紹介してみよう。畔をどんどん削り込んでいくと水田はこんなふうになってしまう。これでは近代化にならぬ、ということでR4、R400を農場内に取り込んで 「道路とはこういうものだ」 と示しながら物流路規格で条里を区切ったとするなら、その手腕は見事というほかない。

そしてこういう一種の社会実験的な土地活用法は、大田原など旧街道沿いの人口密集地では既得権益と衝突してうまくいかなかっただろうとも思う。

ここで殖産興業を展開したのは、やはり正解だったのだろうな。

<つづく>