2007.06.23 三島 (その2)
■烏ヶ森神社へ
碁盤の目の西側に抜けると、蓋をされてすっかり暗渠(あんきょ)になってしまってはいるけれど那須疏水の第3分水が流れている。すこし上流の千本松では水道水の原水として使われている流れだ。この付近の開拓が成就したのもすべてこの水があったからこそである。
その疎水の流れを横切って200mほど西行すると烏ヶ森公園がある。現在では桜と紅葉の名所となっているが、公園の中心となっているのは烏ヶ森神社である。こちらは三島農場に隣接していた那須開墾社側の領域になる(※)
※三島農場との境界部に神社があるので三島側もいくらか出資していた。
現在では幹線道路からの利便性重視でR4側の駐車場から登る道が参道のような格好になっているけれども、那須開墾社側から伸びる道が本来の参道であるらしい。神社は標高297m(起伏としては40m弱)の小高い丘陵の頂上にある。
今回は三島の切り口で来ているのでミーハーな南端側から登ってみよう。
これが烏ヶ森神社の社殿である。創建は平安中期の頃と言われ、当初の姿は稲荷神社であった。神社を建てたのは4kmほど南東にいった石上の農民と伝えられる。
4kmとはいささか距離があるような気もするけれど、那須野ヶ原は起伏のない平坦な原野だったので神様を祀る小高い地形を探すとここまで来るしかなかったということらしい。それが開拓神社の性格を帯びるのは、明治14年の明治天皇東北行幸以降のことである。
東北行幸の際、ここを訪れたのは天皇名代としての有栖川織仁親王であった。現在も神社に掛かる扁額は親王の書によるものだ。行幸の理由は開拓地を見渡すのにちょうどよい丘だった……というものだが、それまではただの村社でしかなかった稲荷神社が、これでいきなりステータスアップしてしまった(笑)。
この行幸に先駆けること2年、明治12年に後の内閣総理大臣伊藤博文、松方正義がここを訪れ、那須野ヶ原を視察、開拓事業への協力を約束している。これまた開拓地を見渡すのに(以下省略)な訳だが、これによっても神社のステータスは上がった。開拓民にとっては名誉であっただろう。
中央政府の有力者を説き伏せ、開拓事業を推進したのは、地元名士の印南丈作、矢板武であった。いずれも平民出身だが、このうち初代社長の印南丈作は戊辰戦争の際に官軍に従軍した功績があり、補給部隊の采配で有能だったため維新の志士への覚えがめでたかった。これが初代県令:鍋島幹(佐賀藩士)との懇意につながり、さきの伊藤博文、松方正義の視察の伏線になっている。
ちなみに三島県令も維新の際には鳥羽伏見で戦った武闘派だが、那須での戦いの時期には山陰道鎮撫総督:西園寺公望の配下にあって西日本にいた。その後新政府に招かれて江戸改め東京に移り、那須野ヶ原開拓に関わるのは明治13年頃からになる。そのような次第で開拓事業そのもの着手は印南丈作の方が早い。
いまでも神社内に肖像の飾られる印南、矢板の2名は、その功績を認められ、ともに神としてこの神社に祭られている。祭神の表記をみると、天照大神、豊受大神、倉稲魂神に並んで印南丈作大人命、矢板武大人命とある。
神社の脇には、その印南丈作の功績を讃える碑が建っている。
これも漢文なので全部読むにはいささか根性が必要だが、撰文(漢文を書いた人)は枢密顧問官佐々木高行侯爵、文字を起こした書家は貴族院議員金井之恭(明治三書家の一人)と、かなりの地位の高い人が関わっている。
こうしてみると、印南丈作は単なる地元の大親分という以上に、それなりに中央のお偉いさんを引っ張って来るだけの影響力をもった偉い人だったことが伺える。これだけの功績を残しながら、学校の授業では那須疎水をつくった人…という程度でサラっと流すくらいにしか紹介しないのは、筆者的には非常に勿体ないことのように思う。
おお……そうこうしているうちに、雲が晴れてきた。
境内に夕日が差し始める。
日没の間際、神社の参道脇から暮れ行く三島の市街地を眺めてみた。碁盤の目の区画に、現在は整然と住宅が並び都市景観をかたちづくっている。もとは農地だったのにいつのまにかミニ平安京みたいな条坊都市になってしまった。
さて印南、矢板らが着手し、三島が政治力をもって推し進めた那須野ヶ原開拓の結果は、はたして彼らが望んだ形で結実したのだろうか。
そんな訳で、最後に碁盤の目の北端から見る夕暮れを撮ってみた。澄んだ青空に夕日のグラデーション。旅と写真のサイトらしく、やはり最後は写真で絞めよう。
<完>