2007.06.28
沖縄紀行:琉球八社を巡る -1日目ー (その2)




■ 沖宮(おきのぐう)




そんなわけでまずは沖宮を訪ねてみよう。沖宮は現在は奥武山公園の南端ちかくに鎮座する古社である。もとは那覇港に祀られていたが、都合により何度も転居を重ねたうえで現在の地に落ち着いている。

神社の体裁が整う以前には何らかの御嶽(うたき)のような原型があったのだろう。それは沖縄では洞窟であることが多いのだけれど、都市化した那覇市内ではかつての原型は失われている。




さて公園内は南国らしい木々が並ぶ。この公園は陸上競技場、プール、テニスコート、野球場、武道館etcを包含しており非常に広い。

日差しは目茶目茶に強烈だ。梅雨の那須からやってきていきなりこの日射を浴びると、5分で水分が飛んで日干しになってしまいそうな気分になる。そして冗談ではなくスポーツドリンク類の携帯は欠かせない。筆者は山歩きをするときは水分補給量を2L/dayと見積もっているのだけれど、沖縄では暑さのおかげで倍くらいは必要な気がする。




見れば南国らしい真っ赤な花が咲いている。これは鳳凰木(ほうおうぼく)というらしい。今頃がちょうどシーズンの初めの頃のようで、今回の旅でもハイビスカスに次いでよく目にした。




駐車場からえらく遠回りしていくと、公園の奥まった一角に沖宮はあった。見れば公園内のプールに隣接して少々窮屈な立地になっている。このあたりは転居組の悲哀みたいなものだろうか。




階段を上って、拝殿を見る。白木作りの質素な社殿である。日本の神社とテイストが異なるのは、かつて琉球国であった頃の意匠を継いでいるものだ。

沖宮の祭神は天受久女龍宮王御神(天照大御神)、天智門女龍宮大御神、天受賀女龍宮大御神、そして熊野三神である伊弉冉尊(いざなみのみこと)、速玉男尊(はやたまおのみこと)、事解男尊(ことさかおのみこと)となっている。前者3柱はいずれも女性の神で、ここは宮司さんも女性である。




琉球史料叢書によると、沖宮の縁起は次のようなものだ。

あるとき、那覇港内の水底に赤々と光り輝くものがあり、国王が城中よりこれを見て奇端、奇妙なりと漁民に命じて引き上げさせたところ尋常ならざる古木を得た。翌夜からふたたび水面に光が現れたので益々尊信をふかめ、これを熊野権現垂跡の霊木であるとして宮社を建て祀った。

神社の創始年代は不詳だが王様が登場するからには、すくなくとも琉球に統一王朝が生まれた15世紀以降であろう。また何の脈絡もなく熊野権現が登場しているのは、当時の琉球では御利益さえあれば異国の神様でも何でもいいから "とにかくお祀りして霊験カモーン!" なノリがあったというもので、それを紹介したのは後述するように当時琉球に出入りしていた真言宗の僧であった。




沖宮は明治時代までは那覇港第一桟橋に鎮座していた。明治41年の港湾拡張工事に伴い安里八幡宮敷地内に移転し、そこで太平洋戦争により焼失し、戦後は安里から一時通道町に仮遷座した後、創建時に祀られた霊木の根が奥武山にあるとして昭和50年に現在地に遷座している。公園が出来たのは昭和30年代なので、あとからやって来て隙間に収まったという形になったらしい。

現在の沖宮は奥武山御嶽と習合する形で存続しているようだ。この御嶽との習合は沖縄に独特のものである。沖縄には祖霊信仰や自然神信仰が今も生きており、それらを祀る、あるいは迎え入れる聖地を御嶽(うたき)という。

その多くは洞窟や岩などの自然物を中心とした空間で、日本本土の古神道(社殿ができるより以前)と共通点が多い。また基本的に男子禁制であり、祭祀は主に女性によって執り行われた。沖縄の神社信仰はこのうえに増築を重ねるようにして載っている。




平日の日中は訪れる人もいないらしく、社務所は電話呼び出し式になっていた。せっかくなのでお札をいただこうと呼び出してみると、女性の宮司さんが現れた。格好は、ノロかユタのような白装束である。

どうして沖縄に熊野権現が?と質問してみると、14世紀頃に本土から真言宗の僧が訪れたのがきっかけだと教えてくれた。記録残っているのは薩摩一乗院からの頼重法印の来航(1367)が最古の ようで、説明書によれば琉球七宮(八社とは微妙にちがう?)を"再興"しつつ布教を行ったようだ。うーん、最初はてっきり15世紀の長寿宮が第一号だと思っていたのに、14世紀までさかのぼれるわけか。




ここでいう "再興" というのは、おそらく琉球に古くからあった信仰に密教である真言宗が食い込んでいく過程を、真言宗の側から見ているものだろう。

日本本土では8世紀頃にはすでに本地垂迹説によって神と仏は一体であるとの解釈が定着しているが、琉球における真言宗の布教にあたっては沖縄古来の信仰(アニミズム的なニライカナイ信仰やアマミチュー信仰など)を土台にしつつ、従来からあった古琉球の聖地=御嶽(うたき)を神社に見立てて隣接して別当寺を建てるという方法論がとられたのだと推測してみる。

ちなみに、沖縄では仏教はそれなりに市民権を得てはいるものの、檀家制度(※)がないので住民は特定寺院とつながっているわけではない。また墓は丘陵地などに一族単位で大きな亀甲墓をつくっており、やはり特定の寺院の敷地にあったわけではなかった。

こういう一族単位の祭祀空間では、なかなか他宗派への乗り換えはおこらない。こういう素地のところに入ってくる新宗派は、結局のところ既存の土着信仰と融合して境界を曖昧にしていくのが最適解となる。日本では古神道に仏教が乗る形で浸透したし、沖縄ではまず御嶽に古神道が乗り、そこに仏教がさらに乗るという形になった。熊野三神は仏教からみれば阿弥陀如来、薬師如来、千手観音となる訳だが、果たして当時の琉球人にその意識があったのか……なんとも興味深いところだ。

※檀家制度は1633年、徳川幕府によるキリシタン禁止令の一端としてすべての国民を仏教寺院の信徒として登録させたことから始まったが、当時異国であった琉球には適用されていない。




それはともかく、とりあえずお札第一号をGET。よくみるとキャッチフレーズも "敬神崇祖" で、神と同時に祖先も敬えとあるな。




ところで、せっかく宮司さんをつかまえたので境内にあったこの植樹についても聞いてみた。沖縄で "天皇陛下" などという語句を使うと、いきなり火炎瓶を持ったゲリラに囲まれて半殺しにされるようなイメージがあったのだが、大丈夫なのだろうか?

「そんなもの、ないですよ」 ……と、宮司さんは仰った。選挙をすれば反日知事が誕生してしまうような素地はあっても、日々の生活で破壊活動に勤しむような暇人はいないらしい(何)



 

■権現堂



沖宮に隣接して、権現堂が建っていた。斜面に沿っているので沖宮拝殿からは一段下がったところに位置している。権現(ごんげん)とは仏が神の姿をして現れたさまを指すもので、神道の立場にたつ神社に対し、仏教の立場から神仏習合を説明する施設ともいえる。




権現堂の内部は非常に興味深い空間となっていた。手前にある木魚と奥に並んだ仏像(観音菩薩)は明らかに仏教的な世界観なのだけれど、その上には注連縄が張られ御幣が下がっていて神道の香りがする。同じ場所に七福神と神棚もあったりして、まさに沖縄的チャンプルー空間だ。




説明書によれば、並んでいるのは十二支の祖親ということになるらしい。十二支といっても御先十二支、中十二支、今十二支と3種類があり、それぞれが4つのグループに分かれて合計12の本尊となっている。なんだか複雑そうで理解するのは少々大変そうだな・・・




なお七福神のうち弁財天だけは別宮として手厚く祀られていた。

この弁財天は七福神としての顔以外に木龍宇具志久乙姫王(もくりゅううぐしくおとひめおう)、辨天負百津姫神(べんてんよもつひめかみ)の名を持つ。前者は龍宮城の乙姫様(=竜神)であり、後者は沖縄土着のノロ(祝女)の神だ。

なるほど、こうしてみると沖縄の神社は明治の神仏分離令以降も 「習合」 の状態を長く維持し続けてきたことが伺える。切り口によって仏教的にも神道的にもニライカナイ信仰的にも見えるのだけれど、実は全部つながっていて根っこの部分は一緒なのである。本土では既に失われてしまった、神仏分離以前の古い信仰の姿が、ここには色濃く残っている。



権現堂に流れる静かな時間。もうしばらくゆっくりしたいけれど、次を目指すことにしよう。


<つづく>