2007.06.28
沖縄紀行:琉球八社を巡る -1日目ー (その4)
■ 平和祈念公園(へいわきねんこうえん)
続いて南部戦跡として平和祈念公園を目指しR331を南下する。沖宮と護国神社で時間を使いすぎたのでサトウキビ畑でマターリ・・・な写真は明日以降に延期だな。早くしないと資料館が閉館時間になってしまうぞ。
ひめゆりの塔も10年ぶりくらいに入ってみようかと思っていたけれど、今回はパスだ。
そんなわけでやってきた平和祈念公園。「記念」 ではなく 「祈念」 の字が当てられているのが特徴的だ。修学旅行などでも定番の南部戦跡の中心的な見どころである。しかし表面的なデザイン性の美しさとは裏腹に、深く暗い 「沖縄の病(やまい)」 が見える場所でもある。
正直なところ、南部戦跡に来るのは実に気分が重い。いろいろな意味で重苦しいものを見ることになる。しかし今回の旅のテーマ 「沖縄の信仰と心の旅」 を考えたとき、やはり現在の沖縄を一端を構成するシンボリックな場所として、無視するわけにはいかないと考えた。青い海と空の能天気な旅行記を期待したい御仁には、ここを飛ばして波之上宮編に飛んでいただきたいと思う。
そんなわけで、重苦しい編のスタートとしよう。いささか文字数が多くなるけれど戦史的な記述は省略できないのでご勘弁をいただきたい。
さてこの公園の "絵" としての見所は 「平和の礎」 である。公園のデザイン的にもここが中心になるように施設が配置されている。さて早速入ってみることにする。
すっかり西日になった中やってきた平和の礎(いしじ)。戦没者一人一人の名を刻んだ石碑が並んだ光景は、今では南部戦跡の象徴的な風景となっている。実はいろいろツッコミどころはあるのだが、施設全体のデザインとしては秀逸である。
前回来たときよりも樹木が成長していてちょっと印象が変わってしまったかな。。。もうすこし枝位置が上がって石碑が見渡せるようになると構図的にうまくまとまるのだけれど、こればかりは仕方がない。
碑のエリアを進んでみる。放射状に並んだ石碑の列の中央にモニュメントがあり、その向こうは断崖絶壁になっている。この日は平日のせいか観光客はまばらで、潮騒の音だけが静かに響いていた。
公園から見渡す摩文仁(まぶに)の断崖。沖縄戦では米軍は宜野湾付近に上陸し、首里付近で激しい市街戦を展開して沖縄守備隊(第32軍)の指令本部を陥落させた後、日本軍と避難民を南部に追い詰めていった。
日本軍としては洞窟(ガマ)や樹林帯の多い南部に入ることでゲリラ戦術を取りつつ持久戦に持ち込む意図があったようで、物量的に劣勢な状況下にあってそれは決して非合理的な判断ではなかったように筆者には思われる。硫黄島の戦闘に見られるように日本軍はゲリラ戦に於いては驚異的な粘りを発揮するからだ。
しかしここで予想外の事態が発生することになる。大量の戦時難民である。那覇、首里などの都市部住民が同時に米軍に追い立てられ、日本軍の陣地になだれ込んできた。これが日本軍の作戦行動の大きな足かせとなっていくのである。
ここで、南部戦線の話を少ししたい。
筆者的には米軍は意図的に一般市民を日本軍の立てこもるエリアに追い立てただろうと考えている。この際、純軍事的には善悪論とか人道論とは関係がない。持久戦モードに入った敵軍を疲弊させるには、大量の非戦闘要員を抱え込ませて兵糧攻めにするのが最も効果的な方法だからだ。
そして日本軍は絶望的な状況においこまれた。大量の一般民衆を見捨てれば住民感情の離反を招き兵士の士気も落ちる、逆に抱え込めば戦闘力も持久力も落ちる。まさに鬼畜の作戦だが、効果は絶大だった。むしろ日本軍は自軍兵員の2倍もの非戦闘要員を抱えてよく耐えたといえるだろう。
ところで沖縄守備隊が苦戦しているとき、日本本土側はどう対応したのだろう。もちろん沖縄の窮状を見捨てたりはしなかった。東シナ海付近の地図を広げてみればわかるとおり、沖縄は地政学的にまさに戦略拠点である。帝国陸海軍は方針が一定しないなどいろいろ問題はあったにせよ、沖縄の防衛には当時持ちうる戦力のかなりを割いて投入している。 米軍の侵攻に対しては本土からは鹿児島県知覧などの基地から無数の特攻機が沖縄防衛のために散華しているし、連合艦隊の最後の残存兵力は戦艦大和を主軸にやはり特攻ともいえる悲壮な出撃をした。
沖縄防衛を目的としたこの作戦は 「菊水作戦」 とよばれる。Wikipediaの記述によれば、沖縄周辺で特攻した軍用機は海軍機 940機、陸軍機 887機の合計1827機にのぼり、その死者は海軍では2,045名、陸軍では1,022名に及ぶ。艦艇では戦艦大和一隻だけでも2,740名が戦死している(艦艇全体の戦死者数は調べてみたがよくわからない)。
菊水作戦は1号作戦から10号作戦まで実に10次にわたって繰り返された。これによる米軍艦艇の撃沈は実に36隻に及ぶ。しかしそれでも戦況の大勢は覆らず、沖縄本島では3ヶ月に及ぶ戦闘の後、第32軍の牛島司令官の自決によって組織的な戦闘が終結するのである。
陥落間際の戦闘状態で、よく宣伝されている日本軍による住民殺害行為があったかどうか筆者は判断する材料を持たない。当時の在沖縄兵力6万余の兵士が全員聖人君主で高貴な人間だったかといえば統計的にそんなことは無いだろうから、極限状態での個別例をしつこく探していけば何かしらの事例はみつかるかもしれない。
しかし、ここに刻まれた犠牲者のうち何%がそれに該当するかといえば、どう考えても主流を占めるとは考えにくい。日本軍は米軍と戦争するのに忙しかったのであって、貴重な弾薬を自国民殺戮のために使う合理性は見出せない。そのような説が流布されるのには、ある特定勢力の意図が働いてのことである。
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その代表的な震源地、平和祈念資料館。前回来たときは公園の反対側にあったが、現在は面積10倍にパワーアップしてリゾートホテルを思わせる巨大な建物(2000年4月開館)になっている。九州・沖縄サミット(2000年7月)に合わせての新装オープンだったようだが、結果的に公的資金が特定思想のプロパガンダ施設に流用される代表事例のようになってしまった。
もう日も傾いて4時を回ってしまっている。閉館時間は5時。閉館30分前には入場制限されてしまうので滑り込み入場した。以前は沖縄県庁の知事室の下に平和推進課というのがあって2ch的にいえば 「電波を発信」 していたのだけれど、現在は組織が変わって平和・男女共同参画課というのが創設され、その下にある平和推進班というのが平和記念資料館を運営している。
前振りとして多少状況を整理しておくが、ここは沖縄戦跡国定公園である。ただし国定と名がついても名勝旧跡などを 「国が指定する」 というだけで、運営の実態は沖縄県が行っている。ここはその国定公園内の、沖縄県庁が管轄する施設である。よって展示内容には沖縄県庁の思想傾向が非常にストレートに出ていると思ってよい。
さてでは 「沖縄の心@沖縄県庁版」 をみてみよう。それは2階の常設展示室にあって世界に向けて発信されている。
※注意:やっぱり青い海と空のほうがいいよ~、という方はここを飛ばして波之上宮編にどうぞ
<つづく>