2007.06.29
沖縄紀行:琉球八社を巡る -2日目ー (その10)
■ 渡嘉敷島から去る
1日2便しかないマリンライナーで渡嘉敷島を発ったのは、午後5:30のことだった。
それにしても、何も考えずに景色だけ楽しむつもりで来たのに、結局戦争ネタが結構入ってしまったなぁ。
これ以上戦争ネタを引きずらないために、ここで簡単な総括をしておきたい。
……実は、出航前、ささやかな "出会い損ね" があった。
港の待合室の2階にあった、小さな資料館である。実はここには、赤松大尉の軍刀や士官学校卒業時に恩賜された銀時計が大切に展示されていたのである。この写真を撮っているとき、筆者はそれを知らない。余ったフラッシュメモリの容量を使い切るべく、手当たり次第に撮っていたなかの1枚だ。
戦跡碑のくだりで、昨年8月末に琉球政府の元係官がある証言をした、と書いた。産経新聞WEBの記事は流れてしまっているので、参考に "正論" 誌の記事をリンク(その1、その2)しておこう。
資料館は閉鎖されていた。都合により、としか書いていないが、状況は想像できる。集団自決報道については現在事実関係をめぐって裁判が起こされていて、どうやら従来言われてきた日本軍鬼畜説が覆りそうな勢いである。
"強制命令があった" ことにしないと都合の悪い連中は、それを防ごうとネガティブキャンペーンをはじめている。たとえば一番最初に渡嘉敷島の集団自決をとりあげ、著書 「鉄の暴風」 で日本軍を悪魔のように描いて見せた沖縄タイムス社などは、その筆頭といえるだろう。可哀想なことにさっそく証言者氏は災難に遭った模様で、こんな事例をみるとジャーナリズムっていったい何なのやら・・・との所感を持たざるを得ない。
このレポートを書くにあたり、調べてみて分かったことがある。集団自決命令説の原本になった 「鉄の暴風」 を執筆するにあたり、沖縄タイムス社はなんと現地取材をしていないのである。情報源は渡嘉敷島出身者2名(それも米軍上陸時には島に住んでいなかった人物)から聞いた伝聞情報でしかない。そして 「沖縄ノート」 で日本軍を鬼か悪魔のように書いた大江健三郎も、やはり伝聞情報を切り貼りしただけで現地取材をしなかった。
その後書かれた多数の記事や書籍についても、肝心な部分の表現がまるでコピペのように同一で、最初の 「鉄の暴風」 を孫引きしながら書かれたことが後に曽野綾子氏によって明らかにされている。自称 "正義のジャーナリズム" の実態は、こんなものだったのだ。
…それにしても、なぜ左翼ジャーナリズムは慶良間諸島(集団自決)にこだわるのだろう。
不思議に思って、平和祈念資料館の資料から "日本軍による住民犠牲" として人数の明確になっている事例(なぜか軍人でも野戦病院で死ぬと住民扱いになっているが、ここでは問わない) を集計してみてその理由がわかった。犠牲者総数は659名、そのうち慶良間諸島が555名で全体の84%を占めている。ここが崩れると、3ヶ月で20万人が死亡した激戦の沖縄戦で、日本軍によるものとされる犠牲者数が1日あたり1名程度になってしまい、叫弾ネタとしてのインパクトが無くなってしまうのである。慶良間諸島は日本軍悪玉説の論拠事例としてはまさに "大票田" なのであった。
慶良間諸島で集団自決とされている住民死亡の内訳は、平和祈念資料館資料では座間味島 171名、渡嘉敷島 329名、慶留間島 53名 となっている。渡嘉敷に次いで人数の多い座間味島の件についても強制説は覆りつつあるような動きがみえるが、慶留間島についてはいまもって軍命令があった説が強い。
まあ筆者は日本軍絶対正義説(なんだそりゃ)を証明するために旅をしている訳ではないので、事実関係の判断は裁判官氏にまかせれば良いと思う。戦争は殺し合いであって奇麗事では済まないし、当時と現在では世相も違う。重要なのは特定のイデオロギーに合わせて歴史を改竄することではなく、事実は事実として正確に記録する、という当たり前のことがどこまできちんとできるかだろう。
・・・ということで、旅先で出会った話題としてはこのあたりがツッコミどころの限界かと思う。ひとまずこの話題については、ここでいったん筆を置きたい。
それにしても、今日は密度の濃い1日だった。
ホテルに戻ってコーラを一気飲みしているとちょうど夕日がイイカンジになったので、展望スペースに上がってみた。望遠一杯で捉える慶良間の島影は、遠くの雲と同化してしまい判然としない。あそこにあるのは、美しい自然と、捏造された神話、そして島民の秘密……うーん、どうも下手な詩人具合ではうまく表現できないな。
ただひとついえることは、"神話" はまだ終わっていない……ということか。
<2日目:完>