2007.06.29
沖縄紀行:琉球八社を巡る -2日目ー (その9)
■ 集団自決跡地(しゅうだんじけつあとち)
その後は、とりあえずクルマをUターンさせるためのランドマークとして、国立沖縄青年の家に向かう。標高227.3mの渡嘉敷島の最高峰 "西山" の頂上付近に建つ多目的研修センターである。
さすが最高峰だけあって視界が通るな・・・
青年の家の全体MAPはこんな感じだ。人口700人かそこらの島にしては、妙に巨大なハコモノ施設で不自然さを感じてしまうのだけれど……それもそのはず、ここは米軍のミサイル基地の跡地なのである。
接収されたのは1960年、沖縄返還にともなって基地用地も返還され、米軍施設を再利用する形でここが整備されたのであった。 (※もちろんミサイル施設やレーダーなどは撤去されている)
もの凄く地味なので見落とすところだったが、その最奥地に集団自決跡碑があった。
勝手に敷地内をウロウロするのもアレなので、管理棟の事務員氏に聞いてみた。やはりあそこが現場なのだという。さらに言えばさきほど見た白玉之塔は、もとはここに建っていた慰霊碑だった。最初の白玉之塔が建立された後、米軍がこの付近一帯の土地を接収して基地を建設したためにやむなく現在の位置に移動したものだったのだ。
そして平成5年になって、当初の白玉の塔の位置に作られたのが現在の碑なのであった。普段は門が閉まっているが、入るのはべつに構わないというので行ってみることにした。船の時間まで1時間を切っているので急いで見ておこう。
それにしても……この味も素っ気もない事務机のような建物は、ミリタリー仕様から来ているんだな。 もとはみな軍事施設だったのだ。
かつての米軍基地と知ってか知らずか、どこかの若者のグループが広い敷地内でオリエンテーリングに興じている。これはこれで平和の象徴みたいなものだろうか……まあ、きっと結構なことなのだろう。
碑への案内板はあまりにも素っ気無く立てられていた。
その先に、コンクリートと鉄扉で出来た門。
ハブが入ってくるから扉を閉めろ云々……と書いてあるけれど、筆者には "ここに部外者がホイホイ入るな" という意思表示のように思えた。 許可はもらっているので、開けて入ってみよう。
・・・あれだ。
集団自決跡地・・・とだけ書かれた慰霊碑が静かに建っていた。
主碑の脇に、由緒について述べた碑がつくられていた。読んでみよう。
記
この台地後方の谷間は去る大戦において住民が集団自決をした場所である。米軍の上陸により追いつめられた住民は友軍を頼ってこの地に集結したが、敵の砲爆は熾烈を極めついに包囲され、行く場を失い刻々と迫る危機を感じた住民は 「生きて捕虜となり辱めを受けるより死して国に殉ずることが国民としての本分である」 として、昭和二十年三月二十八日祖国の勝利を念じ笑って死のうと悲壮な決意をした。
兼ねてから防衛隊員が所持していた手榴弾二個づつが唯一の頼りで、親族縁故が車座になり一ヶの手榴弾に二、三十名が集った瞬間、不気味な炸裂音は谷間にこだまし清水の流れは寸時にして血の流れと化し老若男女三一五名の尊い命が失われ、悲惨な死を遂げた。
昭和二十六年三月この大戦で犠牲になった方々の慰霊のためこの地に白玉の塔を建立したが、周辺地域が米軍基地となった為に移設を余儀なくされた。時移り世変ってここに沖縄の祖国復帰二十年の節目を迎えるに当り過去を省み戦争の悲惨を永く後世に伝え恒久平和の誓いを新たにするためここを聖地として整備し碑を建立した。
平成五年三月二十八日 渡嘉敷村
……現場に来て、はじめて分かることがある。
戦跡碑と同様、日本軍が自決命令を出したとする記述はなかった。そしてマスコミによって鬼か悪魔のように扱われた赤松隊は友軍と記されていた。
自決そのもは大きな悲劇であることは確かだ。しかしこれを読む限り、日本軍による強制というニュアンスはまったく伝わってこない。
使われた手榴弾は防衛隊員が所持していたもの、とある。防衛隊とは現地で臨時召集された兵員である。兵員ではあるのだけれど、家族/親族の同居する狭い島の中で戦闘をしている、という一点で本土から派遣された兵員とは異なった立場にあった。そしていよいよ追いつめられたとき、所持していた数少ない手榴弾が、家族に手渡されたということだろうか。
阿波連で見た戦跡碑に "そこにあるのは愛であった" と書いてあったのは、こんな背景もあったんだな。
慰霊碑の後方には、茂みのなかに消え入りそうな小道が続いていた。
……この先が "現場" である。
入ってみよう。
そこは、雑木の密集する急斜面だった。
しばらく降りていくと、谷筋に小川が流れていた。ここが、血に染まったという "清水の流れ" のようだ。
当初はもっと広い場所を想像していたけれど、こんな所だったんだな。ここに300人以上……いや、それは死者の数だから、生き残った者も含めれば500~600人以上はいたのではないだろうか。満員電車並みの密集状態で、"集団死" は起こったわけだ。
その評価は、あとから言い出せばアレやコレやと議論百出することだろう。でも一介の旅人に、それを総括するような資格はない。ともかく、仏様の冥福を祈ろう。南無南無。
谷間から上がってくると、元通りの強烈な日差し。
そして日本軍の陣地だったり米軍の基地だったりした山の頂は、今は日本政府の公共施設として、のほほ~んと一般人に開放されている。無駄に広くて何も無いのは米軍が整地しまくったからだと思うけれど、これはこれでだんだん渡嘉敷の風景のひとつに溶け込んでいくことだろうな。
もういいかげんタイムリミットが近いので、展望台で慶良間の全景を見渡してから港に向かうことにした。
西日にかすむ慶良間諸島。それぞれの島に、それぞれ悲喜こもごもの歴史があるんだろうなぁ。
1日で駆け回るだけではなく、機会があればもう少しゆっくり巡ってみたい。・・・そう思ってみた。
<つづく>