2007.06.30
沖縄紀行:琉球八社を巡る -3日目ー (その3)




■ 末吉宮(すえよしぐう)




コンビニ駐車で慌ただしかった識名宮を後にして、次は末吉宮を目指す。




末吉宮は首里城の北側にある末吉公園内に鎮座する古社である。末吉公園は "公園" とはいってもその大部分は森林で、都市化の進んだ那覇市内にあって自然のよく残るエリアといえる。

その敷地内は古くから御嶽、拝所、イベ(祝女:ノロが祈祷のため夜籠りする聖地)などが多く集積し、一大霊場を形成していた。末吉宮はその末吉公園の北端ちかくにあり、公園の正面からでは到達するのが容易ではない。よって、今回は裏側=北側の住宅街からアタックすることとした。




それにしても……安里八幡宮より凄い路地をクネクネと抜けていくアプローチだな。




その住宅街の奥まったところに末吉宮の入り口があった。ちなみに大名入口と書いてあるのは殿様専用エントランス(ぉぃ ^^;)ではなく、大名(おおな)という地名のところの入り口という意味である。

末吉宮建立は琉球天界寺の鶴翁和尚が日本本土に赴き修行したときに熊野権現を崇敬するようになったことに端を発するという。成立は尚泰久王代の1456年頃といわれ、縁起としては以下のような伝説が残っている。



琉球天界寺に鶴翁という和尚がおり、ヤマトに赴き修行をした。学問成就のあかつきには熊野を参詣すると誓ったものの、帰国後は琉球王の許しが得られず和尚はふたたびヤマトに渡れなかった。そうこうするうちに、あるとき夢に熊野権現が現れ 「これより北方の山に大声で呼び、応ずるところがあればそこに霊験があるだろう」 との宣があった。言われたとおりにしてみると、たしかに応ずる声がするが、そこは急峻な山で人の行けるような場所ではない。それでも登ってみると途中で鬼が現れ、和尚は叩首九拝して難を逃れた。その旨を琉球王に奏上すると同様の霊夢があったという。そこでその地に宮を建立し、和尚の見つけた古鏡を蔵した。






縁起から読み取れることは、波之上宮に関係の深い頼重上人からおよそ1世紀を経て、15世紀中頃には琉球国内に仏教(密教)が浸透し、琉球出身の僧が日本本土に修行に出かけるまでになったということだろう。

実を言えばこの縁起の本質は末吉宮の建立というよりも、同時期にセットで建立された万寿寺のほうに重きがある。考えてみれば話の展開は仏教説話そのもので、神仏習合に関する基礎知識のない人がこの縁起を聞いたとすれば 「どうして坊さんの話なのに最後がお寺じゃなくて神社建立なのさ!」 と素朴な疑問を持つことだろう。

神社側からみた縁起物語では寺の存在は語られないが、末吉宮の性格は "万寿寺の鎮守" なので琉球的宗教空間に於いては "仏教説話のオチが神社建立" でも矛盾は生じないのである。




山頂付近の拝所エリアを過ぎると、今度は大岩の間を階段で下っていく。勾配はかなり急だ。




岩の間を降りると、小さな広場に出た。あたりは鬱蒼と茂る森だ。




そこに、清水の舞台のような格好で末吉宮の社殿が建っていた。石灰岩の大岩の上に土台を組み上げ、その上に朱塗りの社殿が建つ。地上から20m以上はあろうかという構造物である。ただし沖縄戦でオリジナルの建物は焼失しており、現在の社殿は昭和47年に復元されたものだ。




社殿の下には通路があり通り抜けることができる。沖縄戦で米軍の爆撃をうけ社殿は四散してしまったがこの500年前の珊瑚石の土台は残ったという。




末吉宮からは那覇市街地方面を見渡すことができる。往時はこの下に万寿寺を見ることができたはずだが、現在は廃寺となっており跡地は森の中に沈んでいるようだ。




石段を登り、社殿を見上げる位置関係で1枚。せっかくなので拝殿まで登ってみたいところだが、賽銭箱から上に立ち入ることは許されていない。




末吉宮の祭神は熊野三神である 伊弉冉尊、速玉男神、事解男神 と、土祖神(つちみおやかみ)、澳津彦命(おくつひこのみこと)、澳津姫命(おくつひめのみこと)、産土神(うぶすなのかみ)である。土祖神、澳津彦命、澳津姫命は日本本土で竈(かまど)の神として信仰される荒神で、琉球では土着の火神(ひぬかん)と習合した。産土神は土地の守護神であり国家鎮護に通じている。

王朝の守護を受けるからには国家鎮護に効能?のある産土神がオプションに入っているのは良いとして、なぜ竈神が入っているのか。最初は不思議に思われたが、周辺の拝所で "火ぬ神" が祀られているところをみると、もともと末吉宮とは無関係に聖地に祀られていた神が、後になって習合していったと考えるのが自然かもしれない。



横長写真では社殿の高さ感覚が伝わりにくいかと思い、石段の途中から縦ショットで社殿を撮ってみた。拝殿の上、写真の左上に屋根だけ少し見えているのが本殿である。こんな場所によくぞ建てた・・・という立地である。




もうすこし公式情報が欲しかったが、社務所に誰もいないので引き上げることとした。雰囲気からしてどうも常時人がいるような様子はなさそうだ。計画段階では八社のお札をコンプリートして悦に入ろうという目論見もあったのだが、どうやらそれは成就できそうにない。うーん。




■ 拝所




参道を引き返す途上、せっかくなので霊場のほうも見ておこうと脇道に逸れてみた。案内碑には 「子ぬ方」(にーぬふぁ) と書いてあり、これは事始めの神のことらしいのだが、どうやら聖地そのものが 「子ぬ方」 と称されているようだ。 意味は 「北の方角」 ということになる。起点は首里城の玉陵付近である。




脇道の先には小さな広場があり、大小さまざまな神が祀られていた。神像や社のようなものはなく、単に神の名を刻んだ石碑が並んでいるのみである。御嶽などもそうなのだが、沖縄では岩や洞窟などの自然物が信仰の対象になっているようで、わざわざ何かの施設を作るという意識は希薄なように思われる。

写真中央の石碑には 宇天親加那志、子ぬ方軸ぬ神加那志、宇天十二神 とある。宇天とは、宇宙、天、あるいは死者の赴く "あの世" という意味である。この末吉の山中は、沖縄の宗教空間では "宇天軸" といってこの世とあの世をつなぐ通路のひらく特別な場所ということになるらしい。なにやら風水の気脈に通じるような雰囲気だが、日本本土でも陰陽道など似たようなものはあるので 「そういうものなのだ」 と思うことにしよう。

その宇天に関わる神の名には "加那志" という敬称が使われていた。"加那志" は沖縄では女性に対して用いる敬称で、つまりここでは神は女性である。こんなところからも女性中心の沖縄の宗教事情が垣間見えるようで面白い。




こちらも神の名がずらりと並ぶ。不動明王ですら "宇天" が被って沖縄の信仰に取り込まれている。宇天みるく神というのもあるが "みるく" は "弥勒(みろく)" つまり弥勒菩薩のことのようだ。ここまでくるともはや仏教なのか神道なのかニライカナイ信仰なのか区別をするのは難しい。




こちらは宇天火ぬ神。成立過程を考えればヤマト的には土祖神/澳津彦/澳津姫に因数分解できるのだが、沖縄的には文字通りの "火ぬ神" 以外のなにものでもない。




その先にも道は続いていたが、あまり聖地をウロウロしすぎると 「果てしなくいろいろなものが出てきそう」 なので、深追いはせずに撤退することにした。


<つづく>