2007.06.30
沖縄紀行:琉球八社を巡る -3日目ー (その7)




■ アマミチューの墓(あまみちゅーのはか)




浜比嘉大橋を渡り、浜比嘉島に入った。




浜比嘉島は沖縄でも代表的な霊場のある島である。前回来たときは下調べが不十分で、とりあえず島の地を踏んだぞ、で終わって引き上げてしまった。今回は旅のテーマを "沖縄の信仰と心を巡る旅" としているのでこの島にある2つの霊場をきちんと訪ねてみようと思う。ひとつはアマミチューの墓、もうひとつはシルミチュー霊場である。




そんな訳でまず島の東岸、比嘉地区を訪ねる。偶然の一致かも知れないが、"比嘉" とはさきの金武宮を開いた日秀上人が浜に流れ着いたとき、命を救ってくれた若者に与えた姓と同じである。




以前は船でしか来れなかったこの島も、橋ができてからはクルマでちょい、という島になった。人口400人の島に90億円も投下して橋をかける意味があったのか……という話は、前回すでにしたので今回は省略する。




そして到着した島の東端、アマミチューの墓。




今はコンクリートで桟橋がつくられてしまったが、もとは浜から30mほど沖合いに浮かぶ独立岩礁の小島であった。

さてここで琉球の国生み神話について少し述べておこう。アマミチューとは別名アマミキヨと呼ばれる琉球の国生み神話の神である。神話では、天帝の命を受けてアマミキヨ(女神)とシネリキヨ(男神:シルミチューともいう)という兄妹の神が降臨し、まず七つの御嶽をつくり、次に土を運んで琉球の島々をつくり、草木を植えたとされている。しかし島々はできたものの住む人間がいない。そこで二人は婚姻し3人の息子と2人の娘をもうけた。そして3人の息子のうち一人目は国王に、二人目は按司に、三人目は農民になり、2人の娘のうち一人は聞得大君(きこえおおきみ=琉球王朝の女神官)に、二人目は祝女(ノロ)になった。王は琉球を3つに分けて統治した。・・・というものらしい。




この神話を聞いてピンと来る人も多いだろう。祝女はともかく、按司(あじ=地方を収める首長)や聞得大君 (きこえおおきみ = 琉球王朝の女神官) といった具体的な官職が神話に登場するということは、神話の成立時期が意外と近世であることを予感させる。

実際、古くから存在した祝女(ノロ)を組織化してその頂点に聞得大君を置いたのは第二尚氏第三代の尚真王(在位1476-1526年)である。つまり、現在伝わる形の国生み神話は15世紀末~16世紀初頭に成立した "政権追認型神話" ということになりそうだ。しかし支配権正当化を目的に神話の改変が行われるのはよくあることではあるが、まったくの創作かというと…果たしてどうだろう。おそらく神話の原型となった伝承は、もっと古いオリジナルがありそうな気がする。

考古学的には先史時代 "アマミキヨ族" という渡来の民がいたらしい。沖縄で本格的な農耕社会が立ち上がるのは12世紀だが、アマミキヨ族は8~9世紀頃半農半漁の生活形態をもってやってきたといわれる。その古い上陸地のひとつが聖地になった・・・と解釈すると、なんとなく話の筋が通りやすい気がする。



小島を回り込むと、崖の中腹に向かう階段があり、その上に横穴墓が作られていた。




これが、その横穴墓である。今はコンクリートで化粧が施されているが、もとはここも小洞窟で御嶽状の祭祀場だったような雰囲気だ。

不思議なのは、"アマミチューの墓" があるからには神は死んだのか? という素朴な疑問だが、説明碑には 「洞穴を囲い込んだ墓」 で 「アマミチュー、シルミチューの2神が祀られている」 との表記があるのみで、ちょっと判然としない。

それはともかく、国生み神話の神が祭られるこの霊場は、沖縄の中でも広い信仰圏をもつ特異な場所らしい。絵的には、豪勢な宗教施設でコテコテになっていないのがいい。



アマミキヨの墓から向かいの宮城島のほうをみる。パイナップル岩(作者が思いつきで名づけたw)と青い海がイイカンジでコラボレートする静かな景観だった。




さて比嘉地区の集落を縦貫してゆるゆると島の南端を目指す。




クルマの通れる道は舗装してあるが、路地にあたる部分は古い集落の雰囲気を残す珊瑚砂と珊瑚岩の織り成す石垣路だ。これが古い時代の沖縄の集落の姿なのだろう。道幅は1m少々しかなく、クルマは入っていけない。




近年なぜ珊瑚石の石垣が少なくなってしまったかというと、石の隙間にハブが入り込むので安全のため戦後は積極的にブロック塀に置き換える動きがあったとのこと。

外部から来た無責任な旅人によっては "情緒あふれる石垣" でも、現地の人にとってはそうではないらしい。なかなか難しいものだな。


<つづく>