2007.08.11 那須国造碑 (その1)
ようやく夏らしくなったぞ、ということで古代のろまんを求めて参りましたヽ(´ー`)ノ
梅雨明けの遅かった昨年よりさらに遅れて8月になってようやく天候が良くなってきた。庭先の桃もイイカンジに熟れてきている。
今回は那須官衙遺跡~那須国造碑(なすのくにのみやっこのひ)を中心に古代のろまんを感じてみようという趣向で行ってみたい。といってもこの日は午前中は仕事があったので、午後のひとときで回れる程度の小ぢんまりとしたドライブである。
エリアとしては新・大田原市の南端から新・那珂川町の西端付近になる。市町村合併から間もないので、地元では まだ 「湯津上から小川のあたり」 と旧町村の名で言ったほうが実は通りが良い。
現在の行政区画MAPでは 「那須」 といえば福島県に接する栃木県北端の那須町、それも主要市街地のある黒田原方面ではなく那須連山の風景を思い浮かべる人が多いと思う。しかし歴史的には那須国(なすのくに)とは、現在の那須町、那須塩原市、大田原市、那珂川町、那須烏山市、さらにさくら市の一部を包含する地域をいい、その行政中心は那珂川と箒川の合流点付近にあった。
この付近は農業技術の未熟であった古代にあっても耕作しやすい水利条件があり、那珂川水系による水運の便もあって、かなり早い時期から集落が形成されていた。縄文時代中期(4000年ほど前)頃には既に定住集落があり、5世紀頃大和朝廷の影響が及ぶと全長100mを越える上侍塚古墳をはじめとする古墳群がつくられた。
那須与一の物語に出てくる那須国も、険しい山岳部ではなくこの那須野ヶ原南端の比較的平坦な地域のイメージで捉えるとその実態を理解しやすいだろう。
■那須官衙遺跡への道
さて前振りはそのくらいにしてゆったりと出かけてみる。まずは那須官衙遺跡を目指してみよう。大田原市街地を抜けてR400を東に走るとすぐに田園地帯となる。真夏の太陽の元をゆるゆると走っていく。
みると土手にキスゲに似た花が咲いていた。ユリ科の花というのはみな似たような外観なので種類を特定しにくいのだけれど、調べてみるとキツネノカミソリのようだ。
背景に入道雲を配しての1枚。…うーん、夏だねぇ。
目立たないけれど、稲の花もちょうど咲いていた。稲の花には蜜はなく、受粉はもっぱら自家受粉、ほぼ風まかせだ。花が咲いている時間は太陽が南中する頃のわずか2時間ほどでしかない。美味しいコメが稔(みの)るかどうかはこの時間帯の風具合に依っている。
ここでいくらか雑学を記しておきたい。稲は単位面積あたりで養える人口が他のあらゆる作物より多い。小麦の収穫倍率がせいぜい3~5倍だった奈良時代の頃、稲は既に10~20倍の収量があった(現在では100倍を越える)。この点で、小麦の文化圏である西欧よりも米の文化圏であるアジアのほうが大人口を養える素地があり、その一角を占める日本は幸運なポジションにあった。
稲はもともと熱帯性の植物で日本には自生しなかった。それが縄文の末期頃に大陸から伝わって徐々に広まった。縄文末期に日本全体で約10万人といわれた人口は、稲作の普及する弥生時代になると60~100万人に増え、奈良時代には500万人に達している。
その増加分はほとんどが稲作開墾地に集中し、これが古代における "クニ" の原型となったらしい。これから向かう那須国官衙付近は、そうしたかつての先進地域のひとつということになる。
■那須官衙遺跡
さて佐良土からR294に乗って南下し、箒川を渡ったところでちょっと西に折れた一帯が、古代の行政中心地区(那須官衙:那須郡衛とも)の跡地である。なす風土記の丘資料館からその全体像が見渡せる。
これが、なす風土記の丘資料館。2箇所に分かれて設置してあり、もうひとつは下侍塚古墳の前にある。
さて撮影は特に禁止になってはいないが、愛想の良い館員氏に敬意を表して展示品の紹介は控えめにしたい。これはこの地にあった正倉の復元模型である。長さ27m、高さは10mほど。古代の官衙(役所)は遺跡規模としては南北200m×東西400mほどで、東京ドーム2個分ほどに相当した。その成立は7世紀末~8世紀初頭(飛鳥時代の末期頃)といわれ、これは中央では天武~持統朝の時代に相当する。
この時代は律令の編纂が進められ、官僚制度が整備され機内では班田収授法などが始まる頃である。大宝律令の発布は701年だが、那須国の官衙は後述する那須国造碑の存在によりそれ以前から存在した可能性が高いとされる。
役所のシンボルともいえる正倉は、発掘された瓦の特徴から8世紀中頃(奈良時代)には既に建っていたことがわかっている。様式は天平文化を反映しており、当時なりの最先端のデザインで中央の威光を示す役割をも担っていた。
これに対し一般民衆はというと、実は平安時代の中頃まで縄文スタイルの竪穴式住居が続くのである。徐々に弥生式の住居に移り変わってはいくものの、構造が簡単で安上がりな縄文式はなかなか廃れなかった。
こういうところに丹塗り+白壁+高床+瓦葺きのスタイルで大陸風の建築が出現したのだから、那須官衙の登場は相当なインパクトがあっただろう。発掘調査では建屋跡は30棟ほど発見されているといい、かなり大規模なものだったようだ。
官衙は10世紀前半まで存続し、やがて廃された。時期的には平将門の乱(939)があった頃に近そうだが、機能を喪失した経緯についてはわかっていない。この時代はまだ那須氏も登場しておらず、律令がゆるやかに衰退していくなかで地方の武士団がゆるゆると成長の萌芽を育んでいるという時期にあたる。官衙址はそんな世相の中で建物が失われ、やがて農地となった。
唯一、一段高くなった正倉の跡だけが耕作地にならずに残っている。ここは詳細な発掘が行われる前は寺院跡と考えられており、基壇部分は1300年を経てなお黒色土と黄色土を交互に突き固めて盛り上げた建築当時の姿を保っていたという。
その官衙跡を見下ろす高台に、旧家の茅葺家屋が建っていた。築260年といい、現在は観光用に町が管理して一般に公開している。那須官衙は役所としては10世紀頃には廃絶してしまっているので、この家が建った江戸期中頃にはもう完全な廃墟になっていた。
それでも正倉跡地に鍬が入らなかったのは、この土地特有の信心深さが関係している。それは那須国造碑の発見にもつながるのだけれど、のちほど項を改めて述べることにしよう。
旧家に上がってみると、実にノスタルジックな正しい日本家屋であった。
縁側から見下ろす官衙跡地は、見た目はただの耕作地である。こんなところに、千年を越える歴史が染み込んでいようとは、なんとも不思議な気分になるな。
あたりはセミの声だけが響いている。
軒下には風鈴。ほとんど無風に近いなか、ときどき思い出したようにチリン…と鳴る。
しばし、その音を聞いてみた。
<つづく>