2007.08.11 那須国造碑 (その2)




■上侍塚古墳




那須官衙跡を見た後は、R294を北上し大田原市域に入る。




やがて上侍塚古墳に至る。官衙遺跡から300年ほど遡る古墳時代の遺跡だ。ここに立ち寄ってみよう。




標識に従って細い田んぼ道を行くのだが……それにしても、どえらい狭い道の奥にあるんだな。




さてこれが上侍塚古墳である。足場が悪いので構図的に全体が画面に入りきっていないが、長さ114m、幅58m、高さ11mというかなり規模の大きな前方後方墳である。

造成は5世紀前半とみられており、同タイプの古墳は那須地方では6基が確認されている。松が植えられて古墳の全景がちょっとわかりにくくなっているが、これは墳丘の崩落を防ぐために江戸時代に植えられたものだ。これでも一応 "保存処理" の一環なのである。




実はこの古墳は江戸時代、"黄門様" として有名な水戸光圀の命により日本で最初の学術発掘の行われたところだ。発掘の目的は古墳の埋葬者が誰かを確認することにあったが、結局解明には至らず、出土した埋葬品は箱に入れて再度埋め戻された。"崩落処置" としての松の植樹はその際に行われたもので、現在では遺跡保存の先駆的事業と評価されている。

それにしても、古墳とはいえ基本はただの "土盛り" である。それが1600年以上にわたって形状を維持しているというのは結構凄いことではないだろうか。




前方部に登って後方部を見てみる。最初はカッチリとした四角形の組み合わせだったものが、長年の風雪にさらされ、さらに草木の繁茂が続いてずいぶんとまるくなっている。しかしそれでも元の形状は類推できる。

松は太いものもあれば細いものもあり、数世代が混在しているようだ。あまり巨木になってしまって石室を破壊しても困るので適当な樹齢で伐ったりもするのだろうか?




もうひとつ、すぐ隣に前方後方墳(上侍塚北古墳)があった。ただしこちらは農家の駐車場として墳丘が一部削られてしまっており、保存状態はあまりよくないようだ。うーむ。




■下侍塚古墳




さらに北に向かってみると…




やがて下侍塚古墳に至る。こちらは道路沿いにあって見通しがよい。やはり前方後方墳で、全長は84mある。上侍塚古墳と同時に水戸光圀の発掘調査を受けており、調査終了後は同様に松の植樹を施された。




裏側に回ってみると、長い年月により丸め込まれてはいるものの、前方後方墳の基本形状が非常によく保存されていることがわかる。築造は5世紀初頭とみられており、上侍塚古墳とほぼ同時期である。ざっと1600年ほども昔のことだ。



背の部分に登ってみると、こんな状況であった。何の予備知識もなくこれを見れば、ただの土盛りだと思っても不思議ではない。それが何故古墳だとわかったかといえば、それが口伝えされて伝わってきたからである。・・・で、江戸期に発掘してみると副葬品がちゃんと出てきたりする。これは、地味ではあるけれども凄いことのように思える。

ここの発掘調査は元禄5年(1692)、築造は5世紀初頭(400~450年頃?)というから、三戸光圀の時代で既に1300年ほどの時間を経ている。その間、地元では 「ここは古墳である」 という情報が世代を超えて口承されていた。古い伝承というのもなかなか馬鹿にはできず、ずっと遡っていくと何らかの事実につながっている・・・という良い実例といえそうだ。




そのままゆるゆると付近を散策していると、古墳の碑に目が留まった。

特に何の変哲もない説明碑なのだが、そこに刻まれている "湯津上村" というのは平成の大合併によって既に消失してしまっている。いつのまにか、この碑そのものが "史跡" としての性格を帯びるようになってきている。

…こうして、歴史というのは積み重なっていくものなんだな、…と筆者はとりとめもなく思ってみた。


<つづく>