2008.01.27 鶏頂開拓 (その2)
■鶏頂開拓へ
さてメイプルヒルスキー場のちょうど向かい側に、鶏頂開拓への入り口表示がある。知らないと素通りしてしまいそうだが、ここは隠れた良景がみられるちょっと穴場のようなところだ。
ここから200mほど入ると、まず旧高原宿跡(…といってもちゃんと人は住んでいるのだが)に至る。新しく開墾された開拓地は、さらに奥まったところに旧街道に沿って北側に広がっている。 さっそく入ってみよう。
高原宿跡には古い灯篭や石仏が現在も残っている。これは集落の入り口にあった常夜灯で江戸時代後期のものだ。現在鬼怒川渓谷には川治温泉という観光スポットがあって主要街道はそこを抜けているけれど、温泉が発見される以前は瞬間な渓谷の険しさを嫌って街道はいったんこの高原に上がり、三依あるいは塩原方面に抜けていた。ここにはその残滓がいくらか残っている。
さて普通はここで鶏頂温泉(奥鬼怒CC)方面に向かってしまうのだが、せっかくなので旧宿場跡地に入ってみることにしよう。
見れば、車の轍(わだち)が無い。 しばらく通った人はいないようだ。
ここにある一見何の変哲もない石垣が、実は旧高原問屋跡(史跡)である。現在は民家の石垣として使われているが、江戸時代にはここで荷駄の積み下ろしが行われていた。
農業生産性のあまり期待できない場所で集落を支えていたのは、実はこうした運送業による収入なのである。もちろんここは宿場でもあるので、規模のほどは良くわからないが旅籠もあったことだろう。
※高原問屋には幕末に吉田松陰が東北地方を巡遊したときに立ち寄ったとの記録が残っている。当時松陰は若干20歳。東北巡遊では会津藩校 "日進館" 等を見学し、のちに松下村塾で木戸孝允、高杉晋作、伊藤博文、山縣有朋、前原一誠などの志士を教え、明治維新の思想的な背景を形成した。山縣有朋などは維新後那須野に開拓に入っており、地元的にはなにかと縁が深かったりする。
せっかくなのでX-Trailの性能を信頼して雪道に踏み込んでみた。ここは旧宿場の西側をぐるりとU字型に巡って戻ってくるルートになっている。地図上では見晴台のようなところだ。
山むこうには今市方面と思われる平地がみえる。
わずか100mばかりの坂を登りきると、正面(南側)には日光女峰山の山容が広がっていた。これは見事な風景だ。実に堂々としている。
こちらは同じ場所を広角10mmで撮ってみたもの。あたりには風を遮るものはなく、雪には風紋が刻まれている。風が吹くたびにパウダースノーが煙のように立ち込めては流れていく・・・。
吹きさらしの尾根では、雪の層はそれほど厚くはない。ところどころ、土が露出している。見れば石ころだらけの痩せた土地である。
これは "石ぐら" だろうか。開拓の初期段階では木を伐採した後、切り株や岩石を除いて土面を造成する。その余分な岩石を一箇所にまとめて置いたものを石ぐらと呼ぶ。那須野の開拓地でもよく見られるものだ。
石ぐらの見られる農地は、近世まで人が耕作の対象としてこなかった痩せた土地であることが多い。川の氾濫によって泥や砂の堆積した沖積平野は、何もしなくても既に豊かな土壌があり、大岩がゴロゴロしていることは少ない。そういうところには古くから人が住み、農業を営んでいる。
残念ながらここはそういう恵まれた土地ではなかった。かつては運輸と宿泊という第三次産業的な条件で集落がなんとか維持され、幕末にはそれが立ち行かなくなって無人となった。
そのまま70年ほど放置され、昭和20年の大東亜戦争の敗戦後に、食うに困った復員者が開墾に入って、畑を "作り出した" のである。
もう少し進んでみる。
…こちらは北側。こうしてみると、まさに天空に続く開拓地・・・といった感じだな。
四駆がAUTOモードではきつくなってきたので、直結に切り替えてもりもりと雪をかき分けながら登っていく。ここはちょうど高原宿集落を冬の西風から守る小さな尾根の背にあたる。畑があっても人家がないのは、荒天時に吹きさらしになってしまう地形的な事情によるものだろう。
あたりは見渡す限りの山、山、山・・・。 それにしても、よくもまあこんなところに街道を開き人が住んだものだなぁ。
会津西街道は、記録上は9世紀頃には成立していたことがわかっており、高原宿周辺は平家落人が一時隠れ住んだ場所とも言われる。当時はもちろん、こんな尾根の上に畑を開こうなどという者はなく、風を避けられる一段下がったところに集落が造られた。ここには小さな湿地があって水が湧き、鬼怒川の支流である大下沢の水源ともなっている。つまりは風除けの地形と僅かばかりの水が、ここに集落を成立させたといっていい。
・・・などと思いを馳せている間にスタック(笑) いかに四駆といえど腹を擦り出す積雪深度だと進めなくなる。
仕方がないのでこのコースからは撤退。うーん(^^;)
<つづく>