2008.04.06 金精峠に道鏡の巨根伝説を追う:奈良編2 (その1)




前回のつづきです~ヽ(´ー`)ノ



前編では、孝謙天皇+道鏡の頃の時代背景と、実権把握までの道のりまでを概観した。…とはいえ半分くらいは取材後のにわか勉強なので写真と本文があまり合っていないのはご愛嬌である(笑)

さて奈良編の後編では、興福寺(→藤原氏の栄華の跡)、西大寺(→道鏡政権の仏教政策のモニュメント)、唐招提寺(→道鏡に戒律を授けたであろう鑑真の足跡)、そして称徳(孝謙)天皇陵を巡ってみたい。




■興福寺




東大寺から西側、市街地方面に移動すると国立博物館を経由して興福寺の境内に入る。ここは藤原氏の氏寺であり、奈良~平安期以降、その栄華とともに栄えた。藤原氏の私的な氏寺であるにも関わらず、一族の力を背景に "造興福寺仏殿司" という役所がおかれその整備には公的資金が堂々と流用されていた。

興福寺の起源は藤原鎌足が創建した山階寺(645年)に遡る。藤原京が造営されると厩坂寺と称して移転し、平城京が造営されると興福寺と名を改めて現在地に移転した(710年)。隣接する東大寺(=官寺の代表格)とは犬猿の仲であったが、藤原氏がバックについていたことで力を増し、一介の私寺でありながら最終的に大和国の実質的支配者となっていった。




興福寺の勢力は特に平安時代に凄まじく、大和国一国のほとんどがその荘園になってしまったことから事実上の国主の立場にあった。武装した僧(=僧兵)を大量に擁し、仏の功徳を説く一方で対立する近隣諸寺や民家を焼き討ちするなどすっかり暴力集団と化して、朝廷の人事にも影響力をもった。

武士の時代となった鎌倉期~室町期にもここには守護は置かれず、大和国は興福寺による支配が続いた。武力集団としての実力はちょっとした戦国大名レベルに達し、武家政権ですら迂闊に手を出せないほどの力があったのだ。




興福寺は藤原氏を媒介として春日大社(→藤原氏の氏神)と関係が深く、神仏混交の時代背景もあって明治維新以前は事実上一体と考えてよい。中世の興福寺境内と春日大社の推定領域を現在の市街地マップに重ねてみるとこんな↑状況である。(春日大社は背後の春日山がまるごと境内なので実際はもっと広かった可能性がある) このほかに配下の子院が周辺にずらりと並んでいた。都が平安京に移転したのちも興福寺周辺には僧坊が立ち並び、藤原氏一族の子弟が多数送り込まれたという。

平安時代には、政治的な要求(気に入らない役人の追放など)を朝廷に突きつけては "春日大社の御神木" を "興福寺の僧兵" が京都市内に大挙して運び込み、有力貴族に無理やり引き取らせては奉じさせるという示威活動(強訴)が繰り返された。言うことを聞かなければ、たとえ相手が国司(現在でいえば県知事)であっても集団で私邸/官舎に押しかけては暴行、破壊、放火するなどやりたい放題であった。

…ここまでくると、寺院の体裁はとっているものの、もはや魂の救済や国家鎮護などは関係なく、ただのタチの悪い宗教マフィアのようだ。…そんな訳で、国宝級の文化財はたくさんあっても興福寺の歴史には限りなくブラックな香りがたちこめているのである。

※そもそもは拡大した荘園を外敵から守るために僧兵が出現したらしい。平安期には東大寺その他の有力寺院にも僧兵がおり、やられたらやり返す式の報復合戦が繰り返されたが、話が長くなるので説明はカット。



現在の興福寺は、春日大社と分断されて規模は縮小、伽藍の中心部のみが奈良公園に組み込まれた格好で存続している。廃仏毀釈の嵐が吹き荒れた明治初期、新政府は皇室と既存の仏教勢力を切り離すため、特に興福寺については徹底的な取り潰し政策をとった。寺領はすべて没収、僧職は一斉に神職に衣替えして春日大社に乗り換えてしまい、興福寺本体は廃寺として切り売りされることになったのである。今でこそ国宝に指定されている五重塔だが、明治初期にはこれも競売にかけられた。値段は250円であったという。




この売りに出された一等地に、現在の奈良県庁/奈良県警本部/県立美術館/郵便局/奈良地方裁判所などの公共機関が建てられている。住宅街、商店街にも侵食され、なんとキリスト教会まで建った(笑)。さすがにやりすぎと思ったのか、新政府は明治30年になって古社寺保存法を成立させ裸になった興福寺の敷地を "公園" として整備した。寺と奈良公園の境界が曖昧な現在の奈良市街地の原型ができあがったのはこの頃のことだ。

寺社と政治権力の力関係を読み解く上で、明治維新期の興福寺の変遷は興味深い。寺社の栄華は一般民衆の信仰心の多寡ではなく時の権力者の政治意思と懐具合によって決まるというのが筆者の自説だったりするのだが、この点興福寺は自ら武装化/領主化して強大になりすぎたゆえに、政変後の揺り戻しも特に大きかったといえそうだ。




さてそんな興福寺の "道鏡以後" の歴史について言及したのは、この野放図な荘園領主の強大化がどんな結果を平安期以降に及ぼしたのかを最初に押さえておきたかったためである。

興福寺は道鏡存命中の奈良時代にはまだ武装化にまでは至っていない。その力の源はもちろん背後にいる藤原氏の力であり広大な荘園収入による経済基盤なのだが、それらが確立するのは実は称徳天皇と道鏡がともに排除されて以降のことである。




■荘園政策と道鏡




藤原氏が天皇の外戚として権力を行使した話は既にしたが、"単に官位を得ました" というだけではなく、土地の収奪、私物化が同時に進行したことを忘れてはならない。

それは奈良時代全般を通してじわじわと進行したが、ほぼ唯一、道鏡政権のみがそのプロセスを止めようとした。道鏡の奈良時代における位置づけを、称徳天皇との色恋沙汰+巨根伝説の側面のみからみているとその本質を見失ってしまう。地味な内容だがここは重要なところだ。




飛鳥時代に始まる律令制は、公地公民を原則としている。モデルは隋/唐の均田制である。国土、そして国民はすべて国家のものであり、特に土地は国家(天皇)が国民に貸与するものだった。マルクスの資本論などより1000年以上も昔に行われた、原始共産制とでもいうべき社会実験である。そこでは土地は班田として国民に貸与され、本人が死ねば国家に返却されるタテマエであった。




しかし、子供でもわかるようにこんな仕組みは長続きするはずがない。なぜなら人口増加と班田開墾の需給バランスを見込んでいないからである。たちまち口分田は不足し、良田百万町歩開墾計画などがぶち上げられたものの掛け声だけで実効性は上がらず、まもなく現状追認および開墾奨励のために三世一身法(723年)、次いで墾田永年私財法(743年)が施行され、公地公民の原則に穴があく。

前者は長屋王、後者は橘諸兄の時代でありいずれも皇族側に実権があったときに出された法だが、皮肉なことにこれが有力貴族と寺社勢力の力を増すことにつながってった。墾田を私財とするには灌漑用水を自前で引くことが条件であり、それは動員力のある有力貴族や大寺院にとって有利なものだったからだ。

これらの新しい私有地の書類上の名目は別荘の庭園ということであったらしい。これがいわゆる荘園の始まりで、これを猛烈に進めて大地主になった富裕層の筆頭が、藤原一族であった。




奈良時代の歴代政権の中で、唯一この動きを止めようとしたのが実は道鏡である。藤原仲麻呂の乱後 墾田永年私財法を停止し、有力貴族の経済基盤を抑え込もうとしたのであった。

乱のとき、仲麻呂が逃げようとした先=越前に何があったかといえば、それは藤原氏の大規模な荘園(仲麻呂の息子、辛加知の所有)だった。この越前国での状況が、道鏡をして墾田永年私財法を停止たらしめたと筆者は考えている。




さて荘園領主としては寺院と貴族の存在が大きいが、その律令的な性格は異なっている。僧兵の跋扈したマッドマックス的世界観(?)の平安時代とは異なり、奈良時代にあっては寺院は基本的に国営機関で僧職は国家公務員である。よって寺院の荘園が増大することは、少なくとも親仏教的な聖武天皇/孝謙(称徳)天皇の治世では問題視されていない(それどころか寺院の荘園管理に国衙の役人が協力している)。その一方で、貴族の荘園はあくまでも私的なものであった。

称徳天皇の時代、耕地面積の何%くらいが荘園になっていたのかはよく分からない。初期の荘園は平安時代の摂関政治の頃(→不輸の権/不入の権)とちがって課税の対象であり、戸籍制度があるので定住耕作民の調達も勝手には出来ない建前であった。

しかし実際にはこの頃、逃亡農民など戸籍から外れた人民=浮浪人(うかれびと)と呼ばれる階層が存在し、彼らが荘園にとって都合の良い労働力を提供していた。6年毎に更新される戸籍登録を逃れるため、その雇用形態は稲束を給与として1年契約で耕作を委任する、現代の派遣社員を髣髴(ほうふつ)とさせる形態が多かったようだ。




寺院(→特に官寺である東大寺)と貴族の対立は、開墾の過熱とともにこの派遣労働者の分捕り合戦から始まったようだ。都から離れた土地で荘園主がこうした労働力を確保するには、地元の有力者や国司の協力が不可欠である。だが藤原仲麻呂の独裁体制が絶頂期だった淳仁天皇の治世、地方の役人は国営機関である寺院の荘園管理にはあまり協力せず、仲麻呂一族の私的荘園の拡大を優先した。

福井県史によれば、東大寺(道鏡の出身寺院)の荘園は越前~越中の北陸地方に集中していたらしい。地形的に水利を得やすく、大規模開発しやすい地勢の一帯である。寺の運転資金は寺領の水田から得られる収入で賄うことになっていたため、国家鎮護という"公益性"のため特に条件のよい土地が割り当てられたということだろう。

仲麻呂の息子=辛加知は越前の国司に赴任している間にこれを "藤色" に塗り替えていった。墾田は耕作放棄で荒地になった土地を再開墾しても私有できたそうだから、意図的に浮浪人の配置を操作すれば 「ちょこっと放置して荒地認定 → 再開発」 式に乗っ取りもできたことだろう。越前国ではこれで東大寺の荘園がかなり目減りしたようで、道鏡政権発足後に検田使として承天、慚教、勝位(いずれも仏教僧)が派遣され、寺領回復が試みられている。

※墾田の私有化は買収によっても進行しており、また書類上は墾田でも実際には大半が山林という事例もあった。紙面の都合もあってこのへんはかなり端折った書き方になっている。




さて道鏡政権ではそんな背景があって墾田永年私財法が施行から約20年で停止となり、貴族の荘園拡大が阻止された訳だが、もちろん当の貴族たちからはこの路線は不評であった。また先の検田使の例にもみられるように官吏の職にも仏教僧が進出し、朝廷内のポストが侵食されていく。仏教優遇政策が推進される中、貴族たちの間ではこれらに対する反感が地下のマグマのように溜まっていったことだろう。

後に道鏡は "皇位簒奪を企んだ破戒僧" として排除されていくのだが、脳内お花畑?なまでの純粋さで仏教思想にハマりきっていた聖武天皇/称徳天皇は特別として、その他大勢の貴族達がどの程度 "仏教的信仰" とか "国家鎮護" に関心をもっていたかはわからない。また天皇の権威も、こういってはミもフタもないが大化の改新(645年)以前は単なる有力豪族のひとつに過ぎず、絶対に守らねばならないほどの普遍的価値を当時の貴族層が持ちえたのか疑問は尽きない。

多少の社会経験があればわかるだろうが、俗人はそんな観念的なことでは動かないのである。もっと直接的な利害関係…たとえば自分の懐具合に直結するゼニカネ問題などに鋭敏に反応するのだ。その点、墾田永年私財法の停止はずばり貴族たちの懐を直撃した。道鏡の失脚には "皇位簒奪を企んだ" というもっともらしい理屈がついてまわっているけれど、それよりも経済政策的な面から貴族側には道鏡を排除する政治的動機があったということを知っておくほうが事件の背景を理解しやすいと筆者は考えている。




道鏡が排除されると、墾田永年私財法は間髪いれず復活した。その後の荘園の拡大についは誰もが知るところだろう。その後、寄進系荘園も加わった平安中期にはついに耕作地の9割以上が荘園となり、さらに藤原氏以外の有力貴族がみな排除されやがて藤原氏一強時代が到来する。そして興福寺はその藤原氏との結びつきから大和国の事実上の領主となって、ついには武装化していく…。

その一連の流れのターニングポイントに、道鏡はいるのである。




■道鏡のそれ以外の政策




ところで、道鏡はそれ以外にはどのような政策を実行したのだろう?



……これが、調べてみるとかなり拍子抜けするのである。大悪人と言われている割には、仏教政策以外のことはほとんど何もしていないのだ。例を挙げると以下のようなものになる。

・百万塔(幅4.5cmの陀羅尼経の巻物を収めた小塔)を十大寺に寄進
・西大寺の建立
・西隆寺の建立
・主鷹司(鷹、猟犬などの飼育をする役所)の廃止
・放生司(不殺生を推進する役所)の設置
→ 具体的に何をしたんだろう?(^^;)
・道鏡の出身地:河内国に由義宮(天皇の離宮)を造営


西大寺の建立は東大寺に匹敵する大事業である。しかし道鏡本人が私腹を肥やしたり政敵を殺したり…といったことはなさそうで、"仏法を広めること=良いこと" という立場の僧が政治権力を握れば誰でもやりそうな内容である。由義宮建設は道鏡の野望というよりは称徳天皇の意思のように思えるが、筆者の素人調査ではよくわからない。

※補足:西隆寺は西大寺とセットで建立された尼寺である




では政策手法の面では…というと、こちらでも道鏡はきわめておとなしく、朝廷の指揮命令系統を混乱させるようなことは特にしていない。

たとえば天皇に法律/政策などを意見具申する上宣書という文書があるのだが、藤原仲麻呂の時代には本来の担当官である左大臣/右大臣を無視して仲麻呂が直接上奏していた。(仲麻呂の独断は橘諸兄の元にいた頃からで、紫微中台内相時代も左右大臣を無視して太政官符などが発行されていたようだ)

しかし道鏡政権では上宣は本来の担当官=左大臣/右大臣がそれぞれ出す形に改まっており、道鏡本人、および腹心の円興/基真からも一通も出していないのである。道鏡の命令は造東大寺司など寺院関係の役所に対してのものがほとんどだったようで、ルールを逸脱してなにかをゴリ押し…という強権的な印象はあまりない。




こうして概観すると、ともかく道鏡の政策は墾田永年私財法の停止以外では単に "仏教を広めましょう" という枠内でしかなく、のちの興福寺が武装化、領主化して好き放題に暴れまわったのに比べれば実に穏健そのものといえる。

これでは悪人の烙印を押すには少々同情的にならざるを得ないな…。




さてこの日、桜が見頃ということもあって観光客もすっかり花見モードで溢れていた。公園となってすっかり人畜無害化した寺はいまでは花見の名所となっている。これはこれで、平和で結構なことだな。

藤原氏の勢いを止める勢力がなくなって以降は、その氏寺である興福寺の勢いもまた誰も止めることのできないものとなっていった。のちに宗教の名を借りた武装集団となって事実上の国主となり、長く大和国を支配していくこの寺の源流に、道鏡は重要な役回りで関係している。それが目立たないのは、意図的に抹殺されてきた正史上での扱いにあるのは間違いない。




それにしても…もっと単純な物語かと思っていたのに、なかなかに奥が深い題材なんだなぁ、道鏡の周辺事情というのは……




■おまけ




話が重くなってきたので、ここらでちょっと一服して興福寺南大門跡にある猿沢池の風景などを♪

なぜかここには大量の亀が住んでいるらしい。春のうららかな陽気のもと、一斉に水から上がって甲羅干しをしていた。




にょきっと伸びる亀の頭。うーん、解説は敢えて省略しておこう。


<つづく>