2008.04.05 金精峠に道鏡の巨根伝説を追う:奈良編2(その2)
■西大寺
藤原氏の栄華の跡を見極めたのち、道鏡の栄華の跡を確認するため一路平城京の西縁を目指す。時間があれば春日大社を見ておきたかったのだけれど、ちょっと東大寺/興福寺で時間を喰いすぎたのでそれはカット。
西大寺は、東大寺に対抗して称徳天皇+道鏡政権が造営した大伽藍である。最盛期の興福寺を遥かにしのぐ48haの敷地をもち、建物の数は110棟以上、東西2基の五重塔を擁していた。称徳天皇としては父=聖武天皇の東大寺に匹敵する大寺を自らの治世でも残したい意向があったようで、造営中幾度と無く行幸しては工事の進捗を確認したらしい。(さすがに大仏は作らなかったようだが……)
平城宮を挟んで東大寺と反対側の極に造営された位置関係からは、藤原氏一族のモニュメントである興福寺と距離をおきたい思惑も見え隠れするような気がするが、あくまでも筆者の憶測である。
寺に伝わる絵図によれば、往時の境内の中心部はこのような状況であったらしい(元図ではこの左右にも伽藍が広がっている)。外京のさらに外側の斜面沿いに造られた東大寺よりも平城宮に近く、条坊内であることから平坦地で整地状況も良い一等地である。
しかし西大寺は、スポンサーが道鏡と称徳天皇だったということで、壮麗な大伽藍は完成したものの、その造営途中での天皇崩御、道鏡失脚以降は十分な保護を受けられず、その後はすっかり衰退してしまった。鎌倉期に再興が図られたがそれも一時的なものであり、現在では敷地も当初の1/40のにまで激減……東大寺/興福寺とは対照的に地味な歴史を歩んだ。
ここでは、西大寺に絡んで道鏡と称徳天皇の栄華の最後について語ろうと思う。
※↑絵図の掲載については取材時に住職さんの許可を頂いています。
さていよいよやってきた道鏡の遺産といえる古刹だが…なんとも人気(ひとけ)のないところだなぁ。
正直なところ、人もクルマもぎゅうぎゅうの東大寺/興福寺を見てきた直後にここに来ると、その落差に少々の戸惑いを覚える。かつての大伽藍はいったいどうなってしまったんだ。
境内に入ってみると、歩く人影もまばらで、まるで時が止まっているかのようだ。
西大寺の建立が発願されたのは孝謙上皇が排除されかかった藤原仲麻呂の乱のときであり、追討軍が都を発った764年9月11日に鎮護国家の仏といわれる四天王像の作製が発願されている。通常、寺院の建立というのは中心となる本尊として如来像が造られるのが一般的なのだが、最初に天部の四天王が造られたのは "乱の鎮圧" という具体的な要求がいかに強かったかということの表れだろう。
乱が鎮圧された翌年、本格的な造営が始まり780年頃まで工事は継続されて一応の伽藍の完成をみた。主要な建物は115棟、仏像も50体あまりが作製されたという。そしてこれが、奈良時代の巨大仏教土木政策の最後のモニュメントとなるのである。
さて寺の解説を始めてしまうと長いので、話を戻そう。
興福寺の項で、道鏡の "割と悪人の香りのしない仕事振り" について言及したが、身内の中に一人、阿呆がいる。弟の弓削浄人である。道鏡が太政大臣禅師になったときにオマケとして官位を得、大納言にまで昇進して大宰帥となっている。能力は不明、業績も何も残っていないが、歴史的大チョンボを犯したことで名が残った。宇佐八幡宮神託事件である。
神護景雲3年(769年)の5月、宇佐八幡宮(大分県)より称徳天皇にひとつの神託が届けられた。 神託とは要するに "神のお告げ" である。仏教信仰者である称徳天皇に八幡神のお告げとはなんぞや、と思う方もいるかも知れないが、八幡神は応神天皇を祀ったものであり皇室の祖先であるのと同時に、神仏習合により八幡大菩薩として菩薩号をもっている。ゆえに仏教者からみても崇敬の対象になりえる。
それはともかく、その神託の内容とは、なんと 「道鏡が皇位につけば天下泰平となるであろう」 というトンデモな内容であった。これを称徳天皇に奏上したのは、道鏡の弟で大宰帥(=大宰府長官)である弓削浄人と大宰主神(=大宰府で神事を行う役職)の習宣阿曾麻呂(すげのあそまろ)である。
当然、朝廷内は騒然となった。
ここでは予断を排するためにまず事実関係のみ示そう。事件は以下のような経過をたどった。
■769年5月
・弓削浄人、習宣阿曾麻呂より神託文が届く
・第一次神託の奏上 → 「道鏡が皇位につけば天下泰平になるであろう」
・神託の真偽を確認するために称徳天皇の側近:和気広虫(尼僧)を宇佐八幡宮に派遣することになる
・和気広虫、病弱を理由に勅使の役を弟の和気清麻呂に交代
■769年8月
・和気清麻呂、宇佐八幡宮に到着。再度の神託を求めるも拒否される。
・和気清麻呂、強引に再度の神託を求め、二度目の神託を持ち帰る。
・第二次神託の奏上 → 「皇位は必ず皇室の者に継がせよ」
・称徳天皇は報告に怒り、和気清麻呂を別部穢麻呂(わけべのきたなまろ)と改名させて流罪
・同じく姉の和気広虫を別部広虫売(わけべのひろむしめ)と改名させて流罪
・道鏡には処罰なし
■769年10月
・称徳天皇、皇位継承について勅をだす
・勅その1:皇族以外の者が皇位を求めてはならない
・勅その2:次期皇位継承者は称徳天皇自身が決定する → と、言いながら決めなかった
■770年8月
・称徳天皇崩御 (後継者はついに未定のまま)
興味深いのは、称徳天皇の事後処理である。結局、和気清麻呂の持ち帰った2度目の神託によって道鏡が天皇の地位に就くのは阻止された訳だが、天皇の怒りを買って地方(大隅国)に飛ばされたのは、なんと皇位簒奪を阻止した側の和気清麻呂であった。一方の道鏡には何の処罰もなかった。"道鏡が皇位を狙った" にしては、非常に不可解な処理である。
朝廷内の動揺を静めるため、皇位継承については2回目の神託から2ヶ月後にようやく称徳天皇から 「後継者は皇族から選ぶ」 旨の方針が示されるのだが、結局称徳天皇自身が特定の誰かを指名することはなかった(※)。これだけを見ると、まるで称徳天皇が積極的に道鏡に皇位を譲ろうとして失敗した…というような印象を受ける。
※実は吉備由利が遺言を聞いたと言っているのだが、それを証明する他の者がいないので退けられた
真面目な研究者から興味本位の歴史マニアに至るまで、この事件の真相に関してはいろいろな推理がなされている。大雑把に類型化して並べてみると、以下のような説がメジャーどころだろうか。
1) 道鏡が称徳天皇をたぶらかして譲位を迫った ※巨根説はこの立場(^^;)
2) 道鏡にその気はなかったが、弟の弓削浄人が一族の権勢拡大のために政治劇を仕掛けた
3) 道鏡追い落としを狙う貴族側が、弓削浄人をそそのかして罠を仕掛けた
4) 宇佐八幡宮が時の権力者=道鏡にゴマをすってリップサービスをしたつもりが大コケした
5) 儒教の徳治思想(※)に従って、天皇自らが道鏡を後継者に指名しようとしたが貴族達に阻止された
※世襲の王族ではなく、真に徳のある者が世を治めるべきであるとする中国の思想。孔子が唱えた。
……どれも推理としては一長一短があり、検証しようとすると膨大な紙面が必要になるだろうから、ここで敢えて無理に結論は出すことは避けておこう。ただ無責任な感想を言わせてもらえるならば、小説的な物語として美しいのは 5) といえるだろう。(前提として道鏡=有徳の賢者という条件がつくが)
心情的にいえば称徳天皇はその生涯を通して累計700名を越える粛清劇を目撃し、血縁の近い(→天武天皇系)皇族が次々と殺されていくのを見てきたという事実がある。さらに自分に子は無く、遠い血縁(→100年前に分かれた天智天皇系)ばかりになった候補者の誰が皇位を継いでも、その背後にいるのは次代の権勢を狙う藤原氏一族なのである。それならばいっそのこと、孔子の唱えた徳治思想に従って有徳の仏教僧の誰かに……と考えても特に不自然ではないだろう。……もちろん、妄想の域を出るものではないが。
この騒ぎから10ヶ月後、称徳天皇は後継者を決めないまま急死する。死因は公式には天然痘である。
しかし100人以上いた筈の看病禅師が祈祷その他の治療措置を行った形跡はなく、道鏡も死の床にあった称徳天皇の元を訪れることはなかった。その崩御のときそばに居たのは、天皇付きの女官:吉備由利(吉備真備の娘)ただ一人であったという。(暗殺説もあるが、実際のところはよくわからない)
そして称徳天皇崩御の後、道鏡は下野国に左遷されるのである。
代わって権力を掴んだのは、またもや藤原氏(藤原永手、藤原百川ら)であった。道鏡排除に成功した藤原一族は、遠い傍流にいてまず皇位など回ってくる可能性のなかった天智天皇系の2人の皇子を相次いで皇位につけ、光仁天皇、桓武天皇とした。この桓武天皇が、のちの平安時代の幕を開けるのだが・・・それはまた別の物語である。
さてそんな時代のモニュメントである西大寺を歩く。
建造物として往時の痕跡をとどめているのはほとんど唯一、五重塔の礎石跡くらいだ。
本堂(内部は撮影禁止なので写真は無し ^^;)に入り、西大寺の史料本2冊と由緒書を入手した。残念ながら史料本にも由緒書にも弓削道鏡の名はない。
戦前までは学校の歴史の授業で 「日本の歴史上の悪人を挙げよ」 などという問題が出たそうで、平将門、足利尊氏、弓削道鏡 の3名を挙げれば花丸がもらえたというから、西大寺にとっての道鏡はいわば黒歴史となってしまったらしい。
「…道鏡のことは載っていないんですね」 と住職氏に素朴に聞いてみた。
「いろいろありまして…」 と苦笑いするばかりで明快な答えはない。孝謙(称徳)天皇についてはいろいろと話してくれるのだが、道鏡については触れてくれるなと言わんばかりの対応だった。…まあシモネタに走りがちな話題だから、避けたいのはわかるのだけれど。
実際のところ、道鏡無実説というのは第二次大戦後に唱えられるようになったもので、それまで1200年にわたって蓄積された負のイメージを覆すには至っていない。道鏡について真面目に質問してくる参拝者は最近になって幾人か来たそうだが、数の上では少ないとのことであった。
境内には万葉集にある孝謙(称徳)天皇の歌碑が建っていた。
この里は 継ぎて霜や置く
夏の野に 我が見し草は
もみちたりけり
意味は "この里は霜が降りるほど寒いのだろうか、夏であるのに私の見た草は紅葉していたけれど" というものだ。文学的には落日の予感という捕らえ方ができるかもしれないが、生物学的にはウィルス感染による葉脈黄化症の最古の事例だとする解釈もあって、こちらはちょっとロマンに欠ける。
歌碑の背後をみると、どうやら道鏡を守る会というのが建てたらしい。会長の田村豊幸日大名誉教授という人物を調べてみたところ、医学博士でなんと栃木県真岡市出身で筆者と道鏡…いや同郷であった。真岡は下野薬師寺に近いのでその関係でこのような会を主催しているのだろうか。
他にもないかと探してみたが、境内には道鏡の存在を示すような記念碑も解説表示もみあたらなかった。寺の建立を孝謙上皇に進言したのは道鏡の筈なのだが、由緒書からもその存在は完全に抹殺されている。もしかするとこの守る会が本当に建てたかったのは道鏡についての碑だったのかもしれず、それに寺側が難色をを示し、妥協した結果が 「孝謙天皇歌碑」 であって、道鏡の名は会長の肩書きの一部としてかろうじて入れることができたということなのだろうか。…真相を住職氏に聞いてみたかったが、無粋な質問のような気がして今回はそれは見送った。
ともかく、この句碑の裏面に刻まれた "道鏡を守る会" という字句のみが、唯一この西大寺にあってかつて法王と呼ばれた男の名を刻んでいる。一抹の寂しさを感じる扱いではあるが、しかしどんな形であれ碑に名が残ることの意義は大きいといえるだろう。
駐車場から反対側にある正門へ抜けて全容を見る。
現在の西大寺は駅に近い裏門側から出入りするのがメジャーなアプローチになっていて、初めて訪れた者には全体の構造がわかりにくい。それは周辺を再開発する際の寺の扱いに問題があったからだ。
これがその扱い具合である。寺の参道は正門から20mほどのところで途切れており、すっかり住宅街に飲まれてしまっていた。この付近は近鉄線の開通によって宅地化していったところだが、再開発に於いて西大寺の史跡としての価値はこの程度の評価だったということだ。
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これは参道前を横切っている路地。本当にクルマ一台通るのがやっとの裏道である。うーん、かつての大伽藍もこんな路地の奥に埋もれてしまっているのだなぁ・・・。こうしてみると、歴史というものは、敗れた者には本当に冷たいということがよくわかる。
西大寺をとりあげたJR東海の観光ポスターをみつけた。"まぼろし" と評されているけれど、まさにそのとおりで諸行無常を地で行っている。遷都1300年の節目が迫ってきていても大規模な整備が行われる予定もないらしく、おそらくは今後も地味な存在であり続けるのだろう。
<つづく>