2008.04.05 金精峠に道鏡の巨根伝説を追う:奈良編2 (その4)
■称徳天皇稜
さて奈良編もそろそろ終わりである。春の霞の生駒山も夕日で茜色に染まってきた日没間際のころ、水田と住宅が散在するなかを称徳(孝謙)天皇稜に向かってみた。
称徳天皇が崩御したのは神護景雲4年(770年)8月4日、宇佐八幡宮信託事件から10ヶ月後のことであった。死因は天然痘とされているが、崩御のときにその場で看病していたのは女官の吉備由利ただ一人であり看病禅師が祈祷(→当時は立派な治療行為)を行った形跡はない。
天皇陵を地図に重ねると↑このような位置関係になる。父帝:聖武天皇が東大寺に隣接して葬られたのに対し、称徳天皇は西大寺に隣接する位置に葬られた。墳墓の形式は8世紀後半にしては珍しい前方後円墳で、全長は130mあまりある。これは大規模な墳丘墓としてはおそらく最後期のものだろう。仏教隆盛の奈良時代にあっても、貴人の埋葬形式というのは古墳時代の伝統からなかなか改まらなかったようで興味深い事例だ。
この天皇陵が造られた十余年後に都は長岡京、ついで平安京に移転して行く。国家財政を破綻させかねないような仏教一辺倒の政治からの脱却をはかり、桓武天皇と和気清麻呂(※ "穢麻呂"から華麗に復活を遂げた ^^;) が仕組んだ "平城京ごと仏教寺院を置いて逃げ出してしまえ作戦" である。
強くなりすぎた奈良仏教界に対抗するため、この後朝廷は最澄、空海といった密教系の新仏教勢力を育成していくことになるのだが、話が大きくなりすぎるのでそれはまた別の機会に譲ろう。
都の移転後、平城宮は廃墟となり、のちに西大寺も衰退してしまったことから、この一角は次第に農地に埋もれていくことになった。平安期以降は藤原氏の菩提寺である興福寺が事実上の国主の地位に就いたことから、現在の奈良では外京区を中心とした寺院支配の残照ばかりが色濃く残ることとなった。それは現在我々が観光地としてイメージする古都=奈良の姿でもある。
※写真は平城宮跡資料館展示のもの(撮影許可を頂いています)。
さてこれが称徳天皇陵である。現在は宮内庁の管理下にあり、鳥居が建ってそれなりに整備されている。……が、周辺はギリギリまで削り込まれて農地になっていた。
称徳天皇がここに葬られたのは崩御から約2週間後、8月17日のことである。葬儀(大葬礼)には道教も列席している。しかしこのとき既に "法王" 排除の計画は進行していた。背後で動いたのは左大臣=藤原永手のほか、藤原百川、藤原良継らの藤原氏一族である。道教が失脚したのは大葬礼のわずか四日後のことであった。
道鏡失脚のきっかけは坂上大忌寸苅田麻呂による密告であった。坂上大忌寸苅田麻呂とは蝦夷討伐で有名な征夷大将軍、坂上田村麻呂の父である。この功績でのちに鎮守府将軍の地位を得たというのだから何ともやり方がセコイといえるが、これが巡り巡って息子の代に朝廷の東北支配強化につながっていくのだから歴史というのは不思議な巡り合わせだな……
それはともかく、これ以降道教は悪臣、逆臣として歴史に書き残されていくことになる。
■作られる伝説
さて、ではここで壮大?なる伝言ゲーム千年史を追ってみよう。巨根説がいかに成立したのか、その変遷である。
道鏡の "悪事" についておそらく最も時系列的に早い時期に書かれた文献は、続日本記(797年成立)と思われる。実は称徳天皇崩御の直後、藤原永手らに擁立された光仁天皇が最初に編纂を命じたのだが、正史としてまとめることが出来ず(※)一度立ち消えになり、次の桓武天皇が再度編纂を命じて平安遷都後に完成したという歴史書である。ここに描かれる道鏡の記述は以下のようなものだ。
【770年08月17日】
・称徳天皇を大和國添下郡佐貴郷高野山陵に埋葬 ※原文では高野天皇と表記
・天皇は仏教を振興したが、道鏡が寺院建築に国費を浪費したと記載
【770年08月21日】
・皇太子令旨。道鏡法師これを如何に聞く。
・陵土未乾にして姦謀發覺す、と記載。 先帝に免じて重罪には問わず、即日造下野國藥師寺別当として下向させたとある。
【770年08月22日】
・道鏡の弟:弓削淨人、流罪となる ※宇佐八幡宮神託事件の人
【770年08月23日】
・道鏡の姦計を 密告した褒賞として坂上大忌寸苅田麻呂を從四位上に処す
【771年02月22日】
・道鏡が内外に権勢を振るったために淳仁天皇(当時は名無し)が廃帝となった、と記載
・天皇の寵愛をいいことに皇位簒奪を企んだ、と記載
【772年04月07日】
・下野国からの報告によれば下野薬師寺別当、道鏡が死亡した
これによると、葬儀の4日後には "姦謀発覚" で、事情聴取も取調べもなく即日下野国に追放となっている。ずいぶん手際が良過ぎる気がする。
※編纂失敗:このときの編纂では、下書きとなる天平宝字元年紀が何故か編者らによって "紛失" されている。天平宝字元年(757)とは孝謙(称徳)天皇排除計画を巡って440名あまりが大量処分された橘奈良麻呂の乱の年である。光仁天皇としては自分の皇位継承を正当化する書き換えをしたかったのだろうが、まだ当時を直接知る関係者が多数存命中だったため記録抹消までが精一杯だったようだ。
さて基本的に編年体で書かれている続日本記だが、要人の死亡記事のところには一部列伝が挿入されている。六国史に独特の国史体という形式だが、ここに道鏡の略歴の記載がある。では内容を見てみよう。
道鏡。俗姓弓削連。河内人也。略渉梵文。以禪行聞。由是入内道塲列爲禪師。寳字五年。從幸保良。時侍看病稍被寵幸。廢帝常以爲言。與天皇不相中得。天皇乃還平城別宮而居焉。寳字八年大師惠美仲麻呂謀反伏誅。以道鏡爲太政大臣禪師。居頃之。崇以法王。載以鸞輿。衣服飮食一擬供御。政之巨細莫不取决。其弟淨人。自布衣。八年中至從二位大納言。一門五位者男女十人。時大宰主神習宜阿曾麻呂詐稱八幡神教。誑耀道鏡。道鏡信之。有覬覦神器之意。語在高野天皇紀。?于宮車晏駕。猶以威福由己竊懷僥倖。御葬禮畢。奉守山陵。以先帝所寵。不忍致法。因爲造下野國藥師寺別當。遞送之。死以庶人葬之。
■ヘタレ訳ヽ(´ー`)ノ:
道鏡は俗姓は弓削連、河内の国の生まれである。梵文(サンスクリット語)読解に優れ、禅の修行にも優れたことから世に知られた。これにより東大寺の内道場に入り、列せられて禅師となる。天平宝字5年(761年)天皇が保良宮に行幸された折、看病禅師として訪れ寵愛されるに至る。廃帝(※)は天皇と親交を深めることができなかったと言い、天皇は平城京に帰ると別宮に居した。天平宝字8年(764年)太政大臣恵美(藤原)仲麻呂は謀反して誅せられ、道鏡をして太政大臣禅師とした。やがて法王として仏を崇(あが)め、外出するときには天皇と同じ輿に乗るようになった。衣服や飲食は天皇への供物に準じた。政治においては大きな決定から些細なものまで口を出さぬことはなかった。弟の弓削浄人は、一般人からわずか8年にして従二位大納言に出世し、一門で五位(→当時の基準で"貴族"とされた位)以上になった者は男女で計十人に上った。時に太宰府神官習宜阿曾麻呂が八幡神の神託を偽って道鏡に伝えると、道鏡はこれを信じ皇位を窺うようになったと高野天皇紀に書かれている。天皇が崩御されても道鏡はなお幸運に恵まれていると思い込み、天皇陵を護っていた。先帝の寵愛に免じて法に従い罰するに忍びなく、造下野国薬師寺別当として下向させた。死んだ後は庶民として葬られた。
※廃帝:藤原仲麻呂の乱で流罪となった淳仁天皇。実は同時期に保良宮に滞在していた。淳仁というのは後世つけられた名であり、これが書かれた当時は天皇号のない"名無し"状態である。
・・・さて、実はこの時点では "皇位を狙った"、"国政に口を挟んだ" という意味の記載はあるが、巨根伝説に関わるような内容はおろか、称徳(孝謙)帝との男女の関係を匂わせる記述も見当たらない。
歴史書というのは時の政権が自らの正当性を示すために発行する宣伝文書としての側面があって、敗れ去った前政権の代表者=道鏡の悪口を書くのは、まあお約束といえる。しかしこの時点では悪口といっても 「姦謀(=悪だくらみ)」 とあっさり書いてあるくらいで、それ以上の具体性には欠けている。…ともかく、これが道鏡没後25年頃の状況である。
時代が下って平安初期になるとどうだろう。道鏡の没後50年が経過した頃、822年に成立したとされる日本最古の仏教説話集 日本国現法善悪霊異記 (略称:日本霊異記、作:景戒) の第38話に道鏡の話が登場している。ただしこれは、"世の中に吉凶の前兆が現れるときはまず歌となって人々の間で流行するものだ" という因果応報譚を羅列した中の一部として登場するもので、主役級という程の扱いではない。 ここでいう "道鏡登場の前兆" とされる歌は以下のようなものだ。
法師を裳着とな侮りそ
そが中の腰帯に薦槌さがれり
いや発つ時々かしこき響きや
ヘタレ訳:
坊主を喪服の連中などと侮ってはならぬ、その服の下の腰帯には○○○がぶらさがっていて、 にょっきりと立ったさまは実に恐れ多いのだ
坊主を喪服の連中などと侮ってはならぬ、その服の下の腰帯には○○○がぶらさがっていて、 にょっきりと立ったさまは実に恐れ多いのだ
わが黒御曾比、
股に宿し給へ
人となるまで
ヘタレ訳:
(半人前の貴女は)一人前になるまでは、俺様の黒光りする○○○を 股の中に入れておきなさいましっ ヽ( `ハ´)ノ
(半人前の貴女は)一人前になるまでは、俺様の黒光りする○○○を 股の中に入れておきなさいましっ ヽ( `ハ´)ノ
…なんというか、あまりに下品なので訳をつけるのをどうしようかと迷ったのだけれど(汗^^;)、 ホントにこんな歌が流行ったのかよ!…と、 ツッコミを入れるには十分なクォリティ(もちろん低いほうに)である。"法師" とは歌われているものの、歌中には道鏡と直接結びつくような記述はない。作中でこれが流行ったとされるのは光明皇后の時代とされていて、鑑真が来日する直前の世相(=脱税目的の私度僧が溢れ末端では風紀が乱れていた)を揶揄したとも言えなくはないが、…まあその程度の内容なのである。しかし、これが仏教説話のなかで道鏡像とむすびついたことが、後世に影響を残していくことになる。
道鏡本人の記述はというと、歌に続けて称徳天皇と "枕を同じくして交はり通じ天下の政を相摂し天下を治す" との表記がある。巨根伝説とまではいかなくても、この頃には説話の "因果応報ネタ" として女帝と道鏡の姦通話が登場していたようだ。
さらに時代が下って道鏡没後440年、鎌倉時代初期の説話集:古事談 (1212年頃、源顕兼) に弓削道鏡の記述をみてみよう。伝言ゲームのように伝えられて400年以上も経つと、内容も次第に尾ヒレがついてエスカレートしてくる。(万葉仮名から平仮名交じりになって可読性が増したのはありがたいが)
称徳天皇、道鏡の陰なほ不足に思し召されて薯蕷(じょうよ=山芋)を以て陰形を作りこれを用いしめ給ふ間、折れ籠る。由て腫れ塞がり大事に及ぶ。小手の尼見奉りて云はく「帝の病愈ゆべし。手に油を塗りて之れを取らむと欲ふ」なりと。爰に右中弁百川、「霊狐なり」と云ひて剣を抜き尼の肩を切る、と云々。よりてゆること無く帝崩ず。
ヘタレ訳:
称徳天皇は道鏡の男根でもなお不足に思われて、山芋で陰形を作り使っておられたが、ある日それが折れて取れなくなった。そのため女陰が腫れ上がって大変なことになってしまった。手の小さな尼がやってきて診察して言うには 「私が手に油を塗って中にいれ、取ってみましょう。きっと帝の病は治ります」 とのことである。しかし藤原百川が 「こやつは化け狐だ」 と叫んで剣を抜いて斬りつけた。そのため病は治らず、女帝は崩御された。
…これだと女帝の死因となったのは藤原百川のパフォーマンスのようにも読めるが(おい)、ともかく面白可笑しく誇張が派手になってくるのが鎌倉期である。この頃にはすっかり道鏡は巨根だったということにされており、ほぼ同時代の 「水鏡」 には道鏡が不届きにも経典に小便をかけていたところ蜂に刺されて巨根になった云々…とのサイドストーリーまで登場している。 …鑑真が聞いたら泣くだろうなぁ。
江戸期になるともはや巨根の好色男としてのイメージは確固たるものとなり、すっかり川柳のネタとして定着したようだ。有名なものとしては以下のようなものが現代まで伝わっている。
・
道鏡は 座ると膝が 三つ出来
・ 道鏡に 根まで入れろと 詔(みことのり)
・ 道鏡に 崩御崩御と 称徳言い
・ 道鏡に 根まで入れろと 詔(みことのり)
・ 道鏡に 崩御崩御と 称徳言い
ここまで来ると歴史というよりは民俗誌/芸能史のような気がする。笑いたい人だけ笑ってくれというべきだろうか。
ただし笑いのネタになるためには世間における共通認識、あるいは一般教養としてのイメージが定着している必要がある。光仁天皇が歴史書の編纂に苦心した奈良時代末期から1000年を経て、ここに至ってそのイメージは広く固定され "社会常識" にまでなったということだろう。
さらに明治期になると皇国史観による教育が強化されたこともあって、皇位簒奪を企んだとされる道鏡は日本史三大悪人の一人として教科書(さすがに巨根の話は割愛されいたようだが)にも登場するに至るのであった。これが、現代に伝わる道鏡の人物像に大きく影響していると思われる。
これらの記述の変遷をみてくると、参照する文献が書かれた時代によって印象がずいぶん異なってくることがわかる。面白おかしく巨根説を取り上げて論じる書籍や記事(ネット上の個人サイト等も含む)が参照しているのは、表現の誇張された水鏡や古事談など鎌倉時代の書物が多い。
それはネタとしては面白いかもしれないが、歴史上の人物としての道鏡とは随分異なっているといえる。
■もう一人の道鏡
さて奈良編はここで終わるのだが、最後に "もう一人の道鏡" とでもいうべき僧、玄昉について言及しておこう。聖武天皇に重用され、巨大仏教土木路線を聖武天皇に薦め、諸国に国分寺/国分尼寺を建立する大事業を開始させた遣唐使帰りの僧である。活躍時期は橘諸兄の時代で、道鏡の活躍期の30年ほど前にあたる。
玄昉は看病禅師として聖武天皇の母:藤原宮子の治療に功績があったことをきっかけに重く用いられるようになり、聖武天皇の側近として仏教政策を押しすすめた。その経歴は、"称徳天皇にとっての道鏡" とそっくりである。
細かい話を書き出すとキリがないのでここでは結論だけ書くが、740年に玄昉(および吉備真備)を政権から排除することを要求して藤原広嗣が大宰府で反乱を起こし、乱自体は鎮圧されてしまったのだが、これをきっかけに玄昉は影響力を落とし最終的に大宰府に左遷されてしまう。このときの名目は筑紫観世音寺別当としての赴任であり、道鏡の下野薬師寺別当と待遇がよく似ている。
さてそれが巨根伝説と何の関係があるのかというと、失脚後の貶(おとし)められ方が道鏡のケースと非常に似通っているのである。道鏡は死して巨根伝説を残したが、玄昉は聖武天皇の皇后(光明子=光明皇后)と密通していた破戒僧であるとされたのであった。
玄昉が大宰府に下って約半年後、建設中だった筑紫観世音寺が完成し落慶法要が営まれたが、なんとその当日に玄昉は死亡する。医学上の死因は不明だが、伝承では藤原広嗣の怨霊に祟られたものとされ、やがてそれが脚色されて "一天にわかにかき曇り、藤原広嗣の怨霊が現れたるや玄昉を八つ裂きにした" との伝説を残した。
その伝説によると、八つ裂きになって飛び散った頭部がはるばる平城京まで飛んできて、興福寺付近に落ちたという。落ちたところには首塚ならぬ頭塔が建てられた (今回は取材していないが、頭塔は現存する)。
ところで本稿をお読みの諸氏なら先の展開が読めると思うが、もちろん飛んできたのは首だけではない。破戒僧の因果か、股間の○○○も引きちぎられて飛んできており、やはり平城京に落下したと言われている。落下地点にはそれを供養する塚が建てられたと言われ、こちらはマラ塚と呼ばれている。場所は称徳天皇陵の北東800mほどのところ、塩塚古墳に隣接した林間部である。
さてそんな訳で、せっかく奈良まで来たのだから一箇所くらいそっち系の遺跡を確認しよう、という酔狂で入ってみたのだが…それはもうほとんどクルマがすれ違うことなど考えていない細道の最奥なのであった。もちろん間違っても観光名所にはなっていない。
これがそのマラ塚である。形状としては前方後円墳らしく、長辺は20~30mくらいはありそうだ。現況は草木の茂るに任せているの風であり、あまりきちんと管理されているような印象はない。案内板等もなく、GPS(というかカーナビ)が無ければ地図を照合するのも困難で、にわかにはここがマラ塚だとはわからないだろう。
ちなみにこの種の墳丘墓の造営は大化改新(645年)時の薄葬令で天皇以外は原則禁止となっており、そうなると消去法でこのマラ塚はそれ以前の造成(~7世紀前半)という推測ができそうだ。要するに飛鳥時代、もしくはそれ以前の誰かの墓である。
…それにしてもどんな豪族の親分様がお眠りかは存じないが、自分の名前がすっかり忘れ去られ、墓所はいつのまにか "マラ塚" という事にされてしまっている現況を知ったら、ご本人はさぞ驚くことだろう。
さて、こうして金精神のルーツ(のひとつ)としての道鏡の姿を追って来たのだけれど、どうにも巨根伝説というのは後付けのような感がある…というのが、ひとまずの結論のようだ。
宇佐八幡宮信託事件を巡る前後の状況は、皇位継承に絡む女帝と僧のスキャンダル、ということでインパクトのある出来事なのは間違いない。奈良時代に終止符を打ち、平安時代以降の歴史を作っていったのは、このスキャンダルで天武系血縁にトドメを刺して勝ち残った天智天皇の皇統と藤原氏の一族である。当然、自己の正当性を訴えるためには歴史書を編纂して "葬り去った前政権の悪口" を書かねばならない。ただし称徳天皇本人の悪口は書きにくいので、必然的に側近の道鏡がスケープゴートとされた。
そして事件の直接の当事者がいなくなった50年後くらいから、主に説話の中でシモネタが盛り込まれていった。説話は公式な歴史書ではないので事実関係に責任をとらなくて済むうえ、正史において悪役の側に立った人物ならば多少の嘘や誇張が入っても咎められることはない。そして時代を経るごとにいろいろな尾ヒレがついて、巨根伝説につながっていった…まとめてみると、こんなところだろう。
そのような次第で、次回以降は下野の国における金精神、そしてその後の道鏡の足跡を追ってみたい。
【ひとまず完】
■奈良編:あとがき
いやー、長かった! 昨年の沖縄も長かったけれど、にわか勉強で歴史的経緯を調べるというのは非常~にホネの折れる作業で疲れます。特に古事談の原文というのはネットではほとんどみつからず、書籍を探しても入手しやすいのは口語訳ばかり。それも明治期以降の版の再録版ではは称徳天皇の段が抜け落ちていたりして…(笑) しかしまあ、事実関係の解釈とか理解とか、いろいろ不安な要素はあるのですが、まあそんなに大ハズレはないんじゃないかな…ということで、こんなカタチでのまとめと相成りました。
奈良時代の仏教政策を総括すると、その主な事業は聖武天皇+称徳(孝謙)天皇の父娘二代の時期に集中しています。相次ぐ遷都の試みと併せて、その所要労働力の巨大さは現在の想像を遥かに超えるものだったでしょう。奈良時代は近世以前で天皇の力がもっとも強かった時代であり、この強権+事業モデルとしての中国(唐)の存在が、無茶苦茶ともいえる仏教政策の実現に寄与していました。
しかし宗教施設は産業的には何の価値も生み出さない非生産施設の極致でもあります。文化遺産という点では確かに価値を残しましたが、産業的にみればこの巨大宗教土木政策によって日本の国力が増大したわけでもなければ、生産性が向上した訳でもありません。皮肉なことに国土開発という点でいえば荘園開発のほうがよほど全体の生産性向上に寄与していたといえます。聖武天皇(+光明皇后)、称徳(孝謙)天皇の想いとはうらはらに、民衆の負担ばかりが増えたというのが、この路線の結末でした。
その最後の5年間の政策を太政大臣禅師/法王として取り仕切った道鏡ですが、称徳(孝謙)天皇の代は父帝時代に大量発注された案件の消化を必死にこなしている性格が強く、物量的に父帝を超える事業が出来たわけではありません。道鏡はのちに国費を浪費した主犯のように非難されるのですが、それは仏教土木路線の最後の瞬間に責任者の立場にいたとばっちりのような面も少なからずあったことでしょう。
ところで土木路線ということで言えば、694年遷都の藤原京~794年遷都の平安京までのちょうど100年間(奈良時代+前後10年少々)は、遷都ラッシュともいえる異常な量の土木工事が集中しています。天皇の権力が絶対的に強く、律令制が機能して朝廷財政にそれなりに収入があったため、ポンポンと勅が出せたわけです。
それが平安京で打ち止めになるのは、荘園が急速に拡大して荘園主=貴族/寺社が肥え太り、朝廷の収入が激減したことによります。摂関政治の頃になると天皇は飾りみたいなもので実質的な権限は何もなく、耕作地も9割以上が荘園化していたといいますから、平安京の御所や羅生門が荒れ果てるのも理解できようというものです。そういえば平安遷都以降、教科書に載っている文化財/国宝なども荘園領主(貴族、寺社)や武家の造ったものばかりになって、天皇が勅を出して大事業を行った…という事例はほとんど見かけなくなりますね。
歴史に if はない、とは言いますが、道鏡政権の墾田永年私財法停止がその後も維持されたとしたら、そして藤原氏の勢いを抑えることが出来たなら、日本の歴史はまたずいぶんと変わった方向に流れたことでしょう。奈良の都の跡地を巡りながら、そんなことを思ってみました。
<おわり>