2008.04.05 金精峠に道鏡の巨根伝説を追う:奈良編2 (その3)
■唐招提寺
西大寺を後にして、西日の傾くなか次に向かったのは唐招提寺である。ここでは、道鏡の時代にもたらされた "戒律" とその意義について考え、称徳帝と道鏡との間に愛人関係が成立しえたかを考えてみたい。
西大寺から唐招提寺へは、近鉄彊原線沿いに西二坊大路の痕跡をたどりながら南下して行く。かつての市街地もいまではすっかりのどかな田園である。
咲く花の匂うが如し…と歌われた都の市街地が水田に変わってしまった時期は意外と早く、平安遷都から70年ほど経った貞観6年(864年)頃にはもう一面の水田であったという。せっかく国家予算を投じて整備した社会資本を壊して農地にしてしまうというのは現代の感覚では想像しにくいが、この時代の "遷都" とは主要な建物を解体して新しい土地に移築するという方法論で進行したため、旧都となった市街は廃墟のような状態であり、耕作地にしてしまうことが実は土地の有効利用もつながったらしい。
途中、垂仁天皇稜をみる。200mを超える第11代天皇の墳墓で、奈良の都はこの古墳を条坊内に取り込む形で造営されていた。手前の小島も実は墳墓で、かつてはあそこまでが土手だった。この一帯が水田になったのち、古墳の周囲を囲む堀を "溜池" として農業用水に使うために拡張して現在の形になったそうだ。
天皇陵にこんな改造を加えてしまうなんて現在では宮内庁がとても許可しないだろうけれど、水田となった旧市街地を潤すためにかつてはこんなことまで行われたとは、今昔(こんじゃく)の価値観の違いを考えるうえで興味深い。
さて唐招提寺周辺は、扱いのぞんざいな西大寺と違ってそれなりに丁重に景観が保存されていた。
ここは唐からはるばる来日した高僧、鑑真和上の開いた寺である。足掛け10年、6回にわたる渡海の試みの果てついには失明しながら来日を果たし、日本の仏教界に戒律をもたらしたことで知られる。戒律とは出家する際に誓約する仏教僧として守るべき規律のことで、正式な儀式を経てこの誓約を行うことを受戒という。
仏教では本来、この受戒の儀式を受けなければ正式の信者とも正式な僧とも認められない。鑑真以前の日本には正式な受戒制度がなく、僧として守るべき規律/規範が明確ではなかった(…というより意識されていなかった)。さらに僧職は税を免除される特典があるため、脱税目的で形ばかりの私度僧に化ける者も多かったという。これらの混沌とした状況に "規律ある一定の秩序" をもたらすためにも、受戒の制度は必要とされたのである。
鑑真の来日は大仏開眼には間に合わなかったが、聖武上皇(当時)、孝謙天皇には篤く歓迎され、戒壇の設立と授戒についての一切を任されることとなった。鑑真は東大寺に5年ほど籍を置き、この間に東大寺境内に日本最初の戒壇がつくられ授戒の制度が整えられた。
最初の授戒(菩薩戒)の儀は鑑真が東大寺入りして4ヶ月後のことで、聖武上皇/孝謙天皇を筆頭に430名あまりが受戒している。なお当時の東大寺には道鏡も在籍しており、当然ここで受戒したことだろう。
戒壇は東大寺のほか西は大宰府、東は下野薬師寺に設けられ、僧になるものはこれら国内3箇所のうちいずれかで受戒し正式な僧となる制度が整えられた。
なお大宰府、下野薬師寺の戒壇院が稼動するのは761年頃であり、それまでの7年間は東大寺が唯一の戒壇として機能した。鑑真が東大寺に在籍したのは759年までなので、鑑真による授戒の儀を受けられたのはこの時期に東大寺まで来られた者…つまりほぼ畿内在住の僧に限られたのではないかと思われる。
※戒壇はのちに延暦寺など他の宗派にも作られるようになっていくが、戒律を規制緩和し過ぎた(^^;)ために当時の中国仏教界からは正式な戒壇としては認められていなかったようだ。
さて前振りはその程度にして境内に入ってみよう。
唐招提寺は東大寺と比べるとなんとも質素なつくりだ。奈良公園(興福寺/東大寺/春日大社etc)方面と比べると訪れる人も少なく、静かなる古刹といった感がある。(さすがに西大寺ほど閑散とはしていないが)
鑑真が新田部親王宅跡地を下賜され唐招提寺を建立したのは、来日から6年後の759年のことであった。三戒壇の整備も軌道に乗り、東大寺とは別に自らの拠点となる寺院を建てたのである。時期的には孝謙天皇退位→淳仁天皇即位の頃であり、淳仁天皇の勅によって僧綱(そうごう:僧を管理する官職)の任を解かれているため、体のよい左遷だったと見る向きもある。
しかし最終的に無官であったためか特定の有力者の栄枯盛衰と命運を共にすることなく、唐招提寺は平城京内の寺院としてはほぼ唯一、創建時の伽藍配置をほぼそのまま現代に伝えている。
さてその伽藍だが…国宝である金堂と舎利殿(鼓楼)は大規模な解体修復工事中で鉄骨とビニールシートの中、主要仏像も修理工房入りで、見どころ的には何ともタイミングの悪い時期に来てしまった。 TVで奈良観光のCMを打ちまくっているJRには申し訳ないけれど、これから旅行に行く予定…という人には、「あと2、3年くらい待ったほうが見ごたえのある奈良観光ができそうな気がするぞ」 …と言っておこう。
仏舎利が収められているという鼓楼(国宝)はこんな形でだがみることは出来た。仏舎利といっても本物の釈迦の骨はアショーカ王時代に灰や土交じりの状態で8万余に分骨され切ってしまい、その後は由緒ある仏塔で供養された石や砂粒が "代用品" として用いられたという。
唐を経由した仏舎利 (→鑑真が日本にもたらした) は既にこの代用品であった可能性がたかいが、あまり厳密なことを言い出すとロマンが無くなるので黙っておこう。 そもそも釈迦が唱えた思想を実践するのに骨が必要かといえばそんな教義はなく、ご本人が生きていたら 「重要なのは悟りに至る思想だろーが!」 とか言いそうだ。
※鑑真がもたらした仏舎利はなんと3000粒にも及ぶという。寺院における塔は釈迦の墓を象徴しているそうで、ここに仏舎利を収めるのが一流寺院のステータスとなるらしい。
さてここで見たかったのは、戒壇である。唐招提寺の戒壇は鎌倉時代に作られたもの(初期からあったとする説もある)で、ここでは現在でも受戒の儀式が行われている。
実をいうと東大寺の取材中、戒壇院を見ようと思いながら大仏殿から反対側の二月堂方面に行ってしまい時間の都合でカットしてしまったのであった。もう1日日程が取れれば余裕をもって巡回できたのだけれど…まあ、そこはそれということにして話を続けよう。
仏教で言う戒律とは、自分で自分を律する内面的な規範である "戒" と、複数の正規僧の前で誓約する教団として守るべき規範としての "律" を合わせたものである。律を誓約するには正規(=受戒した)の僧10名以上で受戒の儀式を行う必要がある。この10名の僧を三師七証といい、三師とは授戒の儀式を取り仕切る戒和上、表白文を読み上げる羯磨師、儀礼作法を教える教授師であり、七証とは証人となる七人の正規僧である。鑑真は20余名の弟子を連れて来日しており、彼ら弟子僧が初期段階におけるこの七証の役を買って出た。
筆者は人様に薀蓄(うんちく)を垂れるほど仏教儀式に詳しいわけではないので詳細は割愛するが、戒律には大雑把にいって菩薩戒と沙弥戒、具足戒というのがあるらしい。菩薩戒とは仏教信者と僧に共通の基本的な戒律で、僧になるにはさらに沙弥戒、次いで具足戒を受けるのだという。受戒すると仏教徒としての名前=戒名を授かることになる。
受戒した者が守らなければならない誓約は男僧で250戒、尼僧で348戒にのぼり、その中には優先順位の高いものとして不殺生、肉食の禁止、そして不淫戒が含まれている。妻帯や情交などもってのほかである。現代の日本仏教では妻帯坊主がごちゃまんと居て 「戒律って何だよヽ(`д´)ノ」 とツッコミのひとつも入れたくなる状況だが、これは平安期~鎌倉期に雨後のタケノコのように登場した "新仏教" 各派で大幅な規制緩和が行われたものであって、奈良時代に鑑真がもたらした厳格な四分律とは別物と考えるべきだろう。
ついでに言えば、現代日本では死後に戒名をもらうことが一般化してしまっているが、これも新仏教(平安仏教/鎌倉仏教)が広がっていく過程で "死後でも受戒できることにしちゃえ" という "なんちゃって戒律"が定着してしまったものだ。(敷居が低くなったおかげで一般民衆に広まった面もあるのだが…まあ、そこはそれ)
東大寺における道鏡と鑑真の同居期間は最長で5年ほどあった可能性があり、その間には道鏡は鑑真の仏典講義を聞いたであろうし直接問答する機会もあったと思われる。仏教僧としては破格の恵まれた環境である。
道鏡が伝説通りの人物像であればこの頃にはもう巨根を振り回して風俗三昧…ということになるのだが、実際には東大寺別当良弁僧正から孝謙天皇に対する看病禅師の推薦をもらっているくらいだから、それなりに品行方正ではあったようだ。
その厳格な鑑真から受戒した孝謙上皇と道鏡が保良宮で出会ったのは、まだ鑑真存命中の761年のことであった。
さてそこで2人の間に後世に言われるような性的な関係があったかというと…ちょっとどうだろう。その場に居合わせた訳ではないので断言することは勿論できないのだが、議論の核心としては、受戒後間もない仏教僧:道鏡と、その仏教に帰依し保護者の筆頭でもあった孝謙上皇の間で、不淫戒を破ることが可能であったか、というその一言に尽きる。
…まあ、普通はないだろうな(笑)
ところで唐招提寺を開くにあたって、鑑真がまず整備したのは講堂だったという。寺院の建立というのは普通は仏像を安置する金堂から着手するものだが、鑑真はそんなものは後回しにして、まず僧尼の守るべき規範=戒律を説くための "教室" を造ったのだった。ここに、鑑真の目指したものの本質が垣間見える。
初期の唐招提寺を想像してみれば、それは仏像も宝塔もないただ講堂があるだけの一角である。金堂や塔はのちに弟子たちが徐々に整備していったが、鑑真本人がその完成を見ることはなかった。
だんだん日が傾いてくるなか、整備工事とは無縁の一番奥まったところを目指して歩く。
鑑真和上の眠る墓が、この奥にあるのだ。
静かな木立のなか、一番奥まったところにささやかな墳墓があり、五輪塔が建っていた。これが、鑑真の墓である。塔には何の文字も刻まれていない。
…考えてみれば釈迦が最初の教えを説いたとき、そこに仏像(→自分の偶像 ^^;)などは無く、塔(→自分の墓 ^^;)も建っていなかった。仏教寺院や仏像の様式は全部後世の作である。鑑真が必要としたのがまず講堂だったというのは、実は原点に最も近い仏教者の姿だったのかもしれない。
その点、派手で巨大な宗教施設を造ればそれで世の中が安定すると考えた聖武天皇、光明皇后、孝謙天皇らは実はちっとも本質を理解していなかったかもしれず、それは道鏡もまた然りである。今風にいえば 「形から入る」 の典型だったともいえるかも…いや、まあ特別信心深くもない筆者が言うことでもないか(笑)
鑑真の墓の傍らには、天安門事件で失脚した趙紫陽の植えたケイ(王片に京)花の木があった。中国共産党の都合次第では彼も道鏡のような伝説を残すことになるかもしれないが、そのときは…下手な川柳でも詠んであげよう。
※どうやら中国の鑑真展に唐招提寺から鑑真像を貸し出した返礼として、失脚前の趙紫陽がここを訪れたらしい。
鑑真と道鏡の直接的な関係については、筆者がにわか調査した範囲内ではよい資料がみつからなかった。
筆者の印象としてはどうも道鏡悪玉説というのは後世の創作が多分に混ざっているような所感をもちつつあるのだけれど、高名な先生と同じ学内にいたから生徒も品行方正である、というのは乱暴な議論なのでやはり結論は出しにくい。周辺事情を積み上げていって、最後のところはやはり推論に推論を重ねるしかないのだろうな。
ところでその鑑真の目指した "戒律のよく守られた規律ある仏教" は、この後100~200年ほどの間に大きく変貌していくことになる。
平城京が首都の座からすべりおち寺社ばかりが残る宗教地区となった平安時代、かつて日本を代表する寺院だった東大寺と、藤原氏の氏寺に過ぎなかった興福寺のパワーバランスは、大きく興福寺側に傾いていく。やがて僧兵が跋扈するようになると戒律は形骸化していき、唐招提寺も徐々に衰退していくのである。
ただしそれでも戒壇は残った。鑑真の願った厳しく自らを律する仏教とはかけ離れヘタレ宗教に変質していった日本仏教だが、それでも鑑真以前に比べたら多少はマシといえる。その鑑真のエッセンスをもっとも色濃く受けたのが、その存命時に戒を受けた道鏡の世代だったというのは、なんとも興味深い。
<つづく>