2008.06.14 金精峠に道鏡の巨根伝説を追う:下野編2 (その1)




今回は道鏡の下野国に左遷されて以降の足跡をたどりますヽ(・∀・)ノ


今年は金精神のルーツ=道鏡を追いかけて終わってしまいそうな感があるのだけれど(取材=6月、記事を書いているのが11月)、まあ気にしないで進めてみよう。取材したのは称徳天皇崩御の後に道鏡が左遷された下野薬師寺の周辺である。まずは地図ばかりが連続するが少々我慢してお付き合い願いたい。




さて770年8月17日、称徳天皇の大葬礼が行われ、その4日後に道鏡は失脚した。きっかけは坂上大忌寸苅田麻呂による "姦謀発覚す" の密告であり、道鏡は弁明の機会もなく即日下野国の薬師寺別当として飛ばされてしまう。奈良の都は称徳帝の血統から100年以上も前に分かれた傍流(天智天皇系)の光仁天皇と、その背後にいる藤原永手/藤原百川らの手に落ち、天武系の皇統は称徳天皇を最後に途絶えた。これ以降の日本史は天智天皇の血統と藤原氏によって紡がれていくことになる。

左遷された道鏡が下野国に下向する際に通ったのは、当時の官道である東山道と推察される。平城京から東日本側の主に内陸部を通って奥州にまで続く公道で、下野国府までの旅程は15~30日程度(携行する荷物の多少によって差を生じた)であったと思われる。道鏡が通ったであろう旧暦8月下旬~9月上旬は現在の太陽暦でいえば10月に相当するため、道中は紅葉を見ながらの旅路になったことだろう。




道鏡が下向した770年当時の東山道は、武蔵国(現在の府中に国府があった)が東山道に属していたために、新田駅から大きく南下して武蔵国に至り、ほぼ同じ街道を引き返してきて足利駅を経由して下野国府に至るという変則的なルートが本道とされていた。これでは不便なので翌年、武蔵国を東海道に組み替えて、新田-足利を直結する措置がとられているが、道鏡がこの回り道を馬鹿正直?に進んだのかは定かではない。

ちなみに左遷とはいえ、道鏡は一人でトボトボと歩いて下向したわけではなかった。官位はすべて剥奪されていたものの、下野薬師寺別当の職といえば仏教僧としてはそれなりの地位であり、幾人もの従者を従え中級貴族程度の体裁は整えたうえでの下向であった。




■下野薬師寺跡




その薬師寺は、現在は自治医科大学に隣接する水田地帯にその痕跡を残している。




クルマ一台がようやく通れるくらいの路地の奥に、史跡 「下野薬師寺跡」 が整備されている。古代の下野国を代表する遺跡として現在も発掘調査が行われており、隣接して資料館も建っている。この付近の地名はそのものずばり "薬師寺" である。こういうストレートな地名はわかりやすくて好感がもてる(笑)




復元作業も多少は行われているようだが、現状では回廊の礎石の並びが一部再現されている程度である。奥側に見えるのは回廊の建物の一部を再現した部分だが、長さは10m程度といたってささやかな規模だ。




公園の体裁で整備されている南西側の一角には、下野薬師寺の全体像をタイルで表現したモニュメントがあった。

縮尺が入っていないので多少分かりにくいが、この寺院の敷地は南北350mX東西250mほどもある。サッカーのワールドカップ公式試合が10面以上同時開催できる程度の広さで、もちろん地方の寺院としては破格の規模である。ここに封田として500ha(→寺の敷地の約55倍)ほどの水田が付き、そこから収穫される米が寺の経済を支えていた。




資料館で許可をいただいて模型の写真を撮らせていただいた。こうして立体化すると寺の構造がよくわかる。公園化して礎石が並んでいるのは内側の回廊の左端の部分である。塔は一基のみだが、基礎部分の一辺が12m、高さは推定で30m以上あったとみられており、まだ縄文の風景を色濃く残す地方においては異彩を放つ建築であったと思われる。

なお写真にみえる一塔三金堂という形式は発掘調査の結果2005年になって明らかになった構造で、国内では他に奈良の飛鳥寺を数えるのみという珍しいものらしい。下野薬師寺の成立には藤原不比等と同時期に活躍した有力貴族:下毛野朝臣古麻呂(下野国造で河内郡付近を治めていた)の影響が大きい。

※下毛野朝臣古麻呂は藤原不比等とともに大宝律令の制定にも関わっており、古代下野国にあっては非常にメジャーな人物である。…が、悲しいことに学校の歴史教育でお目にかかることはまず無い。なんだかなぁ。




さてこれが唯一復元されている回廊の一部である。大陸的な雰囲気があり、東大寺大仏殿の周囲を囲っていた回廊と構造がよく似ている。この時代のスタンダードな様式なのだろうな・・・




こちらは草地の中に残る五重塔の跡。遺構発掘調査の後は埋め戻して保存されている。創建当時の塔は内側の回廊内にあったとする説もあるが、まだ実際の遺構は発見されていないようだ。




現在、旧薬師寺の中心部を継承しているのは安国寺である。周辺は宅地や田畑に侵食されて寺域はずいぶん小さくなっているが、その歴史は長い。安国寺とは足利尊氏が鎌倉幕府を倒したのち、かつての国分寺に倣って天下太平を祈願し全国に配した寺院である。下野国にあっては先行する大寺院として下野薬師寺があったことから、これを改称して安国寺とした。つまり由緒としては直継である。

安国寺として改称した当時はまだ創建時の伽藍配置が保たれていたようが、のちに戦国時代に入って1570年、北条氏政による兵火によって主要な建物が失われ、今日に至る。北条氏政は小田原を本拠地にする戦国大名で、戦国末期に関東の主要地域を支配し最大版図を築いたのち、豊臣秀吉による小田原攻めで滅亡している。…が、そのあたりを調べだすと長いので今回は端折っておこう。




さて下野薬師寺の重要な機能としては戒壇がある。僧侶に受戒の儀を執り行う、当時の日本に3箇所しかない施設である。現在は戒壇院の建物は失われているが、同じ場所に建つ六角堂(釈迦堂)がその痕跡をいまに留めている。道鏡はこの 「東の戒壇」 の総責任者としての立場で下野薬師寺に入ったのであった。




ちなみに当時の三戒壇の受け持ち区分は↑このような分担である。ただし道鏡の時代にあっては朝廷の東北支配は不完全であり、下野薬師寺の勢力圏は実質的に関八州と陸奥国南部(福島県~宮城県の一部)程度ではなかったか…と筆者は想像している。(※坂上 田村麻呂による東北遠征はまだ30年ほども先のことである)

なお僧の受戒の儀は3年に1度と定められ、下野薬師寺にあっては三師七証ではなく、略式として三師二証(辺国之式)でよいとされた。儀式に先立って試験とか予備審査があったかどうかはよくわからない。ただし3年に一度しか機会がないというのは相当に厳しい選抜条件だったといえる。



鑑真が整備した戒壇はここ下野薬師寺においては761年から稼動し、そこから3年おきに4月15日頃に受戒の儀が行われている。そうすると受戒の儀の開催は764、767、770、773年・・・となるが、これを道鏡の在籍期間(770年9月~772年4月没)と重ねると、実は道鏡本人は受戒の儀に立ち会う機会がなかった、ということになりそうだ。

人の寿命は神のみぞ知る…と言ってしまえばそれまでなのだけれど、せっかく東国を代表する戒壇院に赴任しながら最後の一花を咲かせる機会に恵まれなかったとするなら、多少の同情は禁じえない。




■薬師寺郷八幡宮




下野薬師寺の敷地の東端、五重塔の遺構の先に、八幡宮が鎮座しているので行ってみた。もとは下野薬師寺の寺内社であったらしいが、建立は貞観17年(875年)というから道鏡の死後1世紀ほど後のことであり、道鏡存命時代とはズレがある。




由緒としては源頼義と関係が深く、現在の社殿は江戸期初期に佐竹氏が寄進したものである。




それが今回のテーマとどんな関係があるかというと、この末社に大いに関係があるのである。




なんと、ここにも金精神社が堂々と鎮座ましましている。そればかりか、八幡神の金精様なるものまで祀られている。神をも畏れぬ所業というか…もはや落語のようなノリすら感じてしまいそうだけれど…




これが、その金精様である。右の小型のものが八幡様、左のひときわ立派なほうが道鏡の金精様のようだ。これはなかなか恐れ入る。




奈良編で考察したように、道鏡の巨根説が面白可笑しく吹聴されていくのは鎌倉期あたりからと思われるのだが、やはりこの八幡宮もその軸線上にあるのだろうか。道鏡の存命期あるいはその直後といった時期ではなく、当時を知るものがいなくなってから、伝説上の存在として神格化され御利益とむすびついていく…。ここには、どうやらそんな過程がみえているような気がしてならない。

<つづく>