2008.06.14 金精峠に道鏡の巨根伝説を追う:下野編2 (その2)




■龍興寺




次に向かったのは龍興寺である。下野薬師寺から500mほど南下すると、今ではすっかり路地裏道となってしまった古道の奥にその境内がみえてくる。ここも道鏡とその周辺事情を考察する上では欠かせないスポットである。




龍興寺は、下野薬師寺の別院であり、その創建は680年と下野薬師寺と同時期にまで遡る。建立の勅を出したのは天武天皇であり、奈良時代を経て一通りの伽藍の整備をみた。そののち761年にはかの鑑真和上が下野薬師寺の戒壇院設立にあたり、唐:揚州龍興寺の舎那殿壇の法をこの寺に伝え、寺の名も生雲山龍興寺と改称した。




揚州の龍興寺
といってもピンと来ないかもしれないが、これは鑑真が日本に渡航する前に在籍していた唐の名刹であり、当時一流の学府である。鑑真はここで仏教を学んだ後、洛陽、長安を巡って律宗を修め、日本僧栄叡、普照に来日を請われたときは大明寺で律を講じていたのであるが、僧としての籍はずっと龍興寺のままであった。

その出身母体である寺の秘伝を直々に伝え、寺の名前も継がせたところからみて、鑑真の意気込みは只事ではない。単なる寺院整備の域から一歩踏み込んで、仏教知識の一大集積場としての性格をこの寺院に込めていたように思われる。




ちなみにその鑑真の魂を受け継いだ下野国戒壇第一期生に、日光開山の祖、勝道上人がいる。戒壇の稼動した761年から4年間、この龍興寺にて修行をし、道鏡が下野薬師寺に赴任してきた770年頃には日光:男体山に不屈の闘魂で波状アタックをかけている。山を降りて寺に戻った時には道鏡ともなんらかの接触があったもしれないが、残念ながら詳細な記録は残っていない。




さてこれが龍興寺の入り口である。天平風を思わせる山門が特徴的なこの古刹は、本院である下野薬師寺と対になってその栄枯盛衰を共にしてきた。ただし現在の敷地は創建時からかなり削りこまれて、数分の1以下に縮小している。




山門を入るとすぐに本堂がみえる。現在の本堂は安政7年(1860)の築で、建物の向きからすると江戸末期には既に現在のような敷地状況だったと思われる。

現在の山門、本堂は西を向いているが、オリジナルの山門は南側(写真では右側)にあり、現在は薬師寺小学校となっている部分を越えて100m以上先にあった。さらに現在の山門を越えて西側200mほどのところに二月堂があり、それらの配置から類推すると、往時の寺の敷地面積は下野薬師寺に準ずる広さがあったようだ。
本院/別院の役割分担がどうなっていたのかはよく分からないが、勝道上人の事例から類推するに、下野薬師寺が戒壇院(試験センター?)なら龍興寺は学僧のための図書館兼学生寮のような役割分担だったのかもしれない(ただしこれは単なる想像である)。




しかしかつての大伽藍も、やはり下野薬師寺と同様に戦国末期、北条氏政による兵火で灰燼に帰し、往時の建物は残っていない (それにしても本当に文化財破壊魔だな、北条氏政って…)。 この付近が戦国の兵火にたびたび遭ったのは、ここが上杉/佐竹/北条の各勢力の境界付近にあたり争奪戦が激しかったためだが、話が逸れるのでここでは詳細を割愛する。



さて前振りが長かったが、ここで道鏡の話に戻ろう。

兵火に遭っていったんは焼失した龍興寺だったが、その境内には火災を免れて現代に伝わっている史跡がある。それは、道鏡塚である。筆者は今回、これを見たくてこの寺にやってきたのであった。




さて772年4月7日、かつて法王とまで呼ばれた高僧、弓削道鏡はここ下野の地で生涯を閉じた。続日本紀には 「死以庶人葬之」 (死して庶民として之を葬る)と書かれているのだが、現代に伝わっている道鏡塚は庶民の墓とは随分様相が違う。




これがその道教塚である。

案内板の後ろにある古い墓石をそれだと勘違いしてしまう気の早い(?)方もいるようだが、背後にある直径30mほどの小山が塚の本体である。形状としては円墳で、規模といい、形状といい、筆者は奈良で見た鑑真の墓にそっくりな印象を持った。これはどう見ても貴人の墓所で、続日本紀の記述とは矛盾している。

これを見る限りどうも道鏡は世間で思われているほど失意の日々を送った訳でも、寂しい最後を遂げた訳でもなさそうに思えてくる。それなりに丁重な扱いを受けているように見えるではないか・・・




ここで少し考察してみたい。まず状況整理のために、鑑真と道鏡の没年前後の出来事を年表風にまとめてみると次のようになる(日付は旧暦による)。



【761年】
・鑑真、下野薬師寺に戒壇を設置(第一回の受戒の儀)
・鑑真、下野薬師寺別院に秘伝を伝授、自身の出身寺 "龍興寺"の名を継がせる

【763年】
・鑑真死去

【764年】
・藤原仲麻呂の乱。これ以降、称徳(孝謙)天皇と道鏡が政権中枢を握る

【770年】
・8月17日:称徳(孝謙)天皇大葬礼
・8月21日:坂上大忌寸苅田麻呂の密告により、道鏡、下野薬師寺に左遷
・9月某日:道鏡、下野薬師寺に入る

【772年】
・4月7日:道鏡死去 (朝廷には庶民として葬ったと報告)



二人の没年の差は9年。近親者/関係者が世代交代してしまうほどの時間差ではない。2人の葬儀/墓所造営に共通に関わった者がいれば、同じ思想でそっくりのものを造営することは容易だろう。…が、これは探すまでもない。

あまり歴史ミステリー仕立てにして引っ張っても仕方がないので筆者的な推論をさっさと書いてしまうが(笑)、2人に共通の関係者で、かつ墓所造営に関わりが深いのは、ずばり下野薬師寺/龍興寺の僧たちだったと筆者は考えている。あるいはもっと広範囲に "鑑真チルドレン" としての仏教勢力と捉えても良いかもしれない。

残念ながら鑑真に最も詳しい唐大和上東征伝(779:淡海三船 ※)をみても、葬儀参列者や陵墓造営についての記述はなく、下野薬師寺/龍興寺の関与の様子はわからない。しかしこれら二寺は鑑真最晩年の仕事の結晶であり、その僧職たちは当然、唐招提寺まで上って師の葬儀、陵墓造営に深く関わった筈である (…常識的に、いくらなんでも師匠の葬式をスルーはしないだろう)。

※鑑真の墓所に関する遺言としては "戒壇院に於いて別に影堂を立てよ、旧住の坊は僧に与えて住わせよ" とある程度である。




やがて7年後、都を追われたかつての法王、道鏡が下野薬師寺別当として赴任してくる。政争に敗れたとはいえ、この時点では道鏡の悪評のようなものは定着しておらず、下野薬師寺では敬意をもって迎えられたと思われる。特に下野薬師寺/龍興寺は天武天皇の勅により創建された歴史をもち、道鏡の仕えた孝謙(称徳)天皇も天武天皇の血統であったことから浅からぬ縁がある。そしていずれも鑑真を通じて共通の思想的/知識的なバックボーンをもっていた。

一方、これら二寺は新しく皇位を継いだ光仁天皇とはほとんど接点を持たなかった。光仁天皇は久しぶりに復活した天智天皇の血統であり、東大寺大仏建立をはじめとする奈良時代の仏教振興路線(主に天武系の聖武/孝謙天皇による)には関与していない。光仁天皇の代に入るとこの仏教重視路線は大幅に見直され、政教分離が図られるようになった。これは寺社勢力にとっては痛手であり、あまり面白い状況ではなかったことだろう。




なんだかわからん、という方のために当時の状況をものすご~く単純化した図にすると↑このようになる。下野薬師寺/龍興寺は天武天皇系の皇統のもとで建立、整備されてきた寺院であり、鑑真、孝謙天皇を媒介して道鏡ともつながっている。仏教に冷たい光仁天皇よりは親仏教路線だった孝謙(称徳)天皇側に近い立ち位置にあって、そのような背景のもとに、左遷された道鏡を受け入れているのである。

そして在籍1年半にて道鏡が没すると、鑑真とほぼ同規模、同形式の墓がここに造営された。それはもちろん下野薬師寺と別院:龍興寺によるものである。皇位を狙った罪人としてではなく、貴人に対する礼をもっての待遇であった。

…多少の妄想?も入っているが、おそらく実態はこんなところではないだろうか。朝廷には体裁よく 「庶民として葬った」 と報告しておき、光仁天皇とその側近も失脚した者の墓などいちいち改めなかったとすれば、史料と現場の相違について筆者としてはそれなりに合点がいく。




さて一方ではこのとき、光仁天皇は自身の皇位継承を正当化するためにウリナラ的ともいえる歴史の書き換えを試みている。続日本紀は道鏡失脚時には前半30巻までが編纂されていて文武天皇~孝謙天皇の治世までが記載されていたが、光仁天皇は淡海三船、石川名足、当麻永嗣らの官吏に命じて内容を修正させようとした。

書き換えの対象となったのは先代の孝謙天皇排除を狙った橘奈良麻呂の乱(天平宝字元年:749年)の前後であった。橘奈良麻呂の乱は朝廷内400名以上が連座して処分された大事件であり、書かれてはまずいこと=陰謀に加担したことであるから、実にわかりやすい書き換え意図ではある。

しかし結局、当時を知る人々がまだ多数存命したことから書き換えは思うに任せず、議論は紛糾し結局 「天平宝字元年紀」 の部分が "まるごと紛失" するという不可解な決着をもって事態が治まった。最終的に続日本紀の前半部が編纂終了するのは次代の桓武天皇の治世であるが、巻数は20巻と縮小されての刊行となった。何がどう削られたのかは不明である。




さて道教塚の案内板をみると、奈良西大寺でみた "道鏡を守る会" がここでも静かな主張を掲げていた。

筆者はこの会とは何の接点もなく、調査の切り口(…なにしろ金精様だし ^^;)も辿っているルートもまったく違うのだけれど、道鏡という人物に対する印象としては似たような所感を持ちつつある。…というか、真面目に調べだすと結局こういう結論にならざるを得ないと思うのだけどなぁ。



さて境内を出て、狭い通りを隔てた墓地領域に入ってみた。

菩提樹が植えてあったので近づいてみると、非常に目立たないのだけれど鑑真和上の碑をみつけた。隣接して勝道上人の碑もある。道鏡の墓とくらべて随分扱いが小さいような気もするが、碑の状況から察するにこれは近世、江戸期以降の作のようで、要するに寺の勢力がガタ落ちになってから作られたもののようだ。

かつて広大な寺領を誇った古刹も、王朝時代が去り、新仏教各派との競争にさらされ、さらには戦国の兵火で灰燼に帰した後は、規模を縮小し細々と存続するしかなかった。正史における歴史的評価が高いのは明らかに鑑真や勝道のほうだと思うのだけれど、実際に残る史跡として最も大きいものが最古期に造られた道鏡の墓というのが、なんとも不思議な感じがする。


<つづく>