2009.02.14 大内宿:雪祭り(その1)




那須-甲子道路が無料化、さらに甲子トンネルも開通したので最短距離で大内宿に行って参りました。



大内宿は江戸と会津を結ぶ会津西街道/会津中街道の中継地となった宿場である。明治以降の国道整備において、街道すじを近代道路として継承したR121~R118が一山越えた芦ノ牧温泉側を通ったため、この一角だけがちょうど三日月湖のように取り残された。そのため旧い宿場の面影を色濃く残す集落が存続し、現在では観光名所となっている。

筆者の居住する那須塩原市からここに至るには、従来では塩原渓谷を経由して日光市に抜けR121を北上するか、R4を北上して白河から羽鳥湖を経由して行くかのいずれも迂回路を通る必要があった。しかし有料道路であった那須-甲子線が無料開放されたこと、およびR289を分断していた甲子トンネルが正式開通したことでアクセスがかなり改善されることとなった。今回はこのルートで大内宿を目指すこととする。目的は2/14~2/15に行われる雪祭りである。




さて出かけたのは午後も2時過ぎというヘタレな時間帯であった。理想をいえば朝から出かけたいのだけれど、諸々の世間の事情に縛られたりもして、道楽に振り分けられる時間には限りがある。まあ、お目当ては夕刻の御神火戴火なので、ある程度は割り切って行くことにしよう(ぉぃ)。

…それにしても今年は暖冬というか、なんとも雪が少ない。↑の写真は那須のマウント・ジーンズスキー場なのだが、スノーマシンでかろうじてコースが白くなっているものの積雪はほとんどみられない。2月に入ってからひたすら晴天が続いているため、自然降雪による雪はみな融けてしまっているのだ。




マウント・ジーンズから那須-甲子道路に乗り、真新しい甲子トンネルをびゅわーんと抜けると、そこには一面真っ白な雪国があるはず・・・




…の筈だったのだけれど、いつもなら1mくらいは雪のありそうな下郷町にも雪はなかった。




R121に入って北上し、三日月部分に相当するr329に分岐する。大内宿まであと5kmの距離だが、ここまで来ても雪らしい雪はない。




宿場に近づくと駐車場待ちのクルマの列が出来ていた。…が、遠方から来た観光客はそそくさと帰る人も多いらしく、駐車場の回転は案外速いようだ。…まあこの雪の様子では、仕方がないかもしれないな。




■大内宿に入る




さてとりあえず駐車場に入ることができた。祭りの期間中は駐車場は無料開放している。これは雪があろうと無かろうと観光客向けのサービスとして実施しているものらしく、世の中の不景気感と相俟って貧乏人にはささやかに嬉しい。

サービスといえば靴の滑り止め用の縄 (ぐるぐる巻きにして歩けということらしい) も用意されていたのだが、さすがに借りている人はほとんど居ない。




水田をみると、かろうじて白い色に覆われているといった程度。積雪は10cmくらいだろうか…

それでもなんとか雪国っぽい雰囲気だけは維持されている。…まあ、あまりネガティブな捉え方ばかりしても建設的ではないので、これはこれで割り切って考えよう。天候要因ばかりは人智ではどうにもならない。



さて大内宿の町割は非常にシンプルで、街道筋一本を挟んで両脇に旅籠や茶店、問屋などが一列に並ぶ構造となっている。間口を一定に制限して奥行きを長くとった建物は狭い空間に密集する商店街によくみられるもので、各戸の商機会の平等を企図したものと思われる。一軒だけ間口が広く取ってある(↑図で緑に着色)のは陣屋で、参勤交代の大名等が利用したいわゆる "VIP用施設" である。この宿場の中心といってもよいだろう。

※案内板を一見すると個人宅の電話番号まで公開しているように見えるが、実はみな土産物屋とか民宿、お食事処など何らかの営業をしているようだ。




メインストリートの両脇には水路が流れている。これは江戸期の宿場町の基本構造である。雪国にあっては融雪装置も兼ねており、道路や屋根から降ろした雪をここに流して始末したらしい。




集落内の茅葺屋根とトタン屋根の家屋は3:1くらいの割合であるが、やはり風情の感じられるのは茅葺だろう。ちなみに上にチョコンと乗っている二重屋根のような構造物は煙抜きで、囲炉裏が現役だった頃の名残である。




不思議なことに、ここには東北地方に特徴的な "曲がり家" 構造の家屋があまり見られない。曲がり家とは人家と畜舎を 「く」 の字型に一体化した建物構造のことで、旧い農家などによく見られるものだ。

食事処の内部を覗くと、土間の奥のほうに厨房として使われているスペースがあってそこが畜舎の跡のようにもみえ、どうやら狭いスペースに軒を並べるために 「く」 の字構造ではなくウナギの寝床のような細長い建物にしたような印象をうける。本当のところはどうなんだろう?




集落の中ごろまで進んでいくと、ひときわスペースを贅沢に使っている建物を見る。ここが陣屋である。庭先が広く取ってあり、イベント用に雪で作った土俵のような段が作られていた。ちょうど利き酒大会?の受付をやっているようだったが、筆者は酒飲みではないのでここは見送る。

ちなみに利き酒には台湾からの団体さんが参加しているようで、祭実行委員会の方も友好を深めようと一生懸命説明をしていた。 しかし你好(ニーハオ)以外全部日本語という思い切った歓待ぶりのようで、どこまで通じているかは神のみぞ知る…という感があった(笑)




陣屋のすぐ下には大きな鳥居が建っていた。これは村社である高倉神社への参道である。集落のほぼ中央であり、この村にとって相当に重要な位置づけの鎮守であったことが伺える。夏には例大祭(半夏祭りと称するらしい)が盛大に開かれるそうで、機会があれば見て見たいところだ。




宿場の奥側(北端側)に入ると茅葺屋根の町並みがつづきなかなか郷愁を誘うたたずまいになった。家々は民芸品や小物を売る店になっており、名物の玉こんにゃくなども売っている。それぞれの家は独自の屋号を持っているようで、みな "○○屋" の表札を掲げていた。




さらに進み、最奥の丘陵部にある子安観音まで登ると、宿場を一望することができる。観光ポスターなどでよく見るアングルで、まるで時代劇のセットのようだがもちろんこれは本物の宿場である。

そのまましばらく見ていたのだけれど、人の動きというのはなかなか面白いもので、道の真ん中を歩く人はひたすら端から端まで歩き通しで、店をハシゴする人は軒先から軒先へと移動していく。

こちら側に歩いてくる人々の行き先は実は筆者の立っている観音堂(と直下のお食事処)で、ここに登ってこのアングルの写真を撮るのがなかばセオリーのようになっているらしい。




これがその撮影ポイントである。木立の枝具合との兼ね合いで、集落全体を見通せるポイントはかなり限定される。入れ替わり立ち代り人がやってくるので案外忙しい。




丘陵部には弁財天、白湯山、湯殿山、庚申塔などの石碑が雑多に並んでいる。この裏手に村の墓地があり、正法寺という仏寺もあったのだがどうやら無人のようだった。

ここから先(北側)は現在は大内ダムになっており、かつての街道はその下に沈んでいる。ダム工事では宿場の部分だけが残されて存続することになったようだ。




そうこうしているうちに薄暗くなり、家々に明かりが灯り始める。まだ御神火戴火までは時間があるので蕎麦でも食って腹ごしらえをしておこうか。




地元では有名であるらしい蕎麦屋に入ってお勧めメニューを注文すると、これが出てきた。名物らしいネギ蕎麦である。箸は無く、このゴロンと付属している長ネギで食えということらしい。薬味も兼ねているので食いながらカジれ、とは店のおばさんのお勧めである。味はいい線行っているのだけれど、それにしてもインパクトがあるな。

<つづく>