2009.09.26 穂高神社:御船祭り (その1)




穂高神社で御船祭りが開催されていたので、巫女舞などを見てまいりましたヽ(・∀・)ノ



さて不況によるリストラで紆余曲折あったものの、熊谷のアパートの一室に秘密基地が出来、とりあえずの拠点整備が完了した。これで作戦可能範囲が西側に広がる余地が出てくる。国土交通省の役人が無節操に高速道路網を拡張してくれたお陰で、北陸~中部方面へのアクセス性も良いというオマケつきだ。まあ人生あまり後ろ向きに生きてもつまらないので、ここは前向きに捉えていこう。

そんな次第で今回は思い切り西側にルートをとって、穂高神社御船祭りを尋ねてみることにした。穂高神社は日本アルプスの総鎮守とされる古社である。安曇野(松本盆地)のほぼ中央に位置し、奥宮は上高地にある。ちょうど週末が例大祭(御船祭り)と重なった幸運もあるので、巫女さんで萌えながらついでに上高地探索と洒落込んでみよう。




■穂高への道




さてそんなわけで花園ICから関越道に乗り豊科ICを目指す。藤岡JCを通過して富岡付近で関東平野が尽きると、あとは山また山の景色に変わる。高速道路だと良い景色に出会っても停車する訳にはいかないのがちょっとアレなのだけれど、普段目にすることのない景色の連続は新鮮だ。…ざっと走ってみたところ、渋滞がなければ下道込みでも3時間ほどあれば熊谷から安曇野まで到達できるようだった。




安曇野に着いた頃には、青空基調ではあるものの雲が多めの空模様になっていた。山越えの空気の流れは山頂にまとわりつくこんな雲をよく発生させる。それは那須でも同じようなもので、観光パンフレットに載っているような青空をバックにしたスッキリした山容というのはなかなか都合よく現れてはくれない。

ちなみに現地に行ってから気づいたのだけれど、安曇野の平野部からは実は穂高岳は見えにくいのであった。手前の常念岳~大滝山のピークの連なりが視界を遮ってしまうためで、かつてはその山容を眺めるためには標高2600mあまりの峠道を越える必要があったという。どうやら神はなかなか簡単にはその姿を晒さないものであるらしい。




山と里の地理関係をもう少しわかりやすく図に起してみよう。穂高は北アルプスの麓に開けた古集落である。もともとは海洋民族であった安曇族の一党がこの山間の地に移住したのは飛鳥時代の頃まで遡ると言われ、その一帯は一族の名をとって安曇野と呼ばれた。

安曇族の人々はもともとは古代の北九州を拠点に海運や貿易などに従事していたらしい。古事記にも登場する有力氏族で、神話では伊邪那岐の子である綿津見神(わたつみのかみ)、さらにその子の穂高見神(ほたかみのかみ)に連なる一族とされている。北アルプスの秀峰:穂高岳はこの穂高見神の降り給う地とされ、それを祀る穂高神社が建立された。その本宮は穂高集落にあり、奥宮は穂高岳の麓=上高地にある。

彼らは山の民となってからも海の民であった記憶を継承しつづけたらしく、周辺には舟型をご神体とする神社がひろく分布している。穂高神社の例大祭も舟の形をした山車を引き回して勇壮にぶつけあうというもので、 "御船祭り" と呼ばれている。




さて豊科ICから穂高までは6kmほど安曇野を北上していくことになる。

ルートは基本的にR147=千国街道(いわゆる"塩の道")を行くことになるが、現代の千国街道は看板や店舗などが多くて今ひとつ旅情感というのが盛り上がらない。そこで1本隣の道に迷い込んでみると…おお果たしてそこにはちゃんと、信州の "良き田園風景" が広がっていた。

ちょうど稲刈りの季節で、黄金色の稲穂と刈り取られた水田がパッチワークのように連なっている。決して "大風景" という訳ではないけれど、筆者はこんな風景が好きだ。そしてこういう寄り道が出来るのもクルマ旅行ならではのものなのである。しばし、愛車X-Trailでこんな風景の中を行く…




ということで、いよいよ穂高集落に入ろう。




■穂高神社




穂高は松本盆地の北側に開けた1km四方ほどの集落である。かつては穂高町という自治体が存在したが、現在では合併により安曇野市穂高地区となっている。鳥川による扇状地の末端にあたり北アルプスを水源とする5本の河川が合流する地勢で、扇状地の山側(西側)は水がなく伏流水となっている。これがちょうど穂高神社のあたりで湧き出してくるのである。

地形図をみるとここから河川合流点までの幅2km足らずのエリアがおそらく最も古い時代の耕作地だったような気もするけれど・・・どうなんだろう。




現在では周辺に新興住宅地が広がって市街地の構造があやふやになりつつあるが、ここは穂高神社を中心に発達した門前町である。穂高神社は醍醐天皇の頃(927前後)に編纂された延喜式に既に信濃国の大社として記載されており、その歴史は悠に千年を越える。神社建立の正確な年代は分かっていない。




さて旧市街地に入ると御船祭りの幟がみえた。まだ日は高いがおそらく前夜祭が始まる頃には駐車スペースは無くなるだろうと予測して、早めにクルマを停める。なにしろ初めて見る祭りなので混雑具合の見当がつかないのである。

まあここは多少の時間の無駄は甘受して、のんびり待つことにしよう。…そんな訳で、境内を散策してみることにする。




まずは一の鳥居である。鳥居の足元を江戸時代に開削された矢原堰(用水路)が横切っており、ここが境内と集落の境界になっているようだった。参道は東に300mほど延びて千国街道(R147)に接続している。




境内の概況はこのような感じで、結構広い。本殿は穂高岳を背にして建っており、参拝者が拝殿前に立つと自然と穂高岳の方角を拝むような形になっているようだ。

池のほとりには弓道場と土俵があり、弓や相撲なども行われているようだ。今回の祭りでは土俵に即席の野外ステージとして櫓(やぐら)が組まれており、太鼓やら民謡やらのイベント会場になっていた。




これが拝殿。新しく見えるのは、今年5月に式年遷宮によって建て替えられたためである。式年遷宮は20年に一度行われ、通常は建て替えるのは本殿のみだが、今年は120年ぶりに拝殿も新調されたという。写真的にはもうちょっと古色蒼然感が漂っていると良かったのだけれどなぁ…




その拝殿の正面には、神楽殿(かぐらでん)が建っていた。それなりの規模の神社でないと維持できない施設でもあり、ちょっとしたステータスシンボルのようなものだ。

神楽は神に捧げる舞なので、神楽殿は本殿と向かい合う方向が正面になり、巫女も本殿に向かって舞を披露することになる。人間の観客などは居ても "おまけ" のような存在で、祭祀本来の意味から言えばエキストラの通行人Aよりも格下なのである。とはいえ山車でワッショイする系が好きな穂高神ならきっと賑やかなのが好みだろうから、デジカメをもってウロウロするであろう筆者を暖かく許容してくれることだろう(ぉぃ)




さてその舞を見物する神様の降りる依代=本殿を、新築された拝殿越しに見てみた。ここは主祭神3柱にそれぞれ1つずつの本殿が並び立っており、真ん中の白木造りが今年の式年遷宮で新調されたもののようだ。

拝殿の巨大さに比べると本殿がやけに小さく見えるかもしれないが、もともと弥生時代の高床式倉庫が原型であり大社でも小社でも本殿の規模にはそれほど違いはない。大きな神社では拝殿その他の付随施設が分厚いタマネギの皮のように被って全体を立派に見せているのである。

穂高神社の祭神は、中央の本殿が穂高見神(ほたかみのかみ)、左が綿津見神(わたつみのかみ)、右が瓊瓊杵神(ににぎのかみ)である。綿津見神は海の神で、記紀神話では伊邪那岐神の子とされている。穂高見神はその子で、安曇族の先祖とされる神である。一方の瓊瓊杵神は天照大神の孫で、天孫降臨により神武天皇(初代天皇)に繋がる血統である。いずれも遡っていくと日本の国生み神話の世界で伊邪那岐に行き着く。




境内にはもうひとつ、若宮と称する宮も祭られていた。ここの祭神は安曇連比羅夫命(あづみのむらじひらふのみこと)といい、神世ではなく歴史時代の人物を神として祀ったものである。飛鳥時代、640~663年頃に朝廷に仕えた安曇族の有力者で、外交官および武将として活躍した。特に百済の王族とは関係が深く、その滅亡の過程では様々な支援活動に従事している。そしてその最後の活躍が、663年の白村江(はくすきのえ)の戦いであった。




白村江の戦いについて語りだすと長くなるので、ここでは660年に滅亡した百済の再興を賭けて日本が唐+新羅軍と衝突した戦いとだけ書いておこう。派遣された遠征軍は総勢4万名、艦船は800隻に及んだといい、日本の古代史では最大の海外遠征であった。この大軍を率いたのが、北九州安曇郷を根拠地としていた安曇族の安曇比羅夫である。

しかし倭+百済の連合軍(主力の大半は倭軍)は進軍が遅れ、唐+新羅軍の待ち構える白村江に突入したものの大敗を喫してしまう。そして司令官である安曇比羅夫はこの戦いで戦死し、百済の再興(および日本の大陸での勢力維持)は叶わぬ夢と消えた。

このとき撤退した倭軍はその過程で大量の百済系難民/亡命者(王族、貴族を含む)を引き連れて帰国し、のちに彼らは日本の国家建設に深く関わっていくことになるのだが…それはまた別の物語である。



境内には、その安曇比羅夫の像が建っていた。白村江の戦いで朝廷内の有力者であった比羅夫を失って以降、安曇族は日本各地に散って地方に土着したという。あずみ、あつみ、あたみ…等と称する地名は彼らが入植した土地を表わすといわれ、ここ安曇野はその中でも安曇族の主力が住み着いた地とされている。




実をいえば、この安曇比羅夫が白村江で戦死した命日が9月27日であり、まさに御船祭りの開催日なのである。山岳地であるにも関わらず船型の山車が登場するのも、安曇比羅夫の率いた大遠征軍の記憶が受け継がれているものと言っていい。




■御船と人形




さてこちらは祭りの主役であるはずの御船である。今日はもう前夜祭の当日なのだが…山車の飾りつけはゆっくり、まったりと続いていた。こんなペースで間に合うのかね…w 船形の山車は全長12m、高さ6mという大きなものである。本日(9/26)は前夜祭なので展示のみだが、「御船」 というだけあって本当に船形なのがよくわかる。

話を聞くと山車は大小5つ作られるそうだ。それを中でお囃子が賑やかに演奏している状態で100人掛かりで引き回し、勇壮にぶつけ合う。中の人は船酔いどころではないだろうが、踏ん張って祭囃子の演奏を続けるのだそうだ。




山車が人形で飾られるようになったのは江戸時代からのようで、すべて氏子自身の手作りである。彼らは決して専門の人形職人ではないそうだが、等身大の人形は伝統的な和人形の技法で作られており、かなり気合が入っている。

この山車の飾りつけは、どうやら戦国末期:佐々成政による立山越えを再現しているようだった。題材は広く民話や故事などから採っているそうで、使い回しはせず毎回新規に作り直すのだという。これが5台分……氏子の中の人も大変だなぁ。




こちらは地域ローカルな登波離橋伝説らしい。鎌倉時代、穂高にほどちかい白駒城の城主:樋口行時の正妻:ふじと側室:きよは折合いが悪く、きよはふじを亡き者にしようと花見の途上橋の上から突き落とすことを画策する。

しかしそれを察したふじはきよと自分の袖を10針縫い合せておいたので、突き落とされたときにきよも道連れに谷底に落ちた。樋口行時はこれを悲しんで出家し、橋は10針にちなんで "登波離" 橋と呼ばれるようになったという。…この話は初めて聞いたなぁ。




さて境内には過去の御船祭りの資料などを展示する資料館もあった。少し覗いてみよう。




使いまわしはしないというだけあって、過去の山車がまるごと飾られていた。これは海幸彦/山幸彦の物語らしい。

解説板によると5つある山車のうち3つは子供山車で、大型の2台が大人船という。船の前後の部分をそれぞれ男腹、女腹と称し、ここに着物をかけて神事(引き回し)の後で持ち帰ると1年間無病息災となるとされている。これに類する神事は松本から大町までの盆地一帯にひろく分布しており、やはり船の形の山車が引き回されるらしい。




これは川中島の合戦。御船祭りのポスターにも使われた人形である。




さらには小泉小太郎伝説。松本付近に伝わる民話で、童話 "龍の子太郎" の原型となった話である。昔湖だった安曇野(松本盆地)の水を竜神となった母と小太郎が山を崩して千曲川に流し、豊かな耕地を生み出したとされている。




それにしても、歴史が古いだけあっていろいろなものが凝縮しているんだなぁ。

…と、いうことでいよいよ前夜祭の状況を紹介しよう。

<つづく>