2009.09.26 穂高神社:御船祭り (その2)




■御船祭り(前夜祭)




やがて出店にも明かりが灯り始める。人出も徐々に増えてきた。




神楽殿の行灯にも火が入った。……しかしこちらにはほとんど人はいない。前夜祭は社務所近くの土俵上に作られた特設ステージで民謡や太鼓演奏などのイベントがまず先に始まり、観光客の多くはそちらに行ってしまうのだ。




……が、一生懸命頑張っている出演者諸氏には申し訳ないが、これはフェイクである。出店もそうだ。祭りを "賑やかに騒ぐイベント" と思っている人は、そちらのほうに寄っていく。




その間、筆者は神楽殿に陣取っていた。別に秘密の情報を得ていたとかそんなものではなく、スケジュール表にはちゃんと神楽の奉納が行われる旨が書いてある。

ただし特設ステージでの催し物が16:00から始まるのに対し、神楽は19:00頃からと少しズレて設定してある。観光客の多くは先に始まって大音量でどんちゃんやっているほうに集合していき、肝心の神事はその間に粛々と進んでしまうようなのである。




■神楽(かぐら)




やがて巫女さんの列が静々とやってきた。時刻表よりかなり早く、まだ18:00なのだが……まあ、予定は目安に過ぎないということなのかな。




拝殿前に並んで一礼し、神楽殿に登っていく。見ての通り、周囲には見物人はほとんどいない。




わずか50~60mばかり先の木立の向こう側でどんちゃん騒ぎが続く中、巫女さんによる舞の奉納が静かに始まった。年齢層は小学校高学年~中学生くらいに見え、稚児の巫女といったところだろうか。

神楽の奉納といっても何段階かあるようで、ここで舞われるのは幼少者による前座のようなものであるらしい。演目は浦安の舞である。




浦安の舞は神楽の演目としては非常にポピュラーで、全国の神社でよく行われている。だがその成立は意外と新しく、古来の神楽を元に皇紀2600年奉祝祭(昭和15年)のときに様式が定まったものである。旧来神社毎に異なっていた神楽の構成を宮内省が標準化したともいえ、皇紀2600年のとき全国の神社で一斉に奉納された。この一斉奉納のために全国規模で講習会が開かれたため広く普及し、以降各地の神社で奉納される巫女舞のプロトタイプとなっている。歌詞は昭和天皇の御歌(昭和8年)である。




天地(あめつち)の
神にぞ祈る朝なぎの
海のごとくに波たたぬ世を


……文字通りの世の太平を願う歌だが、これが詠まれたときの世相は昭和恐慌(世界恐慌)の真っ只中であった。金本位制の崩壊、欧米のブロック経済化などで日本が苦悩していた時期であり、能天気にヘーワヘーワと唱えている訳ではなく一種の言霊のようなものと捉えたほうが良いかもしれない。紀元2600年祭ではこれが全国で同時刻に舞われた訳で、文字通り国難を鎮め太平を願う儀式であったといえるだろう。

ちなみに舞の名称になった浦安とは、古い日本の呼称のひとつである。日本書紀の国生みの段に 「昔伊弉諾尊目此国曰、日本者浦安国、細戈千足国、磯輪上秀真国。」 ( 伊弉諾尊、この国を名づけてのたまはく、日本(やまと)は浦安の国、 細戈の千足る国、磯輪上の秀真国なり) とあり、舞の名称はこれと歌の内容(→世の平安を祈る)を掛けたものになっている。



さて稚児に続いて、若干年齢を上げて高校生くらいの巫女さんが登場した。舞の内容は一緒であるが、幼さが払拭されたぶんより安定感が増してくる。

浦安の舞は2段構成になっており、前半が扇舞、後半は鈴舞になる。衣装は正装から略装まで数段階あり、子供用のサイズは略装のものしかないので稚児舞は必然的に略装になってしまうが、大人の体格になると朝廷の女房装束を元にした正装になる。写真の巫女さんも幾分ゴージャスな衣装になった。

※地方の祭りや比較的小規模の神社では略装のことの方が多い。初詣のアルバイト巫女さんはおそらくほとんどが略装ではないだろうか



どのくらい練習をつんだのかは分からないが、トチることもなく静々と舞が進行していく…




やがて観光客もちらほら流入してきたが、人口密度はこの通りで撮影ポイントは割りと自由に選べる。もっとぎゅうぎゅうに混雑するのではないかと予想していた筆者としては、少々誤算だった。

WEBでみる御船祭りは山車の引き回しの場面が多く、もちろんそのような場面は観客が非常に多いのだけれど、前夜祭となると案外こんなものなのであった。少なくとも、神楽目当ての人は前夜祭に来たほうが自由度のある撮影ができるのではないだろうか。




さてここで小休止。舞具が変わって鉾先舞鈴になった。これは三種の神器を象徴したものだそうで、鉾(ほこ)部が草薙の剣(天叢雲剣)、鍔(つば)部が八咫鏡、鈴が八尺瓊勾玉を表わしている。



ふたたび神楽が始まった。演目は同じなのだがこのサービスぶりは素晴らしい。通算すると延々1時間半ほど舞が続いていたように思う。

周囲の様子を見ていると、遠方からの観光客というよりは親御さんが娘の晴れ姿を撮りに来た……という感じのカメラマンが多いようだ。御船祭りはわりと有名な筈だが、少なくとも前夜祭においては非常にローカルな雰囲気が漂う。このあたりの観客モードのON/OFF具合はなんとも面白い。



せっかくなので神楽殿の後ろ側に回ってみよう。ライトアップされた拝殿を入れるのもなかなか良いものだな。




調子にのって真後ろから拝殿を正面に望んでみた。普通ではこんなアングルではまず撮れないと思うけれど、今夜の人口密度なら何とでもなってしまう。

それにしても、こうして巫女目線でみると本当に神前に向かって奉納しているんだな、というのがよくわかる。観客は、あくまでも神様なのである。




延々と続いた神楽に続いて、地元少年団による穂高太鼓の奉納が行われた。勇壮…というよりは緩急のついたまったり系の演奏かな。 ごついおっさん達は写真奥側の木立の向こう側=特設ステージの方で相変わらずどんちゃんやっているようだ。




太鼓の奉納で拝殿前のイベントが一段落したようだった。 ならば出店のほうの様子もちょっとチェックしてみようか。




おお、神楽殿よりこちらの方が数倍混んでいる。 …というか、この方々は祭りの肝心の部分を見ないで何をしているんだろう?  本当に不思議だ…




■神事




さて夜も8時を過ぎる頃…拝殿前に怪しげな集団がぞろぞろと集合し始めた。

よく見ると、諏訪神社、戸隠神社、舘宮神社……などと書かれた幟を持っている。どうやら付近の主要神社の関係者が集まってきたらしい。穂高神社は日本アルプスの総鎮守ということになっているので例大祭では周辺各社が一同に会する……ということなのだろうか。それにしても結構な人数だな。




反対側からは神職氏一同がやはり列を成して登場した。…実は、ここからが本当の神事なのである。一般観光客の制限などは特になく、撮影も自由なのでしばらく見てみよう。

実はこの神事については、社務所で配っている案内書にも書いておらず、WEBにも載っていない。筆者も、もし往生際悪く居残っていなかったら気がつかずに帰ってしまうところだった。




幟や提灯は入り口に立てかけて、一同は拝殿内に整列した。いい加減な目算しかしていないが、総勢200人以上は参加しているのではないだろうか。




やがて神主が祝詞を読み上げ始める。祝詞は万葉仮名で書いてあり、いわゆる奏上文の形式で読み上げる。奏上とは高貴な方(国王や皇帝など最上級の相手)に何事かを申し上げることを言い、日本国内ではほぼ天皇陛下と神様にしか用いられない。

全部聞いていた訳ではないので内容までは逐一思い出せないが、おおよそ 「アンタは偉い!これからもよろしく!」 という内容を神様に向かって申し上げている(…いいのか、そんな解説で)




続いて、本殿の扉が開かれる。ここで初めて神様が御姿を現すことになる。




本殿が開いた後は、神前の空間を祓い清めて供物が手渡し式で供えられていく。




酒、餅、塩に鯛、野菜……日本の神様は本当に素朴な海の幸/山の幸を好むのだなぁ。その起源をたどれば弥生時代の日本人の食生活にたどり着くわけで、これは当時の最上級のご馳走をあらわしている。



ここで神職一同、神前にむかって恭(うやうや)しく一礼する。おお、見れば子供向けアニメの 「おじゃる丸」 でしか見たことのない笏(しゃく)の実物を持っている。紙が普及していなかった時代、貴人の前でメモ帳代わりに使用した大型の木簡がその起源らしいアレである。




やがて、神楽(かぐら)の本番が始まった。初々しい少女ではなくかなり年季の(中略)巫女さんによる奉納である。衣装も例大祭の本番ということもあって一番豪華なものだ。見ると扇ではなく榊を持って舞っている。穂高神社ではこれがスタンダードということなのだろうか……

※若い娘とどちらが良いかは神様のロリコン具合によって決まってくるので筆者の人智の及ぶところではない。




舞楽も専門の楽師が居並び、生演奏である。




さすがに真打で登場した巫女さんはぴったりとシンクロした見事な動きを見せてくれる。"奉納" という言葉がふさわしい威厳のある舞なのであった。




拝殿を正面に見据えるアングルでも1枚。……個人的にはこの構図は結構面白くて気に入っていたり。




舞の後は、神事の参加者各位による玉串の奉納が行われる。近隣神社関係者ばかりでなく、門前町らしく地元自治会の代表者も居並んでいる。神前で何を祈るのか…。



玉串奉納は人数が多くかなり時間がかかりそうなので、その間ライトアップされた拝殿などを撮ってみた。……それにしても大きな拝殿だなぁ。

掲げられた幟には、神恩梓ヲ興シ水洽(うるお)ス とある。梓とは梓弓の梓であり、弓状に弧を描きながら上高地から松本盆地へと流れ下る梓川のことでもある。穂高神社の奥宮のある上高地は、この梓川の穿った渓谷にある。梓弓は神事や魔除けに使われる儀式用の弓で、古くから信濃国より都に献上されていたそうだ。(……明日は、その梓川を遡って上高地を目指す予定である)




やがて玉串奉納も一巡し、これで終わりか…とおもいきや、御布令の儀を執り行う旨のアナウンスがあり、ざわざわと参加者が動き始めた。

どうやら拝殿前で列に並ぶらしい。見ると序列も決まっているようで、参加者各位は名簿に従って長い列を作り始めた。




筆者はてっきりこれを "撤収" の儀式だと思っていたのだが、そうではなかった。参加者諸氏は列を作って神楽殿をぐるぐると回り始めたのである。筆者は不勉強なのでこれがどんな意味を持っているのかはよくわからないが、一同は黙々と歩き続ける。神楽殿前では事情のよくわかっていない観光客が周囲を囲まれてポカーンとしていた。

3周ほど回って参加者諸氏はふたたび拝殿内に戻った。




そして本殿3柱の扉が閉められる。これで神前での儀式は一段落ということらしい。神様を迎えてもてなし、明日の例大祭本番にむけてお休みいただく……ということだろうか。

この間、観光客向けの説明は一切ない。ただ、黙々と儀式が進行した……といった印象だった。"主役は神" という姿勢が一貫しており、本来神事とはそういうものなのだろう。むしろ一般客を排除せず、見たい人はご勝手に……というあたりが非常なるサービスだったように思えるくらいだ。




その神事を見守っていた客は、総勢でこの程度であった。もう夜9時を回っていたが、特設ステージでは地元楽団らしい演奏が続き、出店エリアにも人が溢れている。祭りの肝心な部分を見ていた人はほんの一部だ。それが意図されたものなのか、偶然の産物かは筆者には判断がつかない。……ただ、こういう祭りのコアな部分を見ないというのはとても勿体無いことのように思う。




……まだまだステージでのライブ演奏は続いていたが、今宵はこのあたりで撤収することにしよう。祭りは明日も進行するが、筆者は松本に泊まって奥宮を目指す予定だ。

そのような次第で、穂高(本宮)編はここまでとしたい。

<次回につづく>




■あとがき


特にこれといって強烈な動機があって出かけた訳ではないのですが、実際に訪れてみると穂高神社の成立した背景と現代に伝わる神事、風習というのは非常に面白いものです。日本の古代史ともダイレクトに結びついていて、掘り起こすといろいろ歴史浪漫がありそうな処でした。

古事記に神の子孫として登場する安曇族は古代日本における有力な海人勢力で、古事記での扱われ方を見ると朝廷との関係も良好だったようです。安曇比羅夫の活躍した660年前後は動乱の時代であり、大陸で勢力を拡大し絶頂期を迎えつつあった唐と東の島国:日本が朝鮮半島を巡って対立していました。その中にあって安曇比羅夫は百済勢に加勢すべく総勢800隻という大艦隊を指揮して白村江へと赴きます。

しかし結果は惨敗。この結果、日本勢は朝鮮半島から駆逐されたばかりか、逆に唐に攻め込まれるリスクに供えて九州~畿内にかけて緊急に防衛網を整備する羽目に陥ります。いわゆる防人(さきもり)が整備され大宰府の要塞化が進んだのもこれが契機でした。この非常に大きな歴史の転換の中で、安曇族は北九州の守りを大宰府に託すような形で歴史の表舞台から消えていきます。これには白村江の戦いの直後に起こった古代日本最大の内乱、つまり壬申の乱(672)で敗戦側の大海人皇子に付いたため失脚したとの説もありますが、その詳細まではわかりません。いずれにしても何らかの理由で安曇族は九州の本拠地から全国に散り、その有力なグループが信濃国に定着したわけで、やがてその地が安曇郡と呼ばれるようになっていったようです。

山の民となってからも船で海を行き交った記憶を留め、ルーツとしての海神を祀り続ける…これは、安曇の子孫達の怨念にも似た強烈なアイデンティティのようにも思えますが、はてさて真相はどうなのでしょう。




ところで祭りで不思議だったのが、本稿でも書いていますが一般客の神事に対する無関心?ぶりです。騒いだり飲んだり食ったりもいいけれど、傍から見ていてもう少し祭りの肝心な部分を気にしてもいいんじゃないの……という気がしてなりませんでした。 近年の穂高は人口増加率は松本盆地ではトップ、自治会加入率は最低という統計もありますが、古い神社の門前町が出発点なのですから、やはり地元に愛着と理解があって欲しいな……などと旅人は思ってみたりするのです。

<次回につづく>