穂高神社奥宮:上高地 (その3)
■明神池三之池跡地
さてやがてちょっとした止水エリアに差し掛かった。本流からは少し離れた支流の水系である。ちょっと自信がないのだけれど、ここは明神池の三之池の成れの果て……のように思えるので写真を撮ってみた。
明神池は穂高神社奥宮の境内の主要部分を占める。そしてかつて3つあった池のうち三之池は現在では土砂に埋もれて消滅した……と事前に調べた資料には書いてあった。 しかしこれを見る限り消滅というのは言い過ぎで、まだかろうじて池としての体裁は保っているように思える。
このあたりが "土砂に埋もれた" というあたりだろうか。…言葉というものは不思議なもので、てっきり筆者は崖崩れか大水による土砂の流入で石の川原のようになった状況を想像していたのである。しかし現場の状況をみると、自然に積もった枯草や木の葉が泥炭のようになって湿原化が進んだ…といったほうがよさそうな気がしてきた。
三之池は文献上では江戸時代中期の頃には健在であったようである。善光寺絵巻(江戸時代)には穂高岳の麓に "三霊湖" が描かれており、恐らくこれは明神池のことだろう。善光寺は江戸初期に本堂を焼失して60年ほど本堂なしの時代が続き、宝永3年(1706)に再建していることから、絵巻が作られたとすればこの再建直後の可能性が高いように思われる。そうすると、ざっと300年前には一之池~三之池までが健在で、その後ゆっくりと三之池が湿原化して消滅しつつある…という推測ができそうだ。
ここが池の終端部分である。小さな落ち込みがあって、ここで水面が止まって池の栓のようになっている。ここが壊れると池の水は一気に流れ下ってしまうようだが、幸い木の根が砂礫と岩を掴んでそれを押し留めている。
見たところ池の上流側は半分くらい地糖化していそうな雰囲気ではあるけれど、それなりの止水面積もあって水深も数十cmくらいはあるし、存在していないことにしてしまうのは、ちょっと可哀想な気がする。
■穂高神社奥宮
さてそこからまもなく、梓川の本流がふたたび見えてきた。ここまで来ると、いよいよ神域である。
最近整備されたらしい案内板の表記に従って梓川から穂高岳側に折れて100mほど行くと、やがて鳥居が現れた。ここが穂高神社の奥宮である。
…いやー、結構長かったなぁ…♪
ここで周辺の状況を説明しておこう。このあたりは江戸時代には林業の基地のようなところであったらしい。写真右下にみえる明神舘というのがかつての松本藩の役人小屋で、現在は旅館(というか山小屋というか)になっている。そこから川を越えて奥宮まで続く道が穂高神社奥宮の参道である。筆者が今回歩いてきた右岸側(地図では左上側)の登山道は明治時代中期になって河童橋が架かったことで出来た道で、景色は良いのだが歩くのは困難…ということで木道等が整備されたようだ。まあ要するに観光客向けの道である。
江戸時代には地図下側の左岸道が上高地の主要路であった。役人小屋周辺が伐り出した材木の集積場であり、ここから川の流れに乗せて下流の松本まで運んだらしい。奥宮はさしずめその鎮守のような位置関係になる。
さてともかく神社に入ってみよう。鳥居には菊の紋章が掲げられていた。これは旧社格制度における官幣社/国幣社にのみ許されるもので、穂高神社は国幣小社にあたる。よくわからない方は、要するに神社としてのステータスがそれなりに高いのだと理解しておけばよいだろう。
神話上の話ではあるがここに祀られる穂高見神は皇室の親戚筋ということになっている。…というか、伊邪那岐から生まれた神々は皆皇室と繋がっていることになっているのだけれどねぇ。
足元をみれば、またしても岩魚の群れ…ヽ(´ー`)ノ
梓川本流からは多少離れているが、境内にも水の流れは幾筋も通っている。そしてそのことごとくに岩魚が群れているのである。それにしても…本当に魚天国だなぁ、ここは。
さて本殿は…とみると、おお、あれがそのようだ。
一般の観光客は社などそっちのけで池のほうに行ってしまうのだが、まず順番としてはここで一礼すべきだろう。
本宮から延々70kmほどもかけていよいよ到達した奥宮は、山の社らしく質素な佇まいで鎮座していた。しかし社殿は小さくとも御神体は穂高岳そのものである。見上げるようなビッグな神様なのだ。
社殿は高さ1mほどの木造である。式年遷宮が行われているのかは分からないが、現在の社もそう古いものではなく、割とマメに新調されて維持管理されているようにみえる。
さてせっかくなのでささやかに神に祈ってみよう。まずは ①世界と家庭の平和 、②これ以上リストラの余波が及びませんように(切実)、 そして ③鳩山政権の早期崩壊 …ま、こんなところだろう。(②と③は密接に関連しているので民主党支持者の諸氏にはご容赦願いたい)
さて穂高編でもちょこっと触れたが、ここでもういちど穂高見神について紹介しておきたい。穂高見神は日本の建国神話に出てくる伊邪那岐(上図右)の孫にあたる。神生みの途中で伊邪那美(同左)は死んでしまうが、伊邪那岐は彼女に会いたくて黄泉国まで行き、そこで腐乱した伊邪那美の姿を見て大慌てで逃げ帰った。
伊邪那岐はこの後、黄泉国の穢れを洗い落とすため阿波岐原で禊(みそぎ)を行う。このときにその水から生まれたのが海神=綿津見神(わたつみのかみ)とされる。古事記によると水の底で底津綿津見神(そこつわたつみのかみ)、 水の中程で中津綿津見神(なかつわたつみのかみ) 、水の表面で上津綿津見神(うはつわたつみのかみ) が生まれたとあるが、これはもともと一柱の神を分解したものと言われ、一般にはまとめて "綿津見神" と呼ばれている。この息子が宇都志日金析(うつしひかなさく)=穂高見神で、これが阿曇氏の祖先とされているのである。
系譜からみても穂高見神は海神あるいはその宗族といえるのだが、"子孫" である安曇族の移住にともなって山に鎮座することとなった。不思議といえば不思議な運命である。
※Wikipedia フリー素材より転載 (画:小林永濯/明治時代)
ところで安曇氏が活躍した600年代後半の頃、まだ日本最古の歴史書=古事記は成立していない。古事記は奈良遷都直後の和銅5年(712年)に元明天皇に献上されたものである。
現代の時間間隔でこの成立時期から白村江の戦いあたりを振り返ると、平成21年(2009)から昭和35年(1960)を振り返るくらいの感覚になり、神話とか伝説というほど遠いわけではない。まだまだ生々しく記憶されている時代であり、九州を去った安曇一族がおそらくは穂高にその拠点を整備しつつあった時代と重なっているように思われる。
その古事記にあって、安曇族は "此の三柱の綿津見神は安曇連等が祖神と以いつく神なり。故れ安曇連等は、其の綿津見神の子、宇都志日金析命の子孫なり" と記されている。
安曇連の 「連」 (むらじ)とは、天皇に連なるという意味を持ち、朝廷に属する氏族の中でも最高位のものに与えられた姓(かばね)であった。神話において天皇家は天照大神の子孫ということになっているが、連の姓を与えられた一族も同様に神々の子孫として描かれている。のちに氏姓制度は何度かの改変を経て 「連」 の価値は下がっていくのだが、安曇比羅夫が活躍した頃はまだ天皇に準ずる地位でありステータスは非常に高かった。
このあたりを意識しながら古事記を斜め読みすると、朝廷での安曇族の立ち位置のようなものを感じることが出来る。8世紀初頭……歴史の表舞台から消えゆく間際ではあったけれども、その名は歴史書に残った。既に信濃の山奥に移っていたとはいえ、中央からはまだ存在感をもって見られていた証左であろう。
その後は奈良朝内部での政治闘争(粛清劇)が激しくなり、政権がコロコロ替わった混乱もあって、信濃山中に篭った安曇族の消息は急にわからなくなる。…というより、信州にやってきてからの安曇族の状況については調べてもあまり根拠の確かそうな情報が出てこない。記録そのものがとても少ないようなのだ。
…ただ、地名と神社だけは残った。現代の我々はその記憶装置としての神社や祭りなどを通してかすかに彼らの存在を感じられるに過ぎないが、それでも歴史の表舞台から消えた氏族の名と氏神が千年を越えて残っているというのは凄いことではないだろうか。
ところで、山岳信仰という視点で考えると、穂高岳は少々特異な面がある。山岳仏教の聖地として栄えた北側の立山とは異なり、穂高の周辺は近世まで仏教の洗礼を受けなかった。仏教関係者でこの付近にに登頂したのは記録上では江戸時代後期の播隆上人(1786-1840)が最初である。
その播隆上人も穂高よりは隣の槍ヶ岳のほうに興味があったらしく、穂高には目だったことをした形跡がない。そしてまもなく1868年には明治維新が起こり、すぐに廃仏毀釈(=仏教排斥)、神道優遇政策が始まったため、上高地周辺には山岳仏教の匂いが染み付くことはなかった。そこらじゅう空海の伝説に満ち溢れる日本の山岳において、こんな空白地は珍しい。
それもこれも、主要街道から離れた秘境にあればこその立地によるものだろう。…だとすれば、逆説的ではあるけれど、上古の時代にここを見出し神の山と定めた安曇族の探検心と信仰心に、ただただ感服するほかはない。
■明神池
さてせっかくここまで来たので奥宮だけではなく明神池を見てみることにしよう。
社殿に参拝するのは無料だが、神社の職員氏も霞を食って生きているわけではないので明神池を見るには幾許かの拝観料が必要となる。まあここは黙って浄財を奉じることにする。ちなみに入場券には "神降地" の表記があった。
…神の降り給う地…か。それにしても凄まじい地名だな。
社殿脇を抜けて少し進むと、すぐに視界が開けた。これが明神池の一之池である。
浅い平底の湖底に透明な水が薄く一様に広がっている。水深は1m未満…おそらく50~60cm程度だろうか。水はきわめて透明で、藻や浮き草の類はほとんどない。…まさに神の降り給う庭園といった風情なのであった。
現在の "明神池" という言い方は割と新しいものらしく、古くは "鏡池" と称した。写真を見れば由来については説明するまでもないだろう。
地質的には、明神池は川が流れ込んで出来たものではなく、湧き水が滞留しているものである。一之池、二之池、三之池とプールを流れ下って、下流で梓川の本流に合流する。湧き水であることから年間を通して温度が安定しており、雪に埋もれる厳冬期でも明神池は凍ることがない。
豪雪地帯である北アルプスにおいて、この "真冬でも凍結しない" というのは特に古代の人々には神々しくみえたことだろう。夏は夏で、ここは明け方には川面に朝靄が一面にかかり、やはり神々しい風景をみせるという。"神降地" の所以(ゆえん)である。
案内書をみると、穂高神社奥宮ではこの池で毎年10/8に例祭が行われていると書いてあった。本宮の御船祭りとは別に、神船を池に浮かべて神事を執り行うのである。ここでも船が登場するあたり、さすがは安曇族の末裔…という気がしないでもない。
※あとで聞いたところ、どうやらこの神船は穂高神社の本宮にも飾ってあったようなのだが、迂闊にも筆者は山車と巫女さんに気を取られて気づかなかった。…ちょっと惜しいことをしたなぁ。
さて一之池から少し下流側に移動して、池相の違う明神二之池にやってきた。
これがまた、天然の日本庭園を見ているような素晴らしい風景なのである。正直、10mmの広角を持ってこなかったのが悔やまれる。ここは標準ズーム(18-200mm)では全体像を伝えるのが難しい…! 筆者は穂高神社のスポークスマンではないが、やはりこれは現地で実物をみていただくのが一番だろう。
それにしても、よくこんなものが自然に出来上がったものである。古代に深山をかきわけてやってきた人がいきなりこれを見たら、たしかに驚くだろうな。
…で、さらにそんな足元をまたもやでかい魚がすいすいと泳いでいる訳である。
さて神域とはいっても明神池周辺は絶対不可侵の聖域という訳ではなく、明治の頃まではここで岩魚漁などが行われていた。
上高地を含む日本アルプスを欧米に紹介したW.ウェストン宣教師は上高地の猟師:上條嘉門次をガイドに雇い山々を巡ったというが、その上條嘉門次はこの付近で岩魚や熊を採って暮らしており、境内には現在もその住居が山小屋(嘉門次小屋)として続いている。
現在ではここは禁猟区なので、塩焼きとして提供されている岩魚は外部からの持ち込み(生簀で運んでくる)だが、神社の境内で塩焼きを売っているという風景自体が面白い。ここには仏教のようないわゆる殺生戒はなく、自然界の食物連鎖はごく自然のこととして扱われている。それは、とても曖昧に出来上がった "なあなあ" でバランスのとれた世界観だ。
すっかり大観光地化してしまった現在の上高地からはなかなか想像しにくいけれど、かつてこの地はそうしたゆるやかな規約の中で山の幸を分け合っていたらしい。神社の敷地で漁をするのも小屋を建てて住まうのも特にお咎めはない。他の多くの神社が神域で "○○ベカラス" 式に禁忌を並べがちなのと比べて、ここの主祭神:穂高見神のなんと寛大で大らかなことだろう。
・・・というより、むしろ山をご神体とする神様のありようとしては、この穂高神社奥宮のような曖昧さこそがより原点に近いのかもしれない。神域といっても注連縄できっちり境界を定めるというのは里の神社の作法であって、山の社ではまず見かけない。
そんなことを思いながら、池の端まで行ってみた。小さな落ち込みを経て、そこから先は渓流の様相が始まっていた。
目前には行き止まりの表示。うーん…やはり、観光客が入れるのは二之池までということか。
かつてはこの先に三之池に通じる道があった筈なのだけれど、どうやら保守管理されているような様子はなかった。神社の職員氏に聞いてみたところ、大水で橋が流されて以降直していないのだという。ここは国立公園なので神社の敷地内であっても勝手に修理や保全作業は出来ないのだとも言っていた。その根拠は、文化財保護法にある。
【文化財保護法】
第196条 1 史跡名勝天然記念物の現状を変更し、又はその保有に影響を及ぼす行為をして、 これを滅失し、き損し、又は衰亡するに至らしめた者は、5年以下の懲役若しくは禁錮又は30万円以下の罰金に処する。 2 前項に規定する者が当該史跡名渉天然記念物の所有者であるときは、2年以下の懲役若しくは禁錮又は20万円以下の罰金若しくは科料に処する。
第196条 1 史跡名勝天然記念物の現状を変更し、又はその保有に影響を及ぼす行為をして、 これを滅失し、き損し、又は衰亡するに至らしめた者は、5年以下の懲役若しくは禁錮又は30万円以下の罰金に処する。 2 前項に規定する者が当該史跡名渉天然記念物の所有者であるときは、2年以下の懲役若しくは禁錮又は20万円以下の罰金若しくは科料に処する。
…現代の神域は、なんとも窮屈になったものだなぁ。
池のほとりで、しばしくつろぎのひと時を過ごした。あたりには鳥の声と水の音。見上げる穂高の岩壁は、ヘタレな一般人など寄せ付けない厳しさで、寡黙にそそり立っている。
…ここで何か気の効いた台詞(せりふ)が出れば詩人にもなれただろう。しかし筆者には黙って見上げることしかできなかった。…なんでだろうねぇ。
<つづく>