2010.01.30 草津温泉(その2)




■草津市街地




さて草津の市街地は、小盆地の底にあたる巨大な源泉=湯畑を中心に周辺に温泉街がぐるりと取り囲む構造になっている。周辺部は山林にペンションなどが散在しておりどこまでを市街地として良いか微妙なところはあるのだが、その規模はおよそ南北1km、東西1.5km程度である。農地はほとんどない。

温泉はいたる所で湧出している。湯畑周辺に湧く源泉は市街地内だけで10箇所以上あり共同浴場(無料)が18箇所、旅館/ホテルで独自に持っている源泉も多数ある。西側には西ノ河原(さいのかわら)と称する無数の源泉が湧出する一角があり、ここは公園として整備されている。湧いた湯は "湯川" となって市街地中央を流れ下り、下流で白砂川を経てさらに吾妻川に注いでいる。水質はpH2前後と強酸性のため、下流側の品木ダムには中和設備(消石灰を流す)が設けられている。

中和設備が整備される以前の草津水系は、魚の棲めない "死の川" であったらしい。酸は金属ばかりかコンクリートも腐食してボロボロにしてしまうため、この水系では治水工事も出来なければ発電所も作れず、橋も架けられなかった時代が長く続いた。

それが無理矢理毎日50トンもの石灰を投入し続けるという力技で改善したのは戦後になってからで、さきに見た八ッ場ダムはその延長線上で計画された首都圏最後の水瓶(…になる予定)だったという訳だ。…が、ここでは近代治水事業の話はひとまず置いておいて、温泉街の話に集中しよう。




そんな訳でホテルの駐車場にクルマを突っ込んでチェックイン。部屋に荷物を放り込んだら、早速そぞろ歩きの開始である。なにしろ遠地移動一泊のみというコンパクトな旅行なので時間が無い。とりあえず日が暮れる前に草津のシンボル=湯畑くらいは見ておこう。




ふらふらと歩いてみると、やはり町並みが古いだけあって道が狭いことを実感する。この付近の基本的な町割が定まったのがいつ頃なのか明確な資料を見出せないのだが、中世以降湯本氏による支配が続いたことからみて、その草創期は鎌倉初期のころではないかと想像してみる。その中心はまちがいなく湯畑だろう。



さて草津の中世を支配した湯本氏の出自についてはさきに述べた。この小領主は鎌倉期には御家人として、その後室町期を経て戦国期には上州真田氏に仕えた。湯治客から徴収された湯税は農業生産の見込みにくいこの土地にあっては貴重な財源であり、真田氏はこれを軍資金として活用した。関ヶ原以降は東軍に与した真田信之(※)が治め、のちに江戸幕府の天領となっている。

※真田というと一般には弟の真田雪村のほうがよく知られているが、雪村は西軍側につき大阪夏の陣で討ち死にした。




天領になるまでの真田家周辺の事情はややこしい。詳細は割愛するが、結果だけ言えばお取潰しである。旧真田領は紆余曲折の果てに上田藩と沼田藩として存続し、草津は沼田藩に属した。しかし正式立藩から22年、わずか1代限りで沼田藩は消滅(※)してしまったのであった。取り潰しの理由は大小10件ほどが挙げられているが、大筋において検地の虚偽報告と賦役不履行の責である。

初代にして最後の領主であった真田信直は立藩にあたって、見栄を張って実質3万石あまりの領地を検地改めなんと14.4万石(!!)として幕府に申請したらしい。このため大名としての格式は上がったものの課される賦役も激増し、領民は困窮した。そしてついに1681年、江戸両国橋の建築資材の拠出を幕府から命じられたものの遂に履行できなくなり、その責任を問われたのであった。

※のちに沼田藩は復活し、くるくると領主を変えながら幕末まで存続したが、草津温泉は岩鼻代官所の管轄で天領のままであった。




一方、改易騒動の後に沼田藩領を引き継いだ幕府は対照的な善政を敷いた。江戸幕府の統治はどうも後の明治政府によって不当に貶められているきらいがあるのだが、天領の経営というのは領地の規模に対して驚くほど簡素な組織(=代官所)で効率的に行われていた。さらには儒教的な徳治の手本を諸国に示すという意図もあって、天領の年貢は低く抑えられていたのである。その税率は一般に米の収穫量に換算してに四公六民と言われており、四公=税率40%というと高いように思われるかも知れないが、一般的な大名領では50%前後、酷いところは70%以上もあったので、天領の住民は相対的に暮らしは楽だったといえる。

草津の場合、真田信直の重税時代から一気に税率が緩和され、領民へのインパクトは大きかったことだろう。単純計算で14.4万石並→3万石相当に改まっただけではなく、天領税率適用で一気に税負担は1/5~1/6 ほどになったのではないだろうか。




■湯畑



さて歴史談義もほどほどに、湯畑にやってきた。
おおお広い~♪


湯畑は南北に長く、湯が流れている河原部分だけでも60~70m程度ある。周辺のロータリーまで含めると100m以上はあるんじゃないだろうか。湯が盛んに沸いているのは南端側で、これが北側に流れ、滝となって流れ落ちている。説明書によると湧出量は毎分4.4トンもあるそうで、河原の広い範囲で染み出すようにもわもわと湧き上がっている様子はナカナカに圧巻なのであった。

写真↑手前に見える四角い枠は江戸時代に整備された採湯施設の跡で、徳川将軍家に献上する湯の採取が行われたところだという。筆者はてっきり湯の花だけ持っていって入浴剤のように溶かして入ったのかと思っていたのだけれど、説明書を読むと本当にそのままの湯を樽に詰めて運び、江戸城で涌かし直したようだ。




ちなみに草津の湯を所望したのは八代将軍徳川吉宗だが、さすがにこれだけ大仰な湯運び道中を何度も繰り返すことはなく、亨保二年(1717)に1度きり行っただけで、その後はこの種の輸送話は記録に残っていない。吉宗以外では十代将軍家治が草津の湯を運ばせているが、当時(=安永年間)はもう少し合理的に "湯の花の販売" が始まって、現在の入浴剤ビジネスに近いような商売が行われていた。

その湯の花を採取する施設が上記写真↑の湯筒で、湯畑南端側で湧き出した湯はその大部分がここを通って湯滝の方に流されている。この内側に温泉成分=湯の花が自然沈着するのを待って年に数回採取をするらしい。




湯畑北端側の湯滝は天然のプールとなっており、かなり豪快な外観である。うまく考えられたもので、南側の源泉で湧き出した55℃前後の熱い湯は、この滝まで流れ下るうちに47~48℃ほどに自然空冷され、ここから各旅館に湯を引くとちょうど浴槽に届く頃に42~43℃の入浴に適した温度になるのだという。

つまり湯畑は、見た目の景観的インパクトに加えて、ラジエーター効果および湯の花採集装置としての実用性を兼ね備えたかなりスグレモノの施設なのだ。




絵としても、自然の滝と湯船(=滝壺)の絶妙さ加減は非常に面白い。湯の量と泉質もさることながら、この出来すぎのような景観は間違いなく草津の "華" といえる。




湯の滝の上には江戸時代文化年間に建立されたという灯篭が実にいい感じで鎮座していた。これを建てたのは伊勢太々講の人々だそうで、どうやら江戸時代にはここに不動堂が建っていて、灯篭はその常夜灯であったらしい。

現在の湯畑の景観は戦後の高度経済成長期に大幅に変更されて江戸時代の情緒はばっさり切り捨てられてしまったのだが、この灯篭だけはワンポイント的に遺されて、ほとんど唯一の旧時代の面影となっている。絵的には実にいい役者振りである。




八代将軍吉宗は、こうした景観を見ることはなかった。湯を所望したくらいだから基礎的な知識はあったのだろうけれど、時間と費用と労力を投じて一応 "本物の草津の湯" を運んだ先は、江戸城内のいつもの湯船である。旅の趣向とか風情を欠いたそのようなお湯に浸かって、果たして彼は満足を得られたのだろうか。…なにやら少々、気の毒な気がしないでもない。




■光泉寺




さて天の声は買い物に忙しいらしく、1時間ほどぶらぶらしていても良さそうな時間が取れた。この時間を利用して付近の神社仏閣を少々チェックしておこう。草津で注目するべきところといえば光泉寺と白根神社である(金毘羅神社は今回は訪れていない ^^;)。

まずは湯畑を見下ろす一番良いポジションに位置する光泉寺を訪ねてみる。山号を草津山(そのまんま)とする真言宗の仏寺である。721年に行基が開山したと伝えられ、さきに紹介した湯本氏が鎌倉初期の正治二年(1200)に再建したとの記録がある。後述する白根神社に対しては別当寺の立場にあって、現在では温泉街を挟んで東西の山の斜面に寺と神社が向かい合って建っている。

この寺は長らく草津の温泉街を管理する地頭職…要するに温泉街を支配するボスの立場にあった。湯畑を見下ろす一等地に位置するのも、その立場故であろう。湯本氏との関係はというと、どうやらより広域の領主=湯本氏、温泉街の現場監督=光泉寺という関係にあったらしいのだが、現在の湯畑周辺では湯本氏の痕跡よりもこの寺の存在感のほうが圧倒的に強い。




寺風は豪放果敢で、中世の領主寺院としてはよくある話なのだが、ここも僧兵を抱え何度も合戦に出陣している。南北朝時代には足利将軍家の覇権を認めず南朝側に付き、その生き方はなかなかに少年ジャンプ的である。南朝衰微後は北朝につき、文明13年(1481) 後花園天皇によって勅願寺となった。そんな事情があって寺の格式と武装集団としてのステータスはそれなりに高く、普通なら陣屋か城があってしかるべき位置に、ここでは寺院が鎮座している。




現存する建物として一番古いのは元禄16年(1703)建築の釈迦堂である。時期的に奈良の大仏の再建期と重なっているが、ここに収められた釈迦像はまさに大仏の古い芯材から彫ったものである。これがあるということは大仏再建事業において東大寺と何らかの協力関係にあった筈なのだが、温泉とはそれる内容なのでここでは省略しよう。




斜面脇には不動堂も建っていた。…もしかすると、これが湯滝にあった不動堂の移築あるいは再建ということになるのだろうか。絵的には湯滝に建っていてほしいところだなぁ…




ところで中世には地頭職として温泉街を支配した光泉寺だが、関ヶ原以降は真田領も分割され、親分の地位にあった湯元氏も断絶したうえに、沼田藩の取り潰し、天領への編入を経て、地域のボスとしての地位は縮小していった。力の源泉であった徴税権は岩鼻代官所(現在の高崎市付近)に握られてしまい、刀狩で僧兵もいなくなったとあっては仕方の無いところだろう。

その後は草津でほぼ唯一(※)の仏教寺院として本来の宗教活動に専念しているようだ。今回は写真を残していないが境内には滞在中に亡くなった湯治客の供養塔もあり、今も静かな時が流れている。

※草津にはもうひとつ日蓮宗の日晃寺?という仏寺があるのだが、こちらは幕末に建てられた薬師堂が昭和21年になって仏寺になったもので比較的新しい。




■白根神社




続いて反対側 (…といっても距離は200m程度) の白根神社にも登ってみた。こちらは商店街に押されるように圧迫され気味で、入り口は少々手狭である。

もともと白根神社は光泉寺に隣接したすぐ南側、現在の運動茶屋公園のあたりにあったが、明治時代に現在の場所に移されている。温泉街がすっかり出来上がっているところに無理矢理参道を通したためか、湯畑直結ではなく商店街脇から登るような格好になっており、それがアクセスを少々わかりにくくしている。




さて階段を登りきってはみたが…それにしても、ちと寂しい境内だな。

残念ながら白根神社側からは湯畑までの視界も通りにくく、入り口が路地の奥ということもあって観光客はあまり登ってこないようだ。




社務所も閉まっている… うーむ、来る時期が良くなかったのかな。

毎年7月に行われる例大祭は大変な賑わいになるそうでWEBを調べても結構な人出なのだが…まあ、普段の地方神社なんてこんなものといえばこんなものなのかなぁ。




さて白根神社の祭神は日本武尊命(やまとたけるのみこと)、白根明神、小白根明神である。山の神様はともかく 「なんで日本武尊?」 と思う方がいるかも知れないが、草津を含む吾妻郡は記紀神の日本武尊伝説と関係が深いのだ。

日本書紀によると日本武尊は東国遠征の帰還の際に武蔵→上野→信濃を通るルートをとり、碓日坂(※)付近で亡き妻=弟橘媛(おとたちばなひめ※)を偲んで 「吾妻はや」 (吾嬬者耶=ああ我が妻よ) と三度嘆いたという。

これでピンと来た方はかなり鋭いと思うが、群馬県北西部の吾妻郡という地名、あるいはここを流れる主要河川が吾妻川と呼ばれること、そして隣接自治体である嬬恋村の地名の起源などはすべてこの日本武尊神話に繋がっている。さらにいえば関東以東の日本を 「あづま」 と呼ぶようになったのもこれが起源だし、のちにそこに 「東」 の字が当てられたのも同じ文脈での出来事といえる。昨年の穂高の項でも多少述べたが、律令制の草創期に付けられた地名というのはちょっと特別なのである。そのシンボリックな場所としてこの白根神社は興味深い存在といえる。

※話が見えない方のために補足すると、日本武尊は東国遠征で三浦半島から房総半島へと船で渡ろうとした際に海神の怒りを買って嵐に遭ってしまい、これを鎮めるために同行していた妻=弟橘媛が自ら海に身を投げたとされる。任務を果たして帰還する際、日本武尊は関東を去る峠越えでこの妻を思い出すのである。
※日本書紀にある碓日坂は、現在の碓氷峠または鳥居峠のこと指すと言われる。古代の主要幹線=東山道が通っていたのは碓氷峠側とされるが、地名の分布からは鳥居峠の方が近い。





さて神話の時代から下って平安期以降になると、白根山は修験道の整地として発展していく。信仰の対象は白根山(白根明神)と本白根山(古白根明神)が主要な峰であった。

これらの峰々を駆け巡る修験者たちは、当然湯釜や谷を流れる湯川を見たであろうし、行者の基地あるいは休憩所として温泉を利用したことだろう。草津の温泉地としての起源は、案外そんなところに見出せるのかも知れない。




ところで中世にはこれら修験者がいた一方で、さきの光泉寺には僧兵がいた訳だが、彼らはうまく共存できたのだろうか?

これについてはどうもはっきりとした資料がないのだが、筆者の勝手な推論を述べさせてもらえばさきに紹介した光泉寺の僧兵は、実質的にこの白根山修験者とダブった存在だったと考えるのが自然だろう。なにしろ飛鳥時代から幕末まで日本は神仏混交である。同じ武装兵が仏教側から見れば僧兵、神道側から見れば行者…ということは、十分にあり得そうな話だ。

そういう見方をしていくと、この狭い盆地にひしめきあう文化的な要素が矛盾無く繋がっていくような気がする。実態としてはミニ高野山のような感じだったのだろうなぁ…




…そんなところで自由時間はタイムアップ。湯畑まで戻ると当たり前の話だが湯気がもうもうと立ち込めていた。もう、レンズが曇る、曇る(笑)

これだけの自然熱源があるのだから冬でも心配は要らないようなものだが、実は草津温泉は昔は冬季は休業で、皆山を降りたという。谷川岳の向こう側ほどではないが冬季は雪もあり、徒歩で移動する湯治客が往来するには条件が厳しかったようだ。光山寺や白根神社の住職、行者たちはどうしたのだろう…と思ったが、記録はあまり残っていない。

<つづく>