2012.11.25 晩秋の足利:鑁阿寺~織姫神社(その2)
■鑁阿寺の紅葉具合
さてここは旅と写真のサイトなので、寺の縁起もいいけれど庭園の紅葉具合もレポートしなければならない。そんな訳で鮮やか系の写真も載せてみよう。
鑁阿寺の庭園は楓(かえで)と銀杏(いちょう)を中心に構成されている。彩(いろどり)が鮮やかで日持ちの良い樹種が選ばれているのは、やはり庭造りの基本だからだろう。外連味はないがオーソドックスでいい仕事である。
紅葉チェッカーで最低気温の推移をみると、この日は移動平均(5day-MA)で5℃ラインを下回っておよそ一週間というところであった。見頃としてもちょうど良い頃合いといえる。
楓のグラデーションはほぼ緑色は消失して黄色から赤に移り変わってきている。発色はちょうどピークのど真ん中、日照も十分に得られて本日は最高の撮影日和といえるだろう。
こちらは銀杏(いちょう)である。超絶的な黄色が素晴らしいのはもちろん、楓の赤のピークとちょうどシンクロしているというのが実にイイカンジであった。
筆者は造園の素養がないので素直に不思議に思うのだが、庭師というのはやはり紅葉の時期を見定めて庭木の個体を選別したりするのだろうか。春の桜はソメイヨシノを選定するかぎり遺伝的には同じ個体だから放っておいてもシンクロするのだろうけれど、秋の紅葉の木々というのはなかなかそうはいかない。狙ってやっているのだとしたら結構スゴイことではないだろうか。
…さて 敷地内の茶屋では、この紅葉を見ながら軽食をとれるようになっているらしい。
ちなみに暖簾に書いてある梵字は 「ヴァン」 と読み、ご本尊の大日如来を表している。真言宗は呪文を唱えてなんぼの宗派だから、こういうシンボル(種子字という)を大切にしているらしい。
せっかくなので筆者も休憩してみた。ここの名物は本来は足利焼売(しゅうまい)らしいのだが、注文する客が多く待ち時間が結構かかりそうなので、今回は味噌田楽を頂いている。…秋らしい、ゆったりとした茶飲み時間である。
ちなみに以前来たときは野立茶屋が出ていたのだが…今年は営業していなかった。せっかくの紅葉日和なのに、少々勿体ない気がするな…うーむ。
休憩の後は、ふたたびゆったりと敷地内を巡った。まずは天然記念物の大銀杏。解説によると樹齢は600年ほどもあるらしい。
600年前というと関東管領上杉憲実が足利学校の整備をするより一世代ほど昔ということになる。鑁阿寺が創建されてからは200年後くらいにあたり、既に室町幕府が成立して三代将軍足利義満の晩年の頃である。…ということは、足利が最も煌びやかだった時代の植樹ということになるのだろう。まさに時代の生き証人といっていい。
この銀杏は隣接する仏塔や楓の組み合わせもなかなかである。光線具合を考慮すると午前中に来た方が良かったような気もするが…まあそこはそれとしてゆったりと眺めてみる。
…それにしても、神社仏閣と紅葉というのは実によく合う。
こういうところはタイムスケジュールみっちり(笑)の突撃観光ではなく、やはり一日かけてゆっくりと散策するのがいい。今回は半日スケジュールで織姫神社も込み込みなので、少々そそくさと歩いているのが残念だ。
さて宝物堂も一応拝見したのだが、内部は撮影禁止なので紹介は省略(ぉぃ)
続いて 裏側に回ってみた。
…ありゃ、こちら側はクルマの乗り入れOKだったのか(^^;)
これなら直接乗り入れればよかったかな。
■御霊屋
鑁阿寺は 裏側も見どころは多いのだが、すべてを紹介する余裕がないので適当にピックアップしてみよう。ここは御霊屋である。足利氏の祖霊を祀る社で、現在の建物は徳川十一代将軍家斉の寄進による。(※当初の建物は鎌倉時代の創建であったと言われる)
江戸時代には足利は足利氏(当時は既に喜連川氏)の所領ではなくなっており、一万石あまりの足利藩が成立している。…が、足利将軍家の墓所と鑁阿寺は存続していた。そこに足利将軍家の祖霊を祀る廟を、天下の徳川将軍家が建てたのは、祖先を同じくする源氏の家系(※)の末裔として儒教的模範を示すという意味合いがあったらしい。
徳川家斉といえば時代としては寛政異学の禁の頃で、朱子学が幕府の全面プッシュで普及していく時代にあたる。そういう背景を考えると、思わずニヤリとしてしまいたくなるような建立の動機が透けてみえるのである(^^;)
※途中で少々妖しいところもあるのだが、徳川氏は新田氏の末裔ということになっており、その新田氏は足利家の分家筋にあたる。いずれも八幡太郎義家の子孫であり、源頼朝と並ぶ源氏の家系であった。
■庚申塔
その向こう側には、庚申塔が大量に並べられていた。区画整理に伴って回収されたもののうに思えるが、説明文のようなものは無い。庚申塔は一応、青面金剛を祀る石仏の一種ということになるので無碍には扱えなかった…と思えばよいのかな。
庚申塔の材料は、そのほとんどが河原石である。建立は地元の農民衆によるものが多く、高価な切石は滅多に使われない。
河原石は表面の凹凸がなく滑らかなため、改めて研磨しなくても文字だけ刻めば安価に石仏や道標をつくることができた。こういう石碑/石仏の類を文字だけで済ませるようになったのは言霊信仰の産物ともいえるが、関東で量的に増えだすのは案外新しく、江戸時代になって社会が安定してからである。
鑁阿寺の敷地内には、近世(江戸末期)の大型の庚申塔も散見された。こちらも材料は河原石である。 明治期に入ると石碑の仕様はだんだんと切石に代わってくるのだが、鑁阿寺には不思議と切石の庚申塔はほとんどない。やはり川沿いだから…なのかな。
…などと想いを巡らせているうちに2時間あまりも過ごしてしまった。
いけない、織姫神社に寄っている時間がなくなりそうだ。先を急ごう(^^;)
<つづく>