2012.11.25 晩秋の足利:鑁阿寺~織姫神社(その3)




■織姫神社に向かう




鑁阿寺を出てからは織姫神社を目指す。鑁阿寺でゆっくりしすぎたせいか、見れば時計はもう午後3時を回っている。時間に余裕があれば足利学校も見ておきたかったところだが、まもなく閉館時間(16:00)になってしまうので今回は残念ながらパスだ。



 

■足利と織物の話




さて織姫神社は鑁阿寺から500mほど西側、機神(はたがみ)山の中腹に位置している。もとは山裾の八雲神社境内の摂社(宝永2年建立とされる)であったものが、明治12年に独立して現在の位置に移ったらしい。

しかし新築早々に火災に遭って本殿/拝殿を消失し、現在の形で社殿が再建されたのは昭和12年になってからである。神社建立のスポンサーは地元の繊維業者の組合で、時代はちょうど足利の織物産業が隆盛を極めた頃であった。




神社の名称にもなっている "織姫" は正式には天八千々姫命(あめのやちちひめのみこと)といい、もう一柱の神=天御鉾命(あめのみほこのみこと)とともにこの神社の主祭神となっている。これら二柱の神々は元は伊勢神宮の内宮(皇大神宮)御料の織物を織って奉納したという御料殿の祭神で、足利の地に勧請されたのはここが古くから織物の産地として栄えてきたという経緯による。主なご利益は産業振興と縁結びであるという。




関東地方の中学生なら地理の授業で習うはずだが、関東平野の西北端部、つまり富岡~前橋~桐生~足利の付近は古くから製糸工業/織物産業で栄えた歴史を持つ。伊勢崎にはその取引市場があった。特に絹織物については奈良時代の頃から盛んに生産が行われ、古代税制の租庸調のうちの "調" として現物納付の対象となっていた。

今回は訪問先が足利ということもあって取材の軸足を足利に置いているけれど、旧律令国の区分で言うと絹織物で圧倒的な存在感をもつのは実は上野国(群馬県)である。足利は後背地がすぐ山岳地になっていて使える土地面積が群馬県側には及ばないのだが、地理的にはこれら坂東の織物産地の一翼を担う立場にあった。




実はさきほど訪れた鑁阿寺には、この足利の絹織物について記した興味深い碑がある。多少順番が前後するが折角なのでここで紹介しておこう。これは徒然草(兼好法師)の一節で、北条時頼(最明寺入道)が足利義氏(左馬入道)の屋敷を訪れたときの描写である。



【徒然草:第216段】
最明寺入道、鶴岡の社参の次に足利左馬入道の許へ先の使いを遣して立ち入られたりけるに主まうけられたりける様、一献にうちあはび二献にえび三献にかいもちひにてやみぬ。その座には亭主夫婦、隆鞭僧正あるじ方の人にて座せられけり。さて年毎に給はる足利の染物心もとなく候と申されければ、用意し候とて色々の染物三十、前にて女房どもに小袖に調ぜさせて後につかはされけり。その時見たる人のちかくまで侍りしが語り侍りしなり。


【ヘタレ訳】
最明寺入道が鶴岡八幡宮参詣のついでに足利の左馬入道のもとに先に使いをやってから訪問されたところ、まずアワビが出され、次にエビが出され、ついで蕎麦餅が出された。その座には亭主(左馬入道)夫婦と隆鞭僧正が臨席していた。客人である最明寺入道が 「毎年頂いている足利の染物がそろそろ使い切ってしまいそうだにゃぁ」 と申されたたところ、左馬入道(足利義氏)は 「用意してございます」 と言って色とりどりの染物を三十反ばかり、目前で女房たちに小袖に仕立てさせて、後日届けさせた。その様子を見ていた方が最近まで生きていて語ってくれた話である。



鎌倉幕府の執権であった北条時頼が最明寺入道を称したのは晩年 (…といっても享年37歳なのでまだまだ若い時分である) で、ここに描かれたエピソードは没年から推測して1260年前後のことと思われる。政治的には得宗専制の奔りの頃に当たり、表向きは引退の身でありながら政治の実権は北条時頼が握ったままであった。
それがわざわざ献上品として染物(反物)を所望しに来たということで、当時の足利の絹織物が相当な高級品として珍重されていた様子が伺われるのである。




時代が下って、近代では特に明治初期の殖産興業政策でこの地域の果たした役割は大きかった。国内の私鉄第一号である高崎線(明治16年開業)は、当時ほとんど唯一の競争力のある輸出品であった生糸/絹織物を首都圏に輸送するために、この地域を目指して建設された。

そこから枝を伸ばす形で東北本線の建設が始まり、足利へはさらにそこから枝を伸ばして両毛線(明治21年)が通じた。久喜から分岐した伊勢崎線は、やはり足利を目指して敷設され、そこから伸張して太田、伊勢崎まで敷設されている。日本鉄道史の黎明期に、この地域に集中して何本もの鉄道路線が整備されたのは、やはり製糸産業/織物産業の存在抜きには語れない。日本鉄道史において、その黎明期の姿は日本版シルクロードといっても差支えない動機に満ちているのである。




足利はこのお蔭で経済的に飛躍した。首都圏と鉄道網で直結した利点は大きく、また特産の銘仙(グラデーションのある縞柄の素地)が明治期に大当たりして、ついに織物生産額日本一の座を手にしたのである。織物工場は主に渡良瀬川の南側に広がっていて、古くは渡良瀬川の水運を、鉄道開通後は貨物列車で首都圏に出荷された。こうして蓄えられた地元の財力が、織姫神社の社殿の充実につながっていくのである。

第二次大戦後は絹織物産業は衰退してしまうが、代わりに化繊布であるトリコットの生産が大当たりして、やはり生産額日本一となっている。トリコットは織物というよりは編物に近い素地で、応用範囲は非常に広い。「足利ジャージ」 などもその応用品で、昭和40年代頃にヒット商品となった。

…そういう物語を知ったうえで織姫神社を訪れると、足利学校一辺倒ではない "産業の街" としての足利が見えてくると思う。



 

■参道を登ってみる




さてまたもや前振りが長くなってしまった(笑) …そそくさと登らないと日が暮れてしまうぞw

そんな神社の参道を登ろうと鳥居に向かうと、なにやらガタイのよさそうな学生が石段を兎跳びして往復していた。聞けば地元の学校(名前は聞きそびれた ^^;)の柔道部の面々だそうで、いまどきの若者らしからぬ(?)スポ根路線で頑張っているらしい。

筋肉ムキムキのマッチョメンが織姫様の好みに合うかどうかは筆者の知るところではないが、まあ若者が多く集まっているのはきっと良いことなのだろう。




参道の階段は全部で229段ある。当初の参道は西側にある狭い通路だったようだが、昭和12年の新社殿落成時に現在の立派な石段が整備された。明治時代の火災の教訓から、手すり部分はなんと消火栓用の水道管を兼用している。こんな設計の神社は、古今東西見たことがない。



振り返ると、紅葉具合もなかなかイイカンジである。このアングルからは木の崖になって見えないが、画面右下のあたりに駐車場があり、その脇に八雲神社が鎮座している。織姫神社はもともとはそこに機神(はたがみ)様として祀られていた。

「機神」 「織姫」 などというと最近流行の中二病的解釈では美少女型巨大ロボットでも飛び出してきそうな感じがするが(ぉぃ)、現代ではメカニカル一般を指す "機" という文字は、もともと織物を作る "機織(はたおり)" から来ている。古代ではメカといえば機織り機のことで、中国では4000年前、日本でも縄文後期には始まっていたというから少なくとも2000年くらい前には原始的なものが存在したらしい。

そういえば日本神話でも高天原で神々が機織りをしている場面が描かれる。いわば最も古い労働の形のひとつが機織りなのである。




さていよいよ頂上が近くなってきた。




登りきると…おお、なかなか壮麗な社殿があるヽ(・∀・)ノ

ちょうど木立の陰がかかってしまっていて、絵的にはもう少し日が高いうちに登ってくれば良かったかな(^^;) …が、まあ細かいことは言うまい。見れば東照宮のようなこってりとした過剰装飾ではなく、たおやかで品のある建築だ。

さきにも述べたがここは明治時代にいったん火災で焼け落ちている。そのため現在の社殿は戦前の築ながら鉄筋コンクリートで造られた。参道の階段の水道管もそうだが、防火にはことのほか気を使って建てられているようだ。




近くに寄ってみると、造りは実に細かい。コンクリート製とは思えないほど神社建築として違和感のない仕上がりになっている。もちろん外装と装飾には銅版や木製品も使われているのだが、伝統様式と近代建築がうまく組み合わされているようだ。




神紋は八葉に織物の糸目をあしらったものである。八葉は本来仏教系のシンボル(蓮がモチーフ)なのだが、神社そのものの建立(移転前の小社時代)が江戸時代の宝永年間であることを考えると、こういうのも有りなのかな…と思ってみた(^^;)

ついでながら移転前に織姫(機神)神社の同居していた八雲神社は、須佐之男命が主祭神である。足利の八雲神社(実は5社ほどある)についてはあまり突っ込んで調べてはいないのだが、神道の文法で解釈すると、かつては牛頭天王社であった可能性が高い。牛頭天王は仏教系の渡来神なので、同じ敷地内に祀られていた織姫神社の神紋に八葉が含まれていてもまああまり違和感はなさそうかな。




この境内からは、紅葉の楓越しに足利市街をひろく見渡すことができる。鑁阿寺もイイカンジだったけれど、ここも晩秋の風情を愉しむのにはなかなか良いところだな。



 

■恋と縁結び




さて機織りという以上に、ここは 「縁結び」 で売り出しているせいか、参拝客はほとんどがカップルであった。…どうやら寂しい独身男性が来るにはここは少々場違いなところであるらしい。




社務所には 「恋みくじ」 なるものが置いてある。…が、これを引いていくのはやはりカップルばかりで、お前ら既にリアルに充実しているじゃないか、とツッコミを入れるのも恥ずかしくなるような風景なのである。…いやまあ、いいんだけどね(笑)




ちなみに、恋みくじの横にはお祓いをしてくれる祈祷所もあって至れり尽くせりである。寂しい独身諸兄(諸姉)は、ここで一発、厄を払ってモテモテエナジーをチャージしてから合コン等に挑むと良いのではないだろうか。…いやまあ、いいんだけどね(笑)




なお、宮司さんにお願いするにはちょっと気の引ける方にも、セルフサービスで 「モテない厄」 を払う手段が提供されている。とりあえずこの御神木を上下3回ずつぶっ叩けば良いらしい。




どれ試しに…と筆者も木槌を手にしてみた。…が、考えてみれば筆者は既に妻子持ちなので今さらモテまくる必然性はないのである。

そこで、足利の繊維産業の発展 (…と、筆者の業界の雇用と給与水準の安泰) を祈って、日本の厄落としをしてみることにした。とりあえず目下の円高を放置して 「見守るだけ」 の無策を続けている野田政権の崩壊を祈願して16ビートでドガガガガガガガガガガガガガッ…♪ とぶっ叩いてみたのだが…さて、果たして効くのだろうか(爆)




ところで神社のレポートであまり深入りする話でもないかもしれないが、足利に限らず日本国内で繊維産業で頑張っているところの状況をみると、やはり輸入品との価格競争は相当にキツいようである。

…が、一方で多品種少量生産でフットワーク軽く動いているメーカーは予想外に健闘しているともいう。低価格が売りの海外勢 (特にアジアのあの国とか、あの国とか) は日本企業のコピー商品を安売りしておいしいボリュームを掻(か)っ攫(さら)っていくのが得意である。それが、日本側が多品種少量生産に移行したことで "何をコピーしたら良いのかわからない" 状況に持ち込むことが出来、これが予想外に効果を上げているのだという。こういう知恵は、どんどん働かせてほしいものだな。



 

■今どきの地域振興、萌え興しw




さてそろそろ日没なので本稿も締めくくるべき頃合いなのだが、最近の織姫神社では触れておかねばならないトピックがある。




…これである(´・ω・`;)

おお、なんというブルータスよ(中略)感っ!

…いやまあ、いいんだけどね(笑)



冗談はともかく、どうやらこれは最近流行りの 「萌え興し」 の一種であるらしい。やっている足利市の有志の方々は至極真面目で、今年で5回目になるという痛車大会とかご当地萌えキャラまつりとかアニソンフェスタを開くなど
とても真面目とは思えない活動に邁進している。実に結構なことである(え?)w

足利市内の織姫神社と門田稲荷神社をセットにして神様をキャラクター化したのが始まりのようで、解説によると2010年頃から観光宣伝の一環として行われているようだ。





…まあ果たしてこれで本当に足利が元気になるのか、先読みはなかなか難しい訳だが(笑)、聞いてみるとキャラクターグッズの売り上げはそれなりにイケているらしい。

そういえば江戸時代の浮世絵とか美人画なども当時なりの "萌え絵" であって、写実性よりは記号化の進んだ描写であった訳だし、100年くらい経って振り返ると、こういう試みも民俗学の研究対象になっているのかもしれない。



…と、そんなことを思いながらゆるゆると過ごしている間に日没となった。

もう少し時間があれば織姫公園の周辺など周遊できたかもしれないけれど、まああまり欲張っても仕方がないのであたりで切り上げることとした。…またそのうち、いい季節になったら来てみよう。

そんな次第で、今回もあっちこっちに飛びまくった話で申し訳ないけれども、このあたりで締めくくりとしたい。

<完>