2013.01.14 木幡神社の太々神楽とどんど焼き(その4)



 

■ここでちょこっと小休止(^^;)




さて神楽とどんど焼きについての記事はここで終わりにしても良いのだけれど、せっかくなので日が暮れてからの状況も見ておきたい。…ということで、筆者は神社からクルマで5分の矢板温泉で湯に浸かりながらしばし時間を潰すことにした。ここは日帰り入浴 \500 のリーズナブルな温泉で、長丁場の神楽鑑賞の合間に冷えた身体を温めるのにはちょうど良い立地なのだ♪




■日が暮れて…




そして日没時刻の頃に戻ってみると…おお火力は幾分マイルドになっているけれど、まだ "どんど焼き" の炎は燃えていた。




この時間になっても正月飾りは次々と持ち込まれては順次、焚き上げられていく。現在世の中で行われている "お焚き上げ" には、どんど焼き以外にも仏教の護摩の儀式と習合したものがあり、雰囲気的にみると木幡神社のどんど焼きは仏教の護摩の要素がやや強いような印象をうける。ただ明治維新までここの神宮寺であったであろう専慶寺(隣接している仏寺)は浄土宗で、密教系の儀式は専門外になる。…いったいどんな変遷を経て今のような形になっているのか、少々興味深いところだ。




さてふたたび神楽殿に上がってみると、薪(たきぎ)に火が灯って非常にイイカンジの雰囲気になっていた。一段と冷えてきたので観客は暖の取れるどんど焼きのほうにいってしまったようだが、舞は粛々と続いている。




演目はちょうど 「五行の舞」 が終わるところであった。孤独なヒーローだったスサノオと異なり、こちらは五人揃って戦隊物…というのは大嘘で(笑)、"五穀豊穣" の五穀を象徴する神様の舞である。ここでいう五穀とは 白=米、赤=豆、紫=稗、黄=粟、青=麦 として紙垂の色で表現されている。



こういう要素を突き詰めていくと、その源流は弥生文化にたどり着く。これは民俗学と考古学がちょうど重なり合う領域で、掘り起こしていくとといろいろ面白そうなネタがありそうだ。



 

■伝統を継続する、ということについて




ここでまた小休止となり、神楽殿は静かになった。筆者は邪魔にならない範囲でお囃子の方々にいくらかお話を伺おうとしたのだが、皆さん何とも気さくな方々で 「まあ上がって火にあたりなさいヨ」 という展開になった。




見ればちょうど火鉢に新しい墨が追加されたところだった。ストーブやらファンヒーターではなく、何と火鉢で暖をとっているだな。





「昔はねぇ、どこでもやっていたんですヨ」 …と、年長らしいの方が仰った。かつては神楽を奉納している神社は今よりも多かったそうで、年月を経るごとに後継者難で次々となくなっていったのだという。あまりにも飄々と話されるので筆者などは 「はぁ~、そぉですかぁ~」 などと軽々しく相槌を打ってしまったりするのだけれど、考えてみればこれは結構シビアな話なのである。




神楽は演目にもよるけれど囃子方と舞方あわせて最低でも5~8人くらいを要するチームプレイである。長時間演じ続ける場合は交代要員も考慮してこの倍は必要で、そうするとかつての神人16戸というのはちょうど2チーム交代の体制がつくれる規模の陣容だったということになる。

後継者がこの数を割り込むと伝統の継承が怪しくなってしまうため、神楽を伝えるには何よりも安定したリクルート体制が必要とされた。これがうまく出来たかどうかが、要するに断絶組と継続組の差であったらしい。




「いったん断絶して20~30年も経つと、もう昔の形はわからなくなります。そうなると後から復活しようとしても、別の要素が混ざったり、踊りやすいように省略されてしまうんですよ。」

…だから続けていかなければならない、という趣旨の話を聞いて、筆者はこの神事に関わっている方々の心根に敬服してしまった。




最近では町興しや村興しの一環として古い伝統を復活しようという動きが盛んで、各地で古い時代の神楽の復活が試みられているらしい。しかしいったん失われてしまった伝統はやはり完全復活は難しいようで、他所から似たようなものを持ってきてとりあえず形だけ…というところも少なくないようだ。

かつては神前奉納の荘厳な神話劇だったものが、復活してみたら太神楽の要素が混在してひょっとこが踊っていました…などというケースはこうして生じるらしい。(…それはそれで、イベントとしては楽しそうな気がするけれども ^^;)




筆者はその筋の専門家ではないので、実のところ国内で行われている神楽の全体像というのはよくわからないし、木幡神社の神楽が偏差値的にどのあたりに位置しているのかもよくわからない。しかしこれが250年あまりも続いていて、今なお次代の若い人に継承されているというその一点に於いて、これは凄いことなのだろう…との所感をもった。

そして木幡神社では、表面的にみえる神楽のビジュアルの良し悪し以前に、それを支える氏子組織や地域のコミュニティがしっかりとしていることが何物にも代えがたい貴重なものであるのだろうとも思ってみた。




■そして夜は更けていく…




やがてまた神楽が再開された。これは 「榊の舞」 である。



さらには 「引弓の舞」 。四方に向かって矢を放つ魔除けの意味があるらしい。




…が、このあたりで筆者的には時間切れとなってしまった。

出来れば最後まで見届けたいところではあるが、明日からまた仕事なのでそろそろ埼玉の秘密基地まで移動しなければならないのだ。…ということで、この日何度目かの副餅撒きが始まったところで、少々心残りだが退散することにした。

うーん、勿体ないなぁ(^^;)




参道の石段を降りると、おお…どんど焼きはまだ燃えている…(^^;)




凍てつくような寒さの中、やはりこの一角だけはナニゲに暖かい。ちらほらと縁起ものの団子を焼いている人もおり、幾分間延びしながらもゆるゆるとした正月風景が続いていた。





帰り際、ふと振り返ってみると、闇の中にどんど焼きの炎が浮かび上がって見えた。

今でこそ照明がついて鳥居などがライトアップされているけれども、かつてこの風景は炎の明かりだけで闇に浮かび上がっていた。神楽にしても、篝火と蝋燭くらいの明かりの中で幻想的に演じられたのである。



そういう古風な祭りをみるのもいいな…と、筆者はナニゲに思ってみた。

炎の祭りの相棒には、闇がよく似合う。そこらじゅうに人工光が溢れた現代で、そんな環境があるというのは、きっと最高の贅沢であるにちがいない…とも、思ってみた。ここには、今でもそれが確かに残っている。


【完】





■あとがき


当初はもっと短くまとめるつもりだったのですが、神楽の周辺事情が案外面白かったのでつい長々と書いてしまいました(^^;)

さて全国津々浦々、いろいろな伝統行事において神楽は奉納されています。その伝播の過程は一筋縄ではなかなか説明しにくく、簡単に一括りにするのは困難ですが、調べてみると物量的には特に街道が整備されて人々の往来の活発になった江戸時代草創期に転機が訪れているようです。この時期には各種有力神社がこぞってプロモーター(御師)を派遣して参拝者の募集を行い、その広告媒体として神楽を利用したことが大きいのでしょう。

特に伊勢神宮については、幕府が 「お伊勢参りに行く」 という旅人には関所での検問をほとんどフリーパスで運用したことから、爆発的に参詣者が増えました。実態としては遠地旅行の口実に使われたという側面も少なからずあったようですが、国内人口が3000万人あまりの江戸時代に多い時で年間300万人を超える人々が伊勢に出かけるまでになったのですから、これはもう吉本興業やジャニーズ事務所もびっくりの集客力といえます。そういえば弥次さん喜多さんで有名な東海道中膝栗毛(十返舎一九)もお伊勢参りに出かける話でしたね(^^;)

伊勢参りの面白いところは、在野の神官=御師が神事を執り行う一方で旅行業者の役割を担っていた点で、街道沿いの宿場には現在のコンビニチェーン店の如く提携宿があり、参詣者はそこを転々と停まり継いで旅をしたそうです。伊勢から遠く簡単には参拝できないような地方では "伊勢講" という信徒集団が形成され、旅行代金を積み立てて村の代表者を伊勢に送り出す仕組みもつくられました。これは今で言う旅行ローンの先駆けのようなもので、御師たちの地方巡業はこの信仰熱を維持するために一層さかんに行われたようです。これが地方の祭りに与えた影響は相当に大きかったことでしょう。

※ただ神楽と一口にいっても地方の祭りに浸透したのは大道芸系の 「太神楽」 の方が割合として大きく、特に江戸の芸能文化はこちらにベースがあると言われます。




木幡神社の太々神楽は、江戸時代に何度かブームの訪れた伊勢参りのピークのうち、宝暦五年(1755)の流行の翌年から始まりました。そこから類推すると起源としてはかなりミーハーな始まり方をしたのかもしれません(^^;) …ただ本殿の背後に大国主を祀る石塔があることから、出雲系の要素が入っている可能性もあり、ストレートに伊勢流のコピーが入ってきた…と決めつけるのも適当でないような気がします。このあたりは神社側の情報発信を待ちたいところです。

…しかしまあ、余計なことを考えずに眺めるだけでも神楽というのは楽しいものです。旅と写真のサイトとしては、余計な薀蓄は脇に置いておいて、素直にそのヴィジュアルの格好よさを味わうくらいでちょうど良いのかもしれません。




■どんど焼きの周辺事情とか


さて与太話ついでにどんど焼きについてもいくらか書いておきましょう。この日行われたどんど焼きは、消防への届出件数によると栃木県北部だけで100ヶ所程度はあったようです。一見すると地味な行事ですがローカルな地区毎に行われていて、規模といい密度といい、実は相当なものなんですね。新聞によると震災前にはこのさらに3倍あったといいますからスゴイものです。

震災で件数が減ったのはいわゆる "放射能騒ぎ" で自粛となったもので、昨年はほとんど全滅となり、今年になってようやくぼちぼち復活してきました。初詣の篝火やお札の焚き上げなどは今でも既に普通に行われていますので、筆者などは 「もう来年は通常運転でいいんじゃないの?」 …と思っています。

※どうしても気になって仕方がない、という神経質な方は、きっと春一番で土埃が舞うだけでも卒倒しそうになるでしょうから、どうぞ季節風が収まるまで呼吸を停止(ぉぃ)するなり地球の裏側に引っ越しをされるなり好きにしてくださればよろしいかと思います。




ところでこの 「どんど焼き」 の風習は東京(特に23区)にはありません。当初は江戸市中でも普通に行われていたのですが、明暦三年のいわゆる振袖火事で江戸の市街地の半分以上が焼けた後、防火対策として幕府から禁止されてしまったのです。禁止に至る前にもたとえば承応年間(1652~1654)には点火する正月飾りの高さ制限などが行われていましたが、やはり江戸城の天守閣までが燃えてしまった明暦の大火が決定的でした。禁止令が出たのは大火の5年後=寛文二年のことで、これ以降江戸市中からどんど焼きの風習は廃れたようです。

なお幕府はこのとき "松の内" の期間を従来の半分の7日間に短縮するお触れも出していて、正月十五日の小正月の行事と正月飾りの処分の日程をずらす試みをしています。小正月=正月十五日は武家にとっては元服の儀を行う日とされており(→現在の成人の日はこれが原型)、これは大名屋敷の密集する江戸城下では外交の場を兼ねた重要な日でした。火災の発生しやすい "松の内の最終日" をここからずらしたのは、これらを混乱なく進行したい事情もあったのかもしれません。

しかしこの指令は江戸市中以外ではどうやら不徹底だったようで、栃木でもどんど焼きを1/7にやっている地区はほとんどみかけません。現在行われているどんど焼きの日程は新暦1月15日に近い休日に設定されているところが多く、次いで多いのが旧暦を意識した建国記念日の前後です。お盆が旧暦に従って8月に行われる地域が多いように、小正月もまた旧暦で行われるところが結構あります。これら旧歴系の小正月は雪祭りとセットになっていることも多く、これはこれでもはやひとつの風物詩です。

そういう視点でみると、一見すると単なる巨大な焚火にしかみえないどんど焼きも、また面白く思えてきます。遡っていくと教科書には無い方面の日本史をたどることになる…それが、祭りの側から見たひとつの民俗誌の姿といえましょう。


<おしまい>