2013.03.20 鉄と日本刀を訪ねる:備前長船編(その6)
■慈眼院
さて次に向かったのは真言宗の仏寺:慈眼院である。ここは代々の長船の刀匠の菩提寺として有名なところで、創建は奈良時代中期の天平勝宝年間、鑑真によるものと伝えられ、それが額面どおりであれば律令国として分割された直後の "まだ鉄で税を納めていた頃" の備前国の風景の中に成立した寺院ということになる。
さきに紹介した兼光屋敷からは直線距離で200mほどで、ほとんど隣接している。天正年間の洪水からの復興過程で妙な移転などが行われていないなら、ここが長船で最も古いモニュメントということになり、逆説的な言い回しになるけれども兼光はよほど良い一等地をもらったということになりそうだ。
寺の山門には慈眼院の文字はなく、"備前長船刀匠菩提寺" とのみ表記がある。通り名のほうが表に出てくるというのはちょっと珍しいが、お陰で寺の性格はよく分かる。
開基とされる鑑真が律宗の僧であったのに対し現在の慈眼院が真言宗であるのは、おそらく長い歴史の中で寺が衰退期した時期があり、真言宗の僧が入って復興したのだろう。まあ古刹ではよくあることである(^^;)
慈眼院の "慈眼" とは、日常的に灼熱する炎を見つめることの多かった刀匠達が職業病として眼を傷めることが多かったので、それを慈(いつく)しむという意味を込めているらしい。昔は気の利いた温度計などは無かったから、炎の温度や赤熱する鉄の温度はすべては色具合でアナログに判断した。刀匠にとってはこれがノウハウの重要な部分を占め、また同時に重い眼の負担となったと言われている。
ちなみに先ほど訪れた靭負神社にも眼の疾患を解消するご利益があるそうで、目の健康を祈願して 「め」 の字を書いて収める習慣がある。由緒としては、おそらくここと一緒だろう。
境内には、歴代刀匠のための大きな供養塔が建てられていた。
題字には備前刀匠各霊供養宝塔とのみあり、作刀派閥の系譜や時代性とは関係なくみな等しく扱われて祀られている。聞けば天正の洪水前の歴代刀匠の墓地は現在ではわからなくなっていて、ここに集約されているらしい。
※後背地にある熊山にはいくらか墓地が残っているらしいが今回は確認していない
黎明期の古備前派や断絶した数多の刀匠の秘伝もまた、その魂とともにここに眠っている。いまではもう分からない、幻の技術である。彼らが遺したのは作品としての刀剣のみで、近代設備で分析すれば材質や結晶構造などはある程度分かるそうだが 「なぜそうなるのか」 というエンジニアリング的な解明はなかなか難しいらしい。
余談になるが江戸時代になると出雲産の玉鋼が全国的に出回って、これが非常に高品質であったことから人気と成り、スパスパとよく切れる日本刀が作られるようになった。ただしこの玉鋼は非常に硬く、切れはするけれど粘りの点では古刀に及ばないという評価もある。つまりは斬り合いの最中にポッキリと折れることがままあり、それは腕の問題ではなく材料の問題だとする主張がなされた。
よって靭性を確保するために芯鉄/皮鉄構造の重要さが強調されて刀鍛冶もその最適条件を追及していったのが江戸時代の特に中盤以降のトレンドとなったのだが、古刀の粘りを理想としてその復活を目指す動きも根強く続くこととなった。筆者は素人なので折れる原因が材料なのか腕なのかはよく分からない(^^;)
ともかく、古刀を理想としてその復活を目指す動きは現代に至っても続いており、失われたノウハウの解明は主に科学分析によるアプローチで行われている。ただしまだまだ未解明の部分は多いのである。
まあ鬼籍に入った昔の名匠さんに言わせれば 「おぬしら修行が足らんわー!」 で一蹴されてしまうのかもしれないけれども(^^;)、マニュアル化されない "見て覚えろ" 式の技術伝承というのは、いったん途絶えてしまうと復活させるのは並大抵のことではない。洪水で生産地がまるごと壊滅するという特殊要因がなければもうすこしマシな状況があったのかも知れないけれど、それは今更何かを言ったところで始まらない。
ともかく、歴代の偉大なる先人諸兄の魂よ、安らかなれ…南無南無。
さてそのまま境内を少々散策してみると、寛文年間(1661-1672)の頃の横山上野大掾祐定のものらしい墓石(写真中央)があった。洪水ののち、備前刀の伝統をかろうじて後世に伝えた藤四郎祐定の孫にあたる人で、歴代の祐定(※)でも上位にいる刀匠だ。直系の家系はやがて絶えてしまったが、その一門にあった親類や弟子が祐定を名を継いで現在に至っている。
不思議なことにこの一門の刀匠は、なぜか皆 "祐定" の名にこだわってあまりオリジナルの号を名乗らなかった。 おかげでいつのまにか新刀以降の長船=とにかく祐定という流れが400年余りも続き、ついに60人以上の祐定さんが生まれてしまった。これは歴代ウルトラマン全員(30人)や歴代プリキュア全員(35人)よりも多く、ただの祐定では区別ができないので銘は 「俗名(○○右衛門など)+祐定」 の形式で切られている。冗談のようだがこれは本当の話である(^^;)
※余談になるが祐定銘の日本刀は、初期の数名を除きこの俗名が入っていないものは骨董的な価値はさっぱり評価されない。それは数打ち物にテキトーに "祐定" 銘を切って出回った物が大量にあるためで、Yaho(中略)オー(中略)ョンなどに信じられないような激安で出品される "祐定" は(中略)。こういうものが出回るのは一種の有名税みたいなもので、それだけ備前長船の刀には人気があったのだろうが、現在ではすっかり悪貨が良貨を駆逐してしまった感がある。ちなみに悪いことをしていたのは奈良の刀問屋らしく、無銘の数打ち物にテキトーな銘を切っては伊勢参りの客などに売りさばいていた。これは俗に奈良物と呼ばれ、庶民には刀剣版100円ショップの感覚で人気があったそうだが今では安物、贋物の代名詞のようになっている。備前長船の祐定一門はその最大の被害者かもしれない。(そうは言っても真剣ではあるので、分かっていて購入する分にはお手頃な刀といえるのだが ^^;)
■ 造剣之古跡碑
さて慈眼院を出たところで、造剣之古跡碑を探してみることにした。…しかしこれがなかなか詳細なMAPが無く、距離は近いはずなのに道順がわかりにくい。
仕方がないので通りすがりのご老体を捕まえて聞いてみると 「ああ、そこですわ」 と仰る。見れば一応、申し訳程度の標識はあるようだ。…うーむ、それにしても地味な案内だなぁw
それはともかく、この付近は道が狭い。およそクルマの通行など考えていない小路が縦横無尽に走っている。このあたりは洪水以降に出来上がった筈の町並みだけれども、区画整理とか道路の拡張が為された雰囲気は薄く、「人が歩いて通れればそれでよし」 という時代性が随所に残っている。
さて何度か行ったりきたりしながら、ようやく碑を発見。なんと現在では個人宅の敷地に取り込まれていて、非常に地味な立地になっていた。…これでは、よほど注意していないと分かりにくい。
そんな訳でこれが "造剣之古跡の碑" である。なんと大正時代の祐定さんが自費で建てたものだそうで、赤穂線の工事のために元々あった場所(自宅跡)から移転されて、今はここにある。
ところでこれを見たとき、実は筆者は 「あー、数ある記念碑のひとつだな…」 くらいの印象で眺めていて、気軽にカメラのシャッターを押していた。…が、後で調べてみると、この碑の存在は、とても重いものなのであった。
というのも、実はこの碑が建ったとき、備前長船の刀鍛冶には跡を継ぐものが誰もいなかったのである。幕末の騒乱期に一時期盛り上がった刀剣需要は、明治維新の廃刀令で市場が消滅するくらいのインパクトで打撃を受け、明治期を通じて 「刀鍛冶では食っていけない」 という状況をつくりだした。旧日本軍の軍刀需要はどうした、との指摘もありそうだがこれは兵器工廠で洋式サーベル型の剣が量産されるようになってマスプロダクション化されてしまった。
この時点で伝統的な日本の刀鍛冶の出番はほぼなくなり、大正の祐定さんはやがて刀匠を廃業してしまった。そして日本刀生産地としての長船の歴史はそこで幕を閉じた。大正14年のことであった。
つまりこの碑は、備前長船の輝かしい歴史の墓標として建てられている。その歴史を忘れないで欲しいという刀匠の思いが、自宅の庭をして "造剣古跡" とする碑を建てさせたのだろう。大正の祐定さんは、ここですべてを終わりにするつもりだったのだ。
しかし平成の今、長船には8名ほどの刀匠がいて備前刀の伝統を継いでいる。これは昭和に入って日本軍の軍装がサーベルから日本刀様式に変わり(→大陸での実戦経験から)、相変わらず工場での量産が主ではあったが、伝統的な鍛造での刀にもぼちぼち需要が出てきたため戦時中に復活したものが続いているのである。
ではその作刀の技法はどこからやってきたのかというと、30kmほど離れた倉敷(旧国名では備中になるが ^^;)からやってきた一人の刀匠によって "復活" したものなのである。タイミングとしては、かなりギリギリのセーフというところだった。
さきに紹介した刀剣博物館の敷地には 「今泉俊光刀匠記念館」 というのがあり、内部が撮影禁止だったので筆者は 「ふーん」 とほとんどスルーしてしまったのだが(汗 ^^;)、実はこの記念館で顕彰されている今泉俊光氏(故人)こそがその立役者なのであった。
氏は太平洋戦争で軍刀の需要が高まったことから、長船鍛冶復活を目指す地元有志の方々から招かれ、昭和20年2月から作刀を開始した。当時はまだ大正時代の刀剣関係者がまだご存命で、ノウハウ的な話もそれなりに聞くことができたらしい。しかし同年8月には日本の敗戦となり、わずか半年で事業を断念。日本刀の作刀が禁止となっていた戦後間もない頃は、鍋釜などの鍛冶業でなんとか生活をつなぐという状況だったらしい。
そして後に美術刀剣としての作刀が可能になってから、昭和29年に国の作刀認可を得て備前長船の日本刀を本格的に復活させたのである。その仕事の品位は宮内庁から作刀依頼が来るレベルであったそうで、現在の長船鍛冶はその門下の諸氏によって支えられている。そして平成の祐定さんもまた、今泉刀匠の弟子だった方が名を継いでいる。本当にギリギリの綱渡りみたいな状況だが、伝統はかろうじてつながったというわけだ。
残念ながら筆者は事前の勉強不足から、そんな物語があったことを知らないままにここを訪れてしまった。後から調べなおして少々後悔したのだが、もし次に訪れる機会があったならそのお弟子さんたちに会いに行ってみたいとも思ってみた。(…いやまあ、実際に押しかけたら迷惑されるかもしれないけれども ^^;)
<つづく>