2013.03.20 鉄と日本刀を訪ねる:備前長船編(その7)
■福岡
さて時計をみると微妙に本日の残り時間も厳しくなってきた。他にも見たいところはあったのだがここでいったん区切りをつけ、福岡を目指すことにしよう。
福岡は長船から2kmほど南東に下ったところで、現在は吉井川の左岸に集落があるが、天正の洪水で川の流路が移動する前は大きな中州であった。ここも長船と同様に一度壊滅してから復活したところで、しかし残念ながらもうここには刀鍛冶はいない。
ここでまた時代のネジを巻き戻して、平清盛から後鳥羽上皇あたりの話をしてみたい。福岡は長船よりもかなり大きな町であった。現在は人口が減って単なる地方集落のひとつに見えるかもしれないが、一時期は西日本最大の商業都市とまで言われた大都会だったのである。その繁栄のピークは鎌倉時代から室町時代にかけてで、町の繁栄の基礎をつくったのが平清盛の日宋貿易(平安時代末期)の頃の商人の集中であったと言われる。
都市の発展には、従来は北方5kmほど山寄り(和気の付近)を通っていた山陽道が海岸線の後退で平地の広がった岡山平野側に移動し、鎌倉時代に現在の国道2号線のルートに付け替えられたことも大きく響いている。山間の小盆地である和気と異なり、福岡付近では洪積平野が広々と広がっていて市街を形成しやすく、商業地とするには好都合だったからだ。
さて集落に入ると、整然とした町屋の並びが続いていた。戦国期に宇喜田家の支配領となった備前国は、関ヶ原の戦いで宇喜田家が断絶した後は小早川秀秋が入り、のちに池田忠継が入って岡山藩が成立した。現在の集落はこの岡山藩時代に形成されたものだ。
かつてここに大屋敷を構えていた大商人たちは戦国末期に岡山城普請で引き抜かれてあちらの城下町に移転してしまったそうだが、それでも船運基地としての機能はそれなりに残り、宿場町としてもここは江戸時代いっぱいまで栄えていた。古風な良い町並みである。
集落を歩いてみると、やたらと 「黒田官兵衛」 の幟が目に付く。どうやら来年のNHK大河ドラマはここの地元出身ヒーローである黒田官兵衛であるらしい。…やはり戦国ものは視聴率的に鉄板ということなのかな(^^;)
※ちなみに黒田官兵衛の息子、黒田長政は関ヶ原合戦ののちに家康から与えられた筑前名島をこの地の名をとり "福岡" と命名した。現在では福岡といえばこの北九州の都市のほうが有名になってしまったけれども、その出発点は実はここにある。
現在の福岡集落は、商都というよりは小ぢんまりとした門前町の構造で町割がなされていて、その中心になっているのは妙興寺という仏寺である。幕末までは岡山藩により整備されていたのだが、明治維新で廃藩置県となったのちに人口が減って市街地が縮小し、現在は寺の門前部分がわずかに昔日の面影を残すのみとなっている。
この妙興寺には戦国大名の宇喜田家と黒田家の墓所がある。戦国時代には寺の敷地が2町歩ほどもあったそうだが、江戸時代後期に大火があり、復興と区画整理の過程で寺領は縮小している。
せっかくなのでその宇喜田家と黒田家の代々の墓所を参詣。写真(↑)は黒田家の墓所である。見れば笠塔婆と方柱塔が主で形式としては新しい。戦国期から江戸初期頃までは墓石は五輪塔が一般的で、こういう縦長+四角形のものが増えるのは江戸時代も中期頃以降のことだ。やはりオリジナルは洪水で失われ、町が復興した以降に改めて墓が整備されたような印象をうける。
さて脇道の話が長くなりすぎた。話を日本刀に戻そう。
備前の刀剣産地としての知名度は、実は長船より先に福岡の刀工の活躍によってメジャーとなった感がある。ここには吉井川の水運と山陽道(現在の国道2号線)の交錯(※)する地の利を生かしてまず定期市が立つようになり、やがて刀剣取引がさかんになった。現在は備前(岡山県)といえば岡山城周辺の都市化が著しくいかにも ”県都” 然とした雰囲気を漂わせているけれども、岡山は宇喜田直家が1580年代に岡山城を整備拡張してから城下町として巨大化した都市で、もともとは福岡のほうが人口も多く歴史も古いのである。
特に平安時代後期から鎌倉時代にかけての福岡は商業都市としては西国一の賑わいと言われるほどになり、平安末期には福岡荘とよばれる荘園がここにあって平家の経済力を支えていた。平清盛が整備した日宋貿易の瀬戸内海インフラのひとつ=牛窓の海外貿易港とも近く、福岡はここと連動して貿易需要も取り込んで大いに潤ったのである。
※牛窓は伝統的に中国、朝鮮からの船の風待ち港として使われた。江戸時代になっても朝鮮通信使などはいきなり大阪や京都、江戸には入らず、まず牛窓に寄港するのが慣わしであった。
※厳密にいえば平安末期までは山陽道は和気の付近を通っているのだが、海から舟で上がってくる場合、川の傾斜がゆるやかなのが福岡のあたりまで(高低差5m)で、和気まで登ると相当にキツくなった(同18m)。和気ではなく福岡に船運都市が発達したのにはそんな側面もあるように思われる。
そしてこの時期、大陸貿易における日本のメジャーな輸出品目に "日本刀" がみえるようになる。貿易品というのは船の積載量との兼ね合いもあるので、一般に重量あたりの単価の高いものが好まれる。1トン1万円の硫黄を運ぶより、一振り2kg数十万円(※)=1トンあたり数千万~数億円の日本刀を運んだほうが、船1隻あたりの商単価は桁違いに大きくなる。船主がどちらを積みたがったかは説明を要しないだろう。
当時の貿易相手国=宋は先進国であるから付加価値の高い品物は宋のほうが多かった。すなわち、仏典、書画、陶磁器、香料、銅銭などである。日本からの輸出品は銀、銅、硫黄、木材などの資源物資が多く、銀などは貴金属としての価値があったが他はいずれも原材料系で、体積あたりの価格はそれほど高いとはいえない。工芸品としては漆器や屏風絵などもあったが、その中にあって日本刀は当時なりのハイテク製品であり、付加価値が桁違いに高かった。つまりきわめて優秀な輸出商品だったのである。
※現代刀では注文打ちなら100万円越えは確実だが、輸出品は数打ち物だろうから筆者は多少安めの価格帯を想定している。
※硫黄や銅などは船底にバラスト(錘)を兼ねて積み込み、船の重心を調整して安定させるという役目もあった。荷物の積み方にもノウハウがあり、日本刀ばかりを積んだとは限らない。
平安時代の日本刀の輸出数ははっきりとはわからない。しかし時代が下って明の頃には数十万本という単位で輸出されていたというから、商品の素性としてはよほど割がよかったのだろう。
当時の福岡では、輸出需要によって刀剣バブルのようなものが起きたのではないかと筆者は想像している。そして他の刀剣産地にくらべて備前の刀工数が際立って多くなったのは、この貿易分のドーピング効果が相当に効いていたのではないかとも思うのである。
■一文字派と後鳥羽上皇の話
さてその福岡の刀剣産業を記念する石碑が、妙興寺の参道脇に建てられている。当時名声を誇った刀工集団、一文字派の記念碑である。
彼らは銘を切るときシンプルに 「一」 の字のみを切った。初代は則宗という刀匠で、後鳥羽上皇(1180-1239)の御番鍛冶となって 「天下一なり」 との評を得たことから 「一」 の銘を使い出したと言われている。もちろん備前にはそれ以前にも古備前派と呼ばれる刀工集団がおりそれなりのブランドを形成していたのだが、やはり皇室のお墨付きがついたというのは大きかったようだ。
後鳥羽上皇は教科書的な記述をすれば、源平合戦の終盤に頃に安徳天皇がまだ存命中に即位を強行して源氏方につき、のちに翻意して鎌倉幕府打倒を試みて承久の乱を引き起こした人物…ということになる。非常に多趣味な人物で、文学方面では新古今和歌集の編纂を命じたことでも有名だが、実は無類の刀剣マニアでもあった。どのくらいのマニアだったかというと、上皇(天皇)自らが刀鍛冶となって炭火を起こし槌を振るったいうのだから恐れ入る。
このマニアックな上皇様が在野の刀鍛冶から名工を集めて月毎に交代で刀を打つイベントを開いた。これが御番鍛冶で、一月に2名ずつ計13名(※閏月があるので13番目が居た)が担当者として選出された。うち6名が備前鍛冶で、翻って備前という土地柄の刀工の層の厚さが窺い知れる。
※肖像はWikipediaのフリー素材より引用
まあ実際のところは御番鍛冶といっても招いた刀匠に難しい作業はすっかり任せておいて、焼刃土盛りなどの美味しい部分だけ上皇がちょこっと手をだしただけ…のような気がしないでもないのだが(^^;)、それでも日本刀のブランド力向上にとって、この後鳥羽上皇が果たした役割は大きかった。
なにしろ当時は貴族でさえ御所に足を踏み込めるものは上位の限られた者しかおらず、謁見するにしても天皇/上皇は御簾の向こう側で顔を見ることさえ許されない時代である。平民である鍛冶職人が殿上に上り、月毎に上皇に刀鍛冶の手ほどきをして一緒に作業をするなどというのはとんでもない "事件" といってよく、これに選ばれた刀鍛冶は刀剣界でも別格の扱いをうけた。分かりやすく言えば有力者からの指名注文が増え、刀の単価もプレミアムがついて高騰した。刀匠の名前(あるいは派閥)がブランド化した非常にわかりやすい事例といえる。
彼らは御番鍛冶を務めた報酬として、皇室の荘園から墾田を与えられ下級貴族並みの待遇を得たらしい。食うや食わずの貧乏職人と違って、生活基盤となる墾田をもった上で余裕をもって刀を打つことが出来たわけで、これが丁寧な仕事を可能にし、さらなる名刀を生んでいったのかもしれない。
※余談になるが後鳥羽上皇ご本人が手を加えた刀は、銘の変わりに菊の紋を切り、"菊一文字" などと呼ばれた(→貴人は安易に署名をしない、という作法によって紋だけになったらしい)。現在の皇室の "菊の御紋" はここから発祥しているのだそうで、皇室の歴史は実は日本刀の歴史とも興味深い交錯をみせている。
ところで後鳥羽上皇はその後の承久三年(1221)、鎌倉幕府との政治上の対立から武力闘争を起こし、敢え無く敗れて隠岐に流されてしまった(→承久の乱)。ここで上皇の御番鍛冶の地位に立脚した一文字派のブランド価値はかなり微妙な立ち位置になってしまったのだが、それでも鎌倉期一杯くらいまでは名声がつづき、国宝となる名刀をいくつも生んだ。
しかしやがて元寇の災厄が訪れると、鎌倉幕府によって一文字派の有力な刀匠が相次いで関東に引き抜かれ (→これが相州伝の祖のひとつとなっていく)、福岡の刀工はやがて力をつけた長船派の勢いの前に埋没していくことになる。
ただこのあたりの事情は、どうも素人調査でサラっと眺めたくらいでは因果関係とか系譜のようなものの全体像がわかりにくい。正確さを期そうとして資料をたぐっていくとなおさら訳がわからなくなってくるというのが正直なところで、あまり決め付けるような書き方は避けておきたいと思う。
■ 福岡の市跡
さて刀剣碑から200mほど歩いたところに、福岡の市跡の碑があった。筆者的な本日の最終チェックポイントである。後ろに立っている建物は福岡の市とは直接関係の無い稲荷神社で、どうやら単なる空き地にしておくと荒廃してしまうのでとりあえずなにか祀っておこう…という思想の産物のように思える(…いいのか、そんな理解で? ^^;)
石柱には "一遍上人巡錫の地" の文字がみえるが、ここは鎌倉時代の仏僧:一遍上人の伝記絵図に描かれる福岡の市(弘安元年=1278年頃)の跡と比定されているところで、かつての吉井川の河原跡である。いまは無くなってしまったかつての福岡の栄華の跡を伝えるモニュメントともいえる。
一遍上人絵図に描かれている福岡の風景は、時代的にはちょうど元寇の1回目と2回目の間の頃(弘安元年:1278)にあたる。備前の刀剣産業が華やかなりし時代であり、さきほど訪れた刀剣博物館でもここの案内板と同じ絵が展示されている。
絵巻で描かれているのはあくまでも一遍上人の活躍の様子がメインで、背景となる市の様子は説明に必要な部分だけが簡略化して書いてあるようだが、みれば店舗は露天ではなくちゃんと屋根のついた常設の建物でブースを区切って商品を並べていたようだ。おそらく公共施設としてのハコモノがあって、現在の縁日とかフリーマーケットのような雰囲気で商人が集まったのだろう。
こういう取引施設が、福岡には中心市街地の周辺にいくつもあった。現在でも地図をみると一日市、八日市、あるは単に市場などの地名がみえるのはその名残といわれ、ざっくりと分布をみると福岡の市跡から半径2kmくらいのあたりに輪番営業の市が立っていたようだ。大雑把にいってそのくらいのエリアが福岡の商都としてのテリトリーだったのではないだろうか。
絵図には辻説法する一遍上人と、それに絡む野武士らしい男達が描かれている。男が腰に吊っている日本刀は刃を下に向けているので太刀であろうか。刃渡りは二尺七~八寸はありそうな大振りな刀で、江戸時代になると定寸が二尺三寸くらいに制限されてしまうのと比べると、時代なりの豪壮な装備といえる。
当時の福岡でははまだ一文字派が健在で、注文打ちの刀はさすがにこういう市場には流れなかっただろうけれども、若い刀工の作った数打ち物(→稽古打ちなどと称した)などは鉈や包丁などと一緒に行商人が売って歩き、こういうところにも並んだのかもしれない。
しかしそれも含めて全ては400年前の洪水で流されてしまって、当時の様子を示すものは今では記念碑意外には何も残っていない。さらにはかつての商都も市街地はすっかり縮小して大部分は農地に返ってしまった。まさに諸行は無常といえる。
ただその代わりに、かつて日本中に散っていった "作品" としての無数の日本刀が、長船あるいは福岡の名を後世に伝える記念碑となった。鎌倉時代の十訓抄に曰く 「虎は死して皮を残し、人は死して名を残す」 というけれども、かつての産地の威容を失ったここもまた "刀を残す" ことで名を残したのである。
十訓抄の故事と異なるのは、長船にはまだいくらか諦めの悪い人々が頑張っていて、備前刀の灯を絶やさぬよう研鑽に励んでいることだろうか。今回はお目にかかる機会を得なかったけれども、この素晴らしき刀剣野郎の方々の活躍には敬意を表したいと思う。
…などと言っている間に、夕刻が迫ってきてしまった。1日で駆け足で回るには少々足りなかったかな…などと思いつつ、ここでリターンフェーズに入ることとした。
福岡から山陽道に戻るルートは、吉井川の堤防の上を走っている県道464号線であった。近代工法で整備された堤防の高さはざっと10m以上あり、多少の川の氾濫があっても現在は市街地が水没することはなくなっている。ただ河原(写真左側)と住宅地(写真右側)の高さ水準は昔日とそう変わってはおらず、かつての長船あるいは福岡の "川辺の町" としての面影を仄(ほの)かに残しているように思えた。
…日本刀は、こういうところで育ったのだなぁ…(´・ω・`)
■ 備前を去る
さて余韻を残すまでも無く、移動の列車の時刻もあるので筆者は岡山駅までダッシュで帰還。本来なら天気の良い日に二、三日かけて巡りたい備前の刀剣の里だったけれども、まあ準備もそぞろに出かけてきた割にはそこそこの収穫もあった。贅沢は言うまい(^^;)
そんな訳で、次の行き先は出雲である。日本刀の原料である砂鉄取り、たたら製鉄、そして鍛刀…と見るべきところはたくさんある。ついでに日本刀が生まれる前の直刀時代の遺跡なども見ることができるはずだ。すこしばかり、期待してみよう。
<出雲編につづく>
■あとがき
えー、柄にもなく日本刀などという深遠なるマニアの世界(?)に首を突っ込んでしまいましたが、正直なところ素人がその全貌をつかむのはかなり大変で、間違ったことを書いていたらどうしよう…という結構ヒヤヒヤもののレポートです(^^;) マニアの世界のお約束として 「これは基礎知識として知っておかねばならんだろう」 という類の内容も多く、真面目に書き出すと説明もくどくなりがちなので、本文は当初書いた原稿の半分以下に端折ってかなりバッサリとカットしています。本当にどえらいテーマを選んでしまったものです。
さて備前長船というと筆者のような門外漢でも 「日本刀で有名なところ」 くらいの認識はさすがにありまして、実はかなりミーハーな期待をしておりました。筆者自身が観光地の在住ということもあって、これだけの歴史の蓄積のあるところなら観光振興もスゴイことになっているに違いなく、街角で能天気にトンテンカン、トンテンカン…と刀を打つ人がたくさん居て、土産物屋がズラーリと並んで、戦国武将やら僧兵やら足軽やら浪人やら新撰組やらニンジャやらむっちんぷりんなミニスカくノ一(ぉぃ)やらのコスプレをした人が闊歩しているのではないかと…(笑)
ところが実際に現地を訪れてみると、まったくそんなことはなく、ひたすら地味な田舎の風景の中に控えめな史跡が散在する…といった状況で、「ここが本当に日本刀の聖地なの?」 というのが正直なところでした。国道2号線という中国地方の大動脈が隣接しているというのに、道の駅のひとつもなく、長船町を抱える瀬戸内市にはもうすこし真面目に観光振興をして欲しいと思うのですが…どうなんでしょうねぇ(´・ω・`)
※同じ市内でも邑久などは 「道の駅が出来た」 というだけで猛烈に観光客が増えている訳ですから、長船でも工夫の仕方はいろいろあると思うのですヨ
それはともかく、地域振興が極めて貧相だったことの副作用として、実は長船には古い時代の区割りがそのまま道路網として受け継がれています。建物は現代風の建築になってしまって風情も何も無くなってしまっていますが、道路網と神社仏閣を考古学的に読み解くような、すこしばかりマニアックな歩き方をすると初めてほんのすこし土地神様に微笑んでもらえるような、そんな土地柄なのが長船という集落なのかもしれません。
■長船が突出した理由は何なのだろう
さて今回は長船と福岡ばかり取り上げてしまいましたが、備前刀の工房は近隣の集落にもいくらかバラけて散在しており、吉井、大宮、畠田などに刀工集団が工房を構えていたようです。上の地図からは少々外れますが長船から吉井川を5kmほど遡った河畔に吉岡庄というところにも鍛冶集団がいました。こちらは平安時代の山陽道(旧道)沿いにちかく、古代には人の往来があって、備前刀のそもそもの起こりはこのあたりではないかとも言われています。ただしいずれも吉井川河畔の低地にあって天正の洪水でまとめて流されており、古刀時代の工房跡はほとんど残っていません。残念なことです。
ところでこうした幾つもあった鍛冶集団のなかで、最終的に長船の名声が突出した理由は何だったのでしょう。筆者なりにいくらか考えてみたのですが、それはどうやら足利尊氏との関係が深かったからだろう…というのが目下のところの推論です。
備前刀のブランド形成に関わったであろう歴史人物をざっとあげると平清盛、後鳥羽上皇、足利尊氏あたりが三大巨頭かと思われますが、清盛の時代はまだ長船はそれほどブレイクしておらず吉井川周辺の荘園地帯に刀工集団が適度にバラけていました。それに続いて後鳥羽上皇の御番鍛冶でブレイクしたのは一文字派で、彼らの拠点は福岡(さらには吉岡)です。
長船の名声が高まるのは足利尊氏が新田義貞(→後醍醐天皇の勢力)と戦って勝利した南北朝時代草創期の頃にあたります。九州に落ちていく途中の足利尊氏が参詣したのが長船に隣接する靭負神社(当時はまだ崇神天皇社?)であり、また幕府を開いたのちに一刀匠には過剰とも思われる褒美を兼光にとらせているのがやはり長船の地で、これ以降に長船鍛冶はブレイク期に入っていった感があります。
これは想像にすぎませんが、敗色濃厚で九州に逃れていくときの足利尊氏に好意的に協力したのが長船の刀工集団で、かつて皇室から領地をもらって良い思いをしていた一文字派などは後醍醐天皇側について足利軍の足を引っ張る側(或いは非協力)にまわったのかも知れません。新田 vs 足利の攻防戦が一番長く続いたのが播磨国~備前国の国境地帯、足利軍勝利のまさに天王山になったのが赤穂から長船に至る街道沿いの戦いですから、ここでどちら側に付いたかで、ある種の論功行賞的な扱いがあったとしても不思議ではないでしょう。…そう考えると、ちょっとした豪族並みの屋敷を構えて南北朝の騒乱期にデン、と要塞のように建っていた長船の兼光屋敷には結構な存在意義があったのではないかとも思えてきます(^^;)
その後時代が下って南北朝の合一の頃になると、本編では触れませんでしたが三代将軍:足利義満の日明貿易が始まります。これの代表的な輸出品のひとつがやはり日本刀で、平清盛の日宋貿易と同じ構図で刀剣バブルが到来したのではないかと筆者は推測しています。兼光屋敷が出来てから50年くらいの時期ですから、長船は備前鍛冶の中で大きな地位を占めていたことでしょう。この波に長船派はうまく乗って、生産地としての安定した地位を築いたように思われます。そしてその後もいろいろと紆余曲折はあったものの、総じて足利尊氏以降、長船の名声をひっくり返すような有力なパトロンが他の刀剣産地に付くことはありませんでした。結局、それで逃げ切り優勝したのが長船だったのだと思うのです。(※天正の洪水で地域ローカルなライバルが消滅したというのも大きいかもしれませんけれども ^^;)
…とはいえ、素人がいくらか本をナナメ読みしたくらいで "歴史の真実" とやらがズバっとわかる筈もなく、このあたりは思考の遊びとして愉しむくらいに留めたほうがよいかもしれません(^^;) 物見遊山の旅のスタンスとしては、そのくらいでちょうど良い気がします。
さてあまり駄文を引っ張ってもアレなのでこのへんでおしまいにしようと思いますが、最後に現代の長船の刀鍛冶さんについて少々。
今回はイベント絡みでご不在とのことでお目にかかれませんでしたが、聞けばここ長船には平成の祐定さんの運営する 「伝習所」 なる 魁!!男塾 のような施設があり、血気盛んな門下生の方々が日々超人的な修行に勤しんでいるとのこと。いつかその道場を訪ねてみたい気分もありますが…はてさて、機会はありますでしょうか(^^;)
<おしまい>