2013.03.21 鉄と日本刀を訪ねる:出雲編(前編その1)




前回からの続きです~ (´・ω・`)ノ



さて今回からは出雲編となる。出雲は岡山と並ぶ古い和鉄の産地で、特に日本刀の材料となる玉鋼の供給地として有名なところだ。古代神話に絡む遺跡も多く、今回筆者はここで三日間を過ごす事にしている。その内訳は

1日目:出雲平野と斐伊川流域
2日目:たたら製鉄の遺構(高殿)と金屋子神社
3日目:奥出雲たたらと刀剣館にて鍛錬の見学



というもので、移動の範囲が広いために少々ゆとりをもったスケジュールにしている。三日間もあると写真の量も多くなるので、本サイトとしては珍しいケースだが前編/中篇/後編と分けてレポートしたい。本編はその出雲編の第一日目で、砂鉄の川:斐伊(ひい)川の周辺を巡るものだ。



 

■ 出雲への道




さて岡山から出雲に向かうには、倉敷経由で伯備線に乗り、果てしの無い山また山のつづく中国山地を横断して日本海を目指すことになる。




中国山地はその殆どが1000m未満の低くなだらかな山々の連続である。かつては広大な花崗岩の台地であったらしいのだが、長い年月のうちに風雨による侵食がすすみ、現在では平地と呼べる部分はほぼなくなっている。起伏を考慮しない白地図みたいな地形図だけをみているとピンと来ないけれども、「人の往来」 というものを考えた場合、この広大な中国山地による分断が、山陰あるいは山陽という地域区分を生み出したといってよい。




こんな地勢の中国地方にあって、人が居を構えたのは主に海沿いの沖積平野であった。このうち瀬戸内海側で最大のものが岡山平野、日本海側で最大のものが出雲平野である。いずれも早期から農業基盤、都市基盤が集積し、良港に恵まれて海運の便もよかった。

こういうところには、"国家" が成立しやすい。古代にあっては、岡山平野には吉備国が、出雲平野には出雲国がそれぞれ成立した。いずれも強国であり、その強国である所以のひとつに "鉄の産出" があった。ただしやがて吉備国は崇神天皇の派遣した吉備津彦(桃太郎のモデルとされる武人)により平定されてしまい、出雲国もほぼ同じ時期に大和朝廷の支配域に入っている。




かつての出雲の国は、出雲平野から鳥取方面の倉吉あたりにかけてがその領域であったらしい。文化圏としてみると日本海沿いにもっと細長く影響圏が広がっており、実際のテリトリーはもう少し広かった可能性もある。(※たとえば因幡の白兎の伝説は鳥取の話である)

それが大和政権に吸収合併されていった過程についてはまだ良くわからないことが多い。ただ古事記、日本書紀に語られる神話部分の1/3ほどが出雲編で占められ、国譲り神話にみられるように政治的な支配権は譲ったが宗教的権威は残されたとする記述があるところをみると、一方的なタコ殴り式に征服されたのではなく、それなりに条件闘争をして名誉ある併合を受け入れたような感がある。すくなくとも彼らは吉備国より幾分か立場が強く、政治的にもうまく立ち回ったのだろう。

そのためか、記紀神話における出雲の扱い方には他の地方にはみられない別格ともいえる気遣いが多くみられる。比較するのもアレだけれども桃太郎に "鬼退治" されてしまった吉備国と比べると存在感の差は歴然としている(^^;)




…とはいえ、併合された後は大和政権による政治的な実効支配が着々と進み、かつての出雲国は東西に分割されて、東側は伯耆(ほうき)国とされ律令体制に組み込まれてしまった。この地域の行政の中心地はかつては古い遺跡の集中する米子の周辺にあったが、朝廷はそこを狙うように国境線を引いて領土を分断し、新しい行政の中心は伯耆国では倉吉へ、出雲国では松江へと距離を置いて設けた。もちろんこれは分断統治による現地勢力の弱体化を図ったものであっただろう。

朝廷は地域の支配構造にもメスを入れた。これは出雲に限った話ではないけれども、かつては土着の豪族が国造として幅広い自治権を持っていたところに、朝廷から派遣された郡司、国司がやってきて政治的な実権を奪っていった。そしてかつての支配者=国造の家系はやがて祭祀を担当する名誉職のような地位に追いやられたのである。

出雲もまたこの流れに沿って旧支配層の弱体化が図られ、やがて国造は出雲大社の宮司の地位に収まって政治の実権を失っていった。ただし政争から切り離されたことで家系は長く残り、現在でも皇族に継ぐ歴史の長い家柄として存続している。




さて本編のテーマである製鉄とか刀剣に関してはどうかというと、分割後の出雲国/伯耆国とも山岳部には優良な鉄鉱床をもっていて、渡来系とみられる製鉄集団がさかんに "たたら製鉄" を行っていた。平安時代になると日本刀の生産が始まり、出雲~伯耆の国境のあたり(→古代出雲の中心地付近)に鍛冶集団の分布が見られるようになる。このうち伯耆国側に居た安綱という刀匠が平安時代中期に打った童子切(国宝)などが名刀として現代まで伝わっている。彼らは五箇伝には勘定されていないけれども日本刀草創期にはただならぬ存在感を示している。

ただ近世にあっては、出雲地域は刀剣産地というよりは原料鉄の供給地として栄えていて、今回筆者が主に見て回るのもそちらのほうの切り口が主となる。




そんな訳でJR西日本の特急 「やくも」 に乗って筆者は移動している。

特急 「やくも」 は飛行機を除けば望み得る最高速度の移動手段である。しかし特急とは言っても山間の狭く細長い盆地を縫うように走る路線であり、実はたいしてスピードは出ない(^^;)。つまり現代にあっても中国山地を越えて瀬戸内海から日本海側に抜けるのはコストがかかる訳で、古代の文化圏がそれぞれの面した海に沿って広がったことの理由が今更ながら実感できる。

時刻表をみると岡山から出雲まではたっぷり4時間ほどもかかるらしい。往復するだけで8時間か…これはちょっと日帰り圏とは言いにくいなw




ゆるゆると揺られていく列車の旅は長い。JR西日本の "革新的経営" によって、4時間もある旅程なのに車内販売は打切られてしまい、自販機も無いので乗客は弁当も飲料も買えないまま修行僧のような時を過ごさなければならないのだが、きっとこれはJRの精神修養的な高次元サービスの一環なのだろうと好意的に解釈しつつ車窓を眺めて過ごす。




やがて米子を経て宍道に到着。世の中はすっかり真っ暗であった。さて本日の宿は出雲空港ちかくに確保している。とりあえず今宵はここで宿泊して、明日は早朝から斐伊川周辺を歩いてみよう。

※ちなみに倉敷で定刻より5分遅れだった特急 「やくも」 は、ここに至ってもなお5分遅れを解消していなかった(^^;) …JR西日本の仕事感覚は国鉄時代から果たして進歩したのだろうか?



 

■ 宍道湖




さてそんな訳で夜が明けた。飛行機に乗りもしないのに何故か空港ホテルで向かえた朝だが、まあこんな日があってもいいだろう。昨日夕飯を食い損ねた分も含めてエネルギーチャージをして出発だ♪




空模様はまるでJR西日本の将来を暗示するようなどんよりとした曇り空であったが、とりあえず気にしないでまずはレンタカー屋で当座の足を確保し、ゆるゆると走り出してみる。




本日の予定は、出雲平野を出ない範囲で斐伊川を遡って古代遺跡と直刀時代の刀を確認することにある。せっかくだから出雲大社もちょこっと眺めて、夕日が見られそうであれば稲佐浜にも足を伸ばしてみよう。

この斐伊川というのは、出雲の鉄を語る上では欠かせない川である。この川の上流地帯には広く鉄鉱床が広がっていて、そこから流れ出る砂鉄がこの川を下って川底に堆積している。ただし鉱床といってもいわゆる鉄鉱石の露頭があるわけではなく、この付近の山を構成している花崗岩が日々崩れて砂となって流れくだり、そのなかに砂鉄の粒が含まれているのである。日本の他のあらゆる河川に比べて、この働きが非常に顕著なのが斐伊川なのだ。




実をいえば付近に広がる出雲平野は、この斐伊川の働きによって上流から運ばれた花崗岩の砂が堆積して出来たものだ。古代から延々と数千年、数万年を経て海が埋め立てられ、近世では人の手による干拓も加わって平野はその面積を増やしてきた。




宍道湖の側からその様子を俯瞰すると、いかにも洪積平野という感じで広々とした平野が広がっているのがわかる。出雲大社の背後にある山塊(坪背山、弥山、etc…)はかつては島で、もともとは海峡であったところに土砂が堆積して砂州が延びていったのである。

出雲平野では斐伊川はかつて出雲大社側(=上図の奥側)に流れていた。この川は上流からの土砂の流入が激しく、河床がどんどん高くなって典型的な天井川となっており、雨が降るとたびたび洪水を引き起こしてはその流れを変えてきた。それが宍道湖側に注ぐようになったのは寛永12年(1635)の水害によるもので、これによって大量の水が注ぐようになった宍道湖の水面は、雨天時には2~3mも上がってしまうようになった。

もちろんこんな水面上昇が起これば、農地は水没して深刻な被害を生じる。のちに松江藩は水を抜くために佐陀川用水を開いて宍道湖の水を海に流す対処をするのだが、その後もこの一帯の "水害に弱い平野" という基本属性は変わっていない。




さてそんな宍道湖畔にやってきた。干拓地の最先端=最も標高の低い地区では農地は区画毎に堤防でぐるりと囲まれており、道路はその堤防の上に通されている。堤防は縦横に走る用水路にも徹底して設けられ、なにやらオランダの0m地帯を髣髴とさせる景観となっていた(^^;)




ただ首都圏の湖沼のようにコンクリートでガッツリと固められた護岸とは異なり、宍道湖には自然な水辺の風景が広く残されている。水の透明度はそれほど高くはなさそうだけれど、堤防の外側には浅瀬が広がり葦原もあって、いかにも弥生人が水田を開きたくなるようなテイストに満ちているのである。




見れば沖合いではシジミ漁をやっているらしい舟が忙しそうに走り回っていた。そういえば宍道湖といえば名産はシジミなのだった。遠浅の砂地で水深が4m未満の汽水域でしか生息しないシジミは、今ではこの宍道湖が国内最大の漁場になっている。魚ではなく貝ではあるけれど、やはり漁の時間帯は朝というところになにやら可笑しみのようなものがあるな。




ふいに鳥が飛び立った。沿岸に自然が多く残るためか、ここは野鳥の天国でもあるようだ。




…まさに、豊葦原の瑞穂の国だねぇ ヽ(´ー`)ノ



 

■ 砂鉄の川:斐伊川を行く




さてそんな宍道湖に流れ込む斐伊川の河口にやってきた。現在でも日々砂を運び、宍道湖を埋め立て続けている土木エンジンみたいな川である。そして玉鋼の誕生には、この川がもたらす砂鉄が非常に大きな役割を果たしている。




その河口は、いくつもの砂洲と葦原の混在した干潟状の浅瀬となっていた。何隻ものシジミ漁の船が入り乱れているところをみると、よほど良い漁場であるらしい。




そのまま、川沿いを遡ってみることにした。天気の良い日には砂漠のような風景が見られると聞いてきたのだが、昨夜雨が降った余波によるものなのか、一面の水の風景が続いていく。




道路沿いにミサゴらしい鳥を発見。猛禽類の中では魚専門の鳥であるらしいけれども、本当にここは鳥が多いなぁ。




しばらく遡ると、やがて沈下橋がみえてきた。増水時には水に沈んでしまう簡易な橋である。

幅は1m少々くらいだろうか。自動車は通れないが徒歩または自転車なら渡ることが出来るという程度のシロモノで、やや前世紀的な構造物ではあるけれど大橋まで迂回しなくても川を渡れるため、今でも生活道路や通学路として使われている。



どうやら昨日の雨で水を被ったようだが、ここを通れば川の真ん中まで行くことができる。果たして、砂鉄は見られるだろうか。




そんなわけで歩いて渡ってみよう。…おお、葦原を抜けて真ん中までくると、なんだか視界がよく効いてイイカンジではないか♪




このあたりが水流域の中央付近である。驚くべきことに、遠目ではよく分からなかったけれども水深はおそろしく浅い。せいぜい数十cmといったところで、これならその気になればジャブジャブと歩いて渡ることもできそうだ。




調子に乗って砂州に下りてみた。水深は深いところでも50cmを越えるところは無さそうに思える。川底には石はなく、そのすべてが砂である。水の流れは非常に穏やかで、いわゆる水音というのはほとんどしない。…噂には聞いていたけれども、斐伊川というのはこんな川だったのだなぁ (´・ω・`)




せっかくなので、その砂をひとすくい。挿し木をやっている植木屋さんの喜びそうな(? ^^;)直径3~5mmくらいの荒目の砂に、細かい砂礫がいくらか混ざっている。白っぽいのは石英とか長石で、花崗岩の主成分だ。




少し水深のある川底には、波のような砂模様が無数に刻まれていた。飛行機で上空から見下ろしたら面白い造形が見られそうだ。…ただ、砂鉄の堆積らしいものは、どうやら見られない。




しばらく川を眺めてから、ふたたび葦原をぬけてクルマに戻った。砂鉄の自然堆積を見るなら、もうすこし上流に行ったほうが良いのかもしれない。

鉱物の書物を紐解くと、石英や長石の密度は 2.7g/cm3 前後で、鉄の密度は 7.9g/cm3 とある。つまり、ざっと3倍ほども重さが違う。水流による自然の比重選鉱があるとすれば、軽い石英や長石はより下流域まで運ばれやすく、重い鉄は途中で沈んでしまう筈だ。どこかにきっと、砂鉄が堆積するのにちょうど具合のよいところがあるに違いない。


<つづく>