2013.03.21 鉄と日本刀を訪ねる:出雲編(前編その2)
■ 砂鉄を辿る
さて引き続いて砂鉄を求めてゆるゆると斐伊川を遡っていく。わざわざ出雲までやってきてこんな観光案内を完璧に無視した暇人探訪をするのもどうかとは思うのだけれど(笑)、まあこれも道楽なので細かいことは気にしない(^^;)
そんな訳で河口からおよそ7kmほど遡って、西代橋の付近までやってきた。河口からの標高差は約5mで、ここまでほとんど勾配らしい勾配は無い。
斐伊川は相変わらず川幅一杯に平坦な砂地が広がって、浅い流れが音も無くそれを覆っている。水深はやはり数十cm程度しかない。
…が、よく見ると、その川底になにやら黒いものが見える。
おお…砂鉄だ! ヽ(・∀・)ノ 砂に混じって、確かに黒い砂鉄が堆積しているではないか。
比重選鉱の理屈から言えば、川の流れによって軽い長石や石英の砂礫はどんどん下流側に流されていき、重い砂鉄は早い段階で沈んでしまうことになる。下流側では見られなかった砂鉄の沈殿が、わずか7kmとはいえ遡ることで見えてくるというのは、まさに天然の比重選鉱の結果に他ならない。模式図で表現すればおそらくこのような(↑)現象が起きているのだろう。
これには、年間を通して安定した水量が比重比1:3の粒子を分別するのに必要十分な速度で流れていることが必要になる。あまり急流だとすべてがまとめて流されてしまうし、流れが緩やか過ぎると砂礫を流し去ることができなくなる。斐伊川は、おそらく地形的にそれがちょうど良い具合でバランスしているのだろう。そして大きな石がゴロゴロしているのではなく、軟らかい砂地が一面に広がっているという河床状況が、砂鉄の回収作業を容易にしていたに違いない。
この分なら、もっと上流側に行けばさらに砂鉄の滞留が見られれるような気がする。車道が堤防から降りてしまったので水面を目視しながら遡るわけにはいかなくなったが、まだ上流域にいくつか橋があるのでそれを追いかけつつ走っていくことにした。
道すがら農地側からみる斐伊川は、堤防の向こう側で天井川となって流れていた。人が手を加えなければきっとあのだだっ広い砂の原っぱが一面に広がり、浅い水の流れが無定形に蛇行して流れるような、そんな平野が広がっていたことだろう。
■ 神立橋
さて川沿いにずんずんと進んで、神立橋付近までやってきた。神立とは毎年神無月(出雲では神在月)に出雲に集う神様達が、会合を終えてそれぞれの鎮座する土地に帰っていく旅立ちの場所とされるところだ。近くにある万九千神社が神様の別れの宴を開くところのようなのだが、今回は日本刀がテーマなのでそこはチェックしていない。
ここは河口から13km、標高は海抜10mほどのところで、山間部を抜けてきた斐伊川がちょうど出雲平野の平坦部に出たばかりという地勢にある。ここから上流域に入ると勾配もややきつくなって川の流れが速くなってくる。言い換えれば比重選鉱エンジンのギアチェンジが起こるのがこの付近と言っていい。
橋から上流側にむかって目を向けると、中国山地の山々がもう目前に迫っており、しかし相変わらず川の風景は広々とした砂地の広がる平坦な地形となっていた。
ちなみに向こう側にかかる鉄橋は山陰本線である。こういう風景は鉄道マニア + 和鉄マニアの人にとっては垂唾の的に違いないのだが、ストライクゾーンとしてはちょっと狭すぎる萌えどころといえるかもしれず、筆者にとっても少々微妙な感がしないでもなくもない(ぉぃ)
それはともかく、ここから見る斐伊川の川底には、真っ黒な砂鉄が非常に明瞭に堆積していた。やはり重い砂鉄は比較的上流域で沈んでしまい、軽い砂礫ばかりが下流側に流されていくという傾向がよく見える。
黒い帯状の砂鉄は、そこかしこの川底に広く堆積している。
それも人が何かの手を加えた訳ではなく、自然にこんな状況になっているというのだから驚きだ。これだけ明瞭に黒い帯が現れるなら、きっと古代人も砂鉄の存在をたやすく見つけることが出来ただろう。
橋の上から眺めていると、水流によって軽い砂礫が流されていき、重い鉄が残っていく天然の比重選鉱の様子がよく見えた。 なお写真では砂の上に黒い砂鉄があるように見えるかもしれないが、実際には砂鉄の方が下に沈んでいて、その表面を砂礫が流れている。表面の砂を取り除いたら、そこには真っ黒な砂鉄の層があるのだ。
※ムービーはPLフィルターのない安物コンデジで撮っているので、水面反射で川底が白っぽく見えている。このへんはご愛嬌ということでお許しいただきたい(^^;)
さて見れば橋の袂(たもと)には砂地を利用したちょっとしたグラウンドがあり、河原に降りられるようになっていた。これは天啓(?)…とばかりに、筆者は野次馬根性で川辺に降りてみた。砂鉄を間近で見てみたくなったからだ。
ほんの川べりの小さな流れの中にも、砂鉄は潤沢に沈殿している。そして手を伸ばせば、簡単に触れることができるのである。塩粒などよりももっと細やかで、小麦粉よりは荒いという程度の、黒くて重い、不思議な粉末である。
ためしにPETボトルで掬(すく)ってみると、簡単に採取することが出来た。100円ショップで小さなチリトリでも買ってきてジャコジャコやれば、もう少し効率よく取れるかもしれない。
単に掬い取るだけでは砂粒が結構な割合で混在してしまうので、純度を高くしようと思えば砂金採りの要領で流水の中でシャクリながら軽い石英や長石を流すような作業が必要となるだろう。昔の人は川舟で砂鉄の溜まっているところに乗り付けて、鍬のような形をした専用の道具で砂鉄をジャコジャコやりながら回収した。もう少し上流域では、人工的に水路を設けて砂鉄を含んだ砂を流し、自然の川で起こっている比重選鉱をもう少し効率よく行う仕掛けを作ったりもした(→鉄穴流しという)。
いずれも、現代では採算が合わなくなって殆ど行われなくなったけれども、しかし斐伊川の流れは今もそこにあり、砂鉄は黒く沈殿している。やる気と暇さえあれば、和鉄の材料は今でも集めることが出来るのである。
ただし花崗岩の砂に含まれる砂鉄の含有量は、重量比でわずか1%程度でしかない。圧倒的に大量の砂の中に、ほんの少し "塩胡椒少々" といった感じで含まれるのが砂鉄なのであり、地下資源の質ということであれば鉄鉱石よりも格段に部が悪かった。
しかしここが面白いところなのだが、水流で行う比重選鉱で砂鉄の純度は90%以上にまで高めることが出来、たたら製鉄(還元反応)に入る前の原料段階で十分実用的な "濃縮" は可能だった。この1%の鉄を得るために99%の砂を流し去るという恐ろしく非効率的なアプローチは自然の河川だからこそ成立した方法論といえそうだが、その副産物として出雲の人々は下流域での広大な砂の平野の出現と、天井川と化して氾濫のおこりやすい斐伊川を管理するという治水上の課題を抱え込むこととなった。そういう風土の中で、和鉄というのはつくられてきたのである。
<つづく>