2013.03.22 鉄と日本刀を訪ねる:出雲編(中編その6)




■ 比田 ~鉄の神の降臨した場所~




吉田を出てからは、r269 → R314 → R432 と山間部をクネクネと抜けて、奥出雲町と安来市の境界付近を目指していく。 製鉄の神様である金屋子神を祀った 「金屋子神社」 を見るためだ。




途中、仁多の道の駅を横目に通過。ここは日本酒が旨いのだそうで、道行くドライバーに気前よく酒を振舞っているらしい。…ふむ、所変わればサービスも変わ…え?(^^;)




やがて久比須峠を越えて安来市の領域に入ったところで、旧広瀬町にあたる比田という小盆地が現れる。奥出雲町との境界がちょうど分水嶺になっていて、奥出雲町側が斐伊川水系、安来市側が飯梨(いいなし)川水系となって分かれている。

ここから左に折れると、金屋子神社に続く長い参道があらわれる。金屋子神社があるのはこの飯梨川水系側で、源流部で分岐する沢筋のひとつの最上流にあたっている。




ちなみにこの飯梨川が中海に注ぐところが安来(やすぎ)港である。ここは古来から出雲の鉄の最大の積出港であった。観光案内書だけでイメージを膨らませてしまうと、砂の川のヴィジュアル的なインパクトと出雲大社効果で 「砂鉄=斐伊川」 という印象をもってしまいがちだが、古代製鉄の立ち上がりは島根県と鳥取県の境界付近(=分割前の旧出雲の中心)のほうが早く、産業としての製鉄(特殊鋼の生産など:具体的にいうと日立金属(株))が生き残っているのもこちらの地域になる。

金屋子神社は、そのかつての鉄の都から飯梨川を遡った源流部にある。ここにそびえる船通山の周辺は古代製鉄の遺跡が多く、奥出雲町の横田、安来市の比田の周辺はその代表的な分布域である。地勢からいって、山砂鉄を使う製鉄のノウハウは、ここで育まれたのだろう。

※伯耆国(現・鳥取県)側の砂鉄の川である日野川もやはり船通山に源を発しており、スサノオ降臨神話と併せて考察すると仲々面白そうな気がする(^^;)




さてそんな訳で盆地の底から参道に入った。現在は道路拡張工事の影響で旧参道入り口にあった鳥居が100mほど南側に寄っているのだが、気にしないで進もう。ひとまずここからが、鉄の神様の神域ということになる。




付近は地図でみると単純な傾斜地のような印象だが、実際にはえらく細かい棚田の連続である。近代的な区画整理の匂いはあまりなく、地形の起伏に合わせて不定形の畦(あぜ)が縦横無尽に重なっている。こういう風景は、水のある季節にはきっと美しく映えることだろう。




地元に伝わる古い伝承では、ここが出雲の製鉄の発祥の地ということになっているらしい。製鉄の神である金屋子神はこの比田に降り立って自らが初代の村下となり、製鉄の技術を人々に教えたと言われている。

ここに広がる棚田は現地では鉄穴田と呼ばれていて、鉄穴流しによって消滅した山の跡地を耕地化したものだという。段丘があまり整然とした地形になっていないのは、硬くて崩しにくいところは避けて残したため綺麗な平坦地にはならなかった…というオチによるものらしい。




ためしに3Dマップに起こしてみると、確かにいかにも昔は山だったところが掘り崩されたような起伏具合を呈している。所々に残っている削り残しの部分は "鉄穴残丘" といって、崩しにくい硬い地盤の部分が残されたものだ。

…それにしても、こりゃ途方もないスケールの産業遺構だな。 もしかすると奥出雲という土地柄は、"日本最古にして最大の露天掘り鉱山" という切り口で理解するべきなのかもしれない。




ただ残念(?)なことに、最近の研究では物量的に鉄穴流しが盛んに行われるようになったのは室町時代後半から江戸時代の頃とされていて、それに従えばこの付近の山が消失した時期も案外新しいのかもしれない。

比重選鉱というのは原理が単純で、川底に溜った砂鉄を掬う作業を幾たびか経験すれば、鉄穴流しの手法は誰でも思いつきそうなものだ。しかし 「思いつく」 のと 「実際に山ひとつ崩して実践する」 の間には相当な隔たりがある。川砂鉄で用が足りている間は、山砂鉄を採ろうなどとは思わなかった可能性だってある。

そうすると、原初の金屋子神社はこんな開けた農地ではなく、もっと山深い谷筋の奥にあって、自然に砂鉄の堆積していた小さな淵の脇あたりにあった…と思えば良いのだろうか。それはそれで、趣があって良さそうな気がするけれども(^^;)



 

■ 金屋子神話民俗館




やがて人家が尽きる頃、神社の手前で金屋子神話民俗館がみえてきた。




・・・が、せっかく期待してきたのになんと
閉鎖中(ぉぃ) ヽ( ̄▽ ̄)ノ

うーむ、田舎の施設はこういうことがあるから侮れない。…というか、オフシーズンには展示館の営業が成立しないほどの過疎状態ということなんだな(^^;)




あたりには鉄の神様の御神木である桂の木が多い。さきほど訪れた吉田では花が咲いていたけれども、ここではまだ開花には至らず、どうやら気候的にはここは吉田よりは幾分寒いらしい。




それでも隣接して植えられている梅の花はイイカンジで綻(ほころ)んでいる。いずれも見頃はこれからで、神話民俗館の営業が再開する頃(→1週間後)には、梅と桂の花がちょうど良い具合に重なりそうな雰囲気ではある。

…そんな訳で、来週ここを訪れる方には幸あらんことを♪




 

■ 金屋子神社




ではいよいよ金屋子神社に足を踏み入れてみよう。ここは製鉄、鋳物、刀鍛冶など鉄に関わる職業の守護神としては総本山的な地位にある神社だ。金屋子神を祀る神社は中国地方を中心に1200を超え、神様業界のビッグネームである八幡神社の4万4000社、稲荷神社の3万2000社に比べれば桁はひとつ小さくなるけれども、それでも特定業界に密着した守護神としては大きな勢力をもっている。

自動車道路が作られる以前は、町地区から伸びる参道が延々2kmほど続いてこの神社が終着点であった。標高は420mあまり。ちょうど飯梨川の源流が湧き出す位置にある。




駐車場脇には駅の売店ほどの小さな土産物店があるのだが、神話民俗館と同様に営業はしていない。そのまま鳥居をくぐって、参道を進んでいく。




参道の脇には、小さな沢が流れていた。この流れが比田盆地の中で幾つか習合して飯梨川となり、安来の市街地方面に流れ下って中海に注いでいる源流のひとつである。さきほど見た段々畑を潤しているのもこの水の流れだ。




…そしてそこには、水の流れの底には、やはりあの "砂" が堆積していた。出雲を流れる砂鉄の川はなにも斐伊川だけではない。こんなところにも、天然の比重選鉱装置がしっかりと機能しているのである。つまりここは、砂鉄が採れる場所なのだ…!!ヽ(・∀・)ノ




境内には古い時代に吹かれた鉧が奉納されてずらりと並んでおり、仲々に壮観であった。かつては年末になるとその年の最後に吹いた鉄を備えて祈る習慣もあったそうで、弥生文化の上に成り立っている一般的な五穀豊穣系の神社と比べると、そのありようはとてもユニークだ。




その鉧をアップで見ると、こんな感じになっている。野ざらし状態なので表面は錆が進行し、さらには苔むしたりしているけれども、ひとつひとつは2~3トンほどもあり鉄塊としてはまだまだ朽ちる感じはしない。これらのうちのひとつは年代測定がされていて、作られてから400~500年ほど経過しているそうだ。




表面から剥がれ落ちた鉄片を拾ってみると、銑鉄に近い部分らしく、錆びの赤色と、炭の残渣らしいものが取り込まれている様子がみえた。なんとも生々しい、人と神の共同作品である。




神門が見えてきた。右側にみえるのは神木の桂の木である。



 

■ 拝殿




神門をくぐって、金屋子神社の拝殿前に上ってみた。なかなかどっしりとした重厚な社殿がある。このアングルでは見えないが、奥側の本殿は出雲大社と同じ造りになっている。

地域によっては刀鍛冶の奉ずる神様は多少の揺らぎがあるのだが、概ね金屋子神(もしくはその姿を転じた化身)の系列に属する。西日本ならまず金屋子神が多数派であろう。




オフシーズンのせいかこの日は人影はまったく見えなかったが、もう少し暖かくなって例大祭(4/21)の頃になると鉄鋼メーカーや刃物職人など業界の人々が多数集まってくる。金屋子神の御利益は鉄に限らず銅でも銀でもアルミ(!!)でも霊験あらたかとされ、世界遺産の石見銀山でも祀られているのは金屋子神である。ただあらゆる金属生産量のなかで鉄鋼の占める割合は95%と圧倒的なので、営業内容を多角化(笑)した現代にあっても 「鉄の神様」 という理解でほぼ間違いはない。

昔は博徒なども全国から集まった。何故かというと春と秋の例大祭の際には、祭りを挟んだ30日間が賭博解禁の期間になったからだ。江戸幕府でも明治新政府でも賭博は法で原則禁止されていたが金屋子の祭りの期間は例外で 「公許だから」 という理由で神社周辺は大変な賑わいとなった(※)。民家が庭先を賭場として開放して寺銭(いわゆるショバ代)を得ることも多く、この収入で半年は食えたというから豪快な話である。

※境内に 「金儲け神社」 なる小祠があるのはこの博打と関係があるのかも…?(^^;)



さてこの本殿/拝殿は江戸時代末期の元治元年(1864)の築で、安政五年(1858)に火災で焼失したものを再建したものだという。

元治元年といえば明治維新まであと4年という風雲急を告げていた時代で、鉄の需要は非常に高く、出雲の鉄山はいずれも "超" のつく好景気に沸いていた。深い山中にある割に総欅(けやき)造りで装飾も凝っているなど、スポンサーである鉄山の経営の順調さが、豪勢な建物にも反映しているようだ。



灯篭には大阪の鉄問屋の刻印もみえる。江戸時代には出雲産の鉄は国内市場の8割ほどを占める独占商品に成長しており、安来港から北前船の航路に乗って大阪の市場に運ばれ、そこから全国に散っていった。こんなところにも商圏の広がりが伺えるというのは面白く、まさに和鉄の黄金時代を象徴しているといっていい。





さて江戸時代と言えば刀剣用の玉鋼が本格普及したのが江戸の中頃といわれる。「もっと古いんじゃないの?」 と思われる方がいるかもしれないが、安定した大量供給が行われるようになったのはやはり江戸時代に入ってからである。それまでは刀鍛冶自身が鋼に含まれる炭素量を自前で調整して刃物にちょうど良い組成の材料を作っていた(→卸し鉄/左下鉄)。また市場には中国や南蛮の輸入鉄が流通していて、市場は決して和鉄の独壇場という訳ではなかった。




それが大きく転換したのは徳川幕府による鎖国政策の始まった頃であったという。やがて輸入鉄の流入が停まり市場のほぼすべてが国産の和鉄に置き換わっていったのだが、このとき出雲の製鉄業は設備の大型化と原料供給が自己完結できることで競争力を発揮して一気にシェアを奪いにいったらしい。

なかでも特に効いたのが "炭の調達コストの安さ" による価格競争力だったそうで、もちろんこれは鉄の大旦那が広大な山林を所有して自己完結性を備えていたのが大きい。そしてこの販路の拡大にあわせて、出雲産の良質な刀剣材料=玉鋼の供給も全国規模で広まった。現在の日本刀の基本的な作り方は、この頃の手法を踏襲している。(…というか、それ以前の時代のつくり方は詳細な資料がほとんどなく、刀身の分析結果から推定されているだけだったりする)




ところで前にもちょっと触れたが当時の鉄鋼生産のボリュームゾーンは銑鉄系にあり、いわゆる一般用途品の生産が多かった。刀剣用の玉鋼は生産量の1~2割くらいで、現在では "たたら製鉄" といえば玉鋼(鉧押し)というイメージが半ば固定化しているけれども、流布されたイメージと実態には結構な乖離がある。

どうしてそんなことになっているかというと、一般用途の鉄は明治時代以降に洋鋼/洋鉄ですっかり置き換えられてしまって、"和鉄" というカテゴリにおいては、他に替わるもののない用途=刀剣材料(玉鋼)の供給のほうにばかり注目が集まるようになったからだ。




そのあたりの事情を書きだすと長くなるので敢えて詳細は省略するけれども、ごく簡単に言えば明治の日本陸軍が当初はサーベルを正式な軍刀として採用し(→つまり一旦は日本刀を否定)、のちに戦闘経験の中から 「やはり日本刀のほうが実戦に向いている」 と評価を変えて、ついに昭和に入って太刀を模した軍刀を採用するに至ったことが大きい。その過程で、いったんは消えかけた玉鋼の生産を復活する動きがあり、日中戦争勃発の前後にさかんに冶金的な研究が為された。だから昭和一桁~十年代くらいの研究資料は潤沢で、現在でもよく参照されているのである。

そしてもうひとつ…こちらはやや無責任な話だが、やはり日本刀には精神性からくるロマンがあるというのが大きい(^^;) 筆者はミーハーなので専(もっぱ)らこちらの切口から眺めていたりするのだが♪

※玉鋼は大砲の砲弾の材料としても使用されたので刀剣用途に限らないのだが、話がややこしくなるのでそっちの話はカット(^^;)



 

■ 金屋子神について




さてここで、神社の主(ぬし)である金屋子神についても触れておかねばならない。

この鉄の神様は、伝説によると播磨国(現在の兵庫県)から白鷺に乗って飛んできたという。神社に伝わる古文書 「金屋子祭文雲州比田之伝」 の記述によると、神は最初に雨乞いに応えて播磨国の岩鍋(岩野辺)に天下り、雨を降らせ、また磐石をもって鍋作りを教えたという。しかし此処には住むべき山がなく、我は西方を司る神なれば西方に行かん、と言い残して飛び去った。

そして次にこの比田の山林に舞い降り、桂の木で羽を休めているところを、たまたま狩りに出ていた安部正重(金屋子神社の宮司の祖先)なる人物に見出されたという。桂の木が神木とされるのは、このためである。




この神様の飛来元の "岩鍋" は現在の地名で言うと兵庫県宍粟市千種町岩野辺に比定されている。鉄の文化圏としては備前に近く、本レポートの備前長船編でちょこっと触れた初期の岩鉄系たたらのテリトリーに入る。伝承における "磐石をもって鍋作りを教えた云々…" のくだりが、鉄鉱石を用いたたたら製鉄と鋳物作りを意味するのだとすれば、歴史経緯とも符合してなかなかに面白い。




しかしやがて出雲の比田に現れた金屋子神は、磐石(鉄鉱石)ではなく砂鉄を原料にした製鉄を教えていくことになる。歴史ミステリー的な謎解きを試みるとすれば、かつて鉄鉱石をベースにした技術をもって渡来した製鉄の民が、日本の環境に合わせて創意工夫を重ねながら中国山地を移動して行き、やがて砂鉄を原料とした製鉄ノウハウを獲得して、出雲の山中に定着した…と考えるとすっきりする(※実際にそういう説がある)。



その金屋子神は、女性の姿をしていた。出雲の鉄師たちの仕事場には金屋子神の姿を写した絵図がいくつも伝わっているのだが、その多くは女性の姿である。上の図は掛軸に多くみられる様式で、金屋子神がたたら製鉄の炉を守護している様子を表している。

言い伝えによれば、彼女はたいへんなヤキモチ焼きで、なおかつ気難しいとされている。他の女性が仕事場に入ってくることを極端に嫌うとされ、そのため鉄を吹いている間は、村下の妻は化粧もせずに地味な姿で神様の機嫌を損ねないよう過ごしたという。

興味深いことに、製鉄のノウハウ…とくに安全に関わる注意事項(禁忌)などは、この神様が嫌う行為だからしてはいけない、という形で代々伝承されている。いわば神様の性格そのものがマニュアルとなっていて、信仰をよく守る村下は良く鉄を吹き、守らない村下は事故の憂き目に遭った。

※写真は島根県立古代出雲歴史博物館 「たたら製鉄と近代の幕開け」 展示図録より引用




また彼女は普通の神様とは違って死の穢れを好み、鉄がうまく吹けないときはたたら場の柱に村下の死体をくくりつけておくと巧くいったとも言われる。金屋子信仰のテリトリーの中では、この話は非常に普遍的に語られている。集落によっては村に死人が出ると棺桶をたたら炉の近くで作ったり、葬列がたたら炉の周囲をぐるぐる廻ってから墓所に向かうなどの習慣もあったそうだ。

※写真は島根県立古代出雲歴史博物館 「たたら製鉄と近代の幕開け」 展示図録より引用




ところで彼女の姿にはいくつかのバリエーションがあり、単独で描かれる場合には狐に乗った姿であることが多い。これは密教に出てくる荼吉尼(だきに)天のモチーフにちかく、わかりやすく言えばお稲荷さんのイメージと重なっている。(※稲荷の神様はキツネではなく、そのご主人様である荼吉尼天である)

このへんのつながりは神仏習合についての基本知識がないと何がナンだかわからなくなってしまうかもしれない。いずれにしても密教(山岳仏教)の要素がかなり色濃く反映した信仰であることは確かで、女性神という切り口でみれば天照(アマテラス)信仰の片鱗のようなものも感じなくはない。

ただ彼女の名は、大和朝廷の物語=記紀神話には一切登場しない。記紀神話の鍛冶の神は金山彦/金山姫、あるいは天目一箇神であって、現在では金屋子信仰と混ざり合って同一視されているけれども、元は別々の系統の神であったとする指摘が古くからある。大和に飲み込まれる前の古代出雲の信仰が形を変えて残っているとすれば、とても面白いと筆者は思う。

※写真は 「玉鋼の杜 金屋子縁起と炎の伝承」 (安部正哉/金屋子神社/1985)より引用



 

■ 金山彦? 金山姫? 金屋子? 三宝荒神?




ところで現在の金屋子神社の主祭神名は、実は金屋子神ではなく、金山彦命、金山姫命の二柱になっている。神社の名前が 「金屋子神社」 なのに金屋子神が祭神でないことにツッコミを入れる人は多いようで、いろいろな説が入り乱れている。




こういうときには本家の中の人がすっきりと説明をするべきなのだが、事はそう簡単ではない。古書店でみつけた宮司さんの著書 「金屋子縁起と炎の伝承:玉鋼の杜」 (金屋子神社/安部正哉/1985) によると、幕末の安政五年の火災で古文書の一切を焼失してそれ以前の状況が不明であると書いてあり、実は本家の中の人も明確な説明が出来なくなっているのである。

※この本の著者の宮司さんは、神社の家系に育ちながらも定年まで家業には就かず公務員として過ごし、老齢になられてから神職となった。宮司を継いだときには既に先代は故人となっており、ここで口伝情報の多くが断絶してしまっている。この書物を刊行したのも、当時集められるだけの資料、学説などをなるべく原形のまま後世に残したいという意図によるものらしい。




筆者は一通り拝読させて頂いたのだが、いくつかの諸説を併記してはいるけれども決定的にこれだという内容は書いていない。まあこれについては、神社の歴史の継承をミスった宮司さんを責めても始まらないのでそっち方面のツッコミは控えよう。なにしろ和鉄は明治時代以降斜陽産業であったし、戦後GHQの占領を受けていた時代の日本では、刀の製作はおろか所有までもが全面禁止されていた。そんな時代性を考慮すれば氏が宮司を継がずに別の職業に就いたことはある意味では自然な選択ともいえ、定年後に神社に戻ってきてくれただけでも有り難いと思わねばなるまい。




そんな訳で、現在の金屋子神社の原初の状況は、代々の村下たちの伝えた製鉄技法や、出所の曖昧な言い伝え、或いは考古学的な発掘資料の中からくみ取るしかないというのが実情なのである。

筆者的には、金山彦/金山姫の登場は江戸時代、太政大臣であった九条尚実(1717-1787)がタネを撒き、明治維新時の廃仏毀釈で主客逆転があった結果ではないだろうか…と素人推測している。(※以下はあくまでも推測なので話半分でナナメ読み願います ^^;)



九条尚実は後桃園天皇(1758-1779)の元で関白、光格天皇(1771-1840)の元で摂政+関白+太政大臣を務めた江戸時代中期の朝廷の重鎮である。その九条尚実が何らかの経緯があって宝暦三年に金屋子神社に直筆の額を下賜したのだが、ここに "金山彦尊" とデカデカと書いてしまった。理由はご本人に聞かないことにはわからないが、朝廷を支える五摂家の立場としては記紀神話に登場しない "野良神" の金屋子神ではなく、金屋子神と同一視されていた金山彦命 (→こちらは記紀神話に登場し、朝廷の神名帳にも載っている鉱山の神である) を採用するのが適当と判断したのかもしれない。

※金山彦命に仏教表現である "尊" が付いているのは、九条尚実が真言密教の僧籍から還俗して九条家を継いだため、思想的な軸足が仏教側にあった影響のような気がする(^^;)




それを理解するための複線としては、さきほども触れた密教の浸透を認識しておく必要がある。神様の読み替えというのは古代から中世にかけての仏教勢力がやりたい放題(?)に宗教的ショートカットを張りまくってかなり混沌としており、金屋子神は "炎" の属性でいくつか姿を転じている。金屋子神社の古い掛け軸には三宝荒神(↑)の姿をとる金屋子神も書かれているのだが、この神は仏・法・僧の三宝を守護するとされ、不動明王に似た憤怒形の仏教系護法神の一種であった。こういうのは実に密教好みの姿といえる。

そしてこの三宝荒神の別の姿(化身)のひとつに、"金山彦尊" がある。非常にややこしいのだが、密教を切り口にすると実は全部裏側でつながっていて、昔TVで放送していた愛の戦士レインボーマン(古っ ^^;)の七変化の如く、外見は異なるけれど実は着ぐるみの中の人は一緒なのである。

こういう背景があったところに、時代が下って明治維新が起こり、神仏分離と廃仏毀釈の嵐がやってきた訳だが、ここで仏教的な要素がバッサリと切り捨てられ、いくつかあった金屋子神の "神道としての姿" のどれを正式に採用するかという話になったとき、最も当たり障りのない姿として記紀神話に登場する 金山彦命+金山姫命 が選択されたのではないか。…少なくとも、いまのところ筆者はそんなあたりに最大公約数的な解があるのではないかと推測している。

※この神様の別の姿(化身)には八幡神も名を連ねており、その本地は文殊菩薩とされている。ここまでくるとさすがに 「お前の正体は何なんだよ!」 と言われても仕方がない気がする(^^;)



ではそんな変幻自在の神様の原初の姿はどうだったかというと、筆者はやはり女性神が本命だったのではないかと思っている。宗教施設としての神社の他に、金屋子信仰にはたたら製鉄の現場で代々口伝で伝えられてきた系列の言い伝えがある。神社本体は火災に遭って資料を焼失しているけれども、いくつもあった "たたら場" で言い伝えられてきた共通するエッセンスはそう簡単には失われない。そしてその姿は、揃いも揃って女性神なのである。




出雲のたたら製鉄の工程の一切合切は、この神様が女性であることを前提とした作法や理屈付けで構成されている。

その一例を挙げるなら、たとえば化粧池の存在がある。さきほど見学した菅谷の高殿では工事中につき水が抜かれてしまっていたけれども、たたら場には金屋子神のために化粧用の鏡の代わりになる池が備わっている。憤怒の相をもつ三宝荒神がここでナルシスティックにメークをする姿はちょっと想像しにくい(笑)




面白いことに江戸時代中期に書かれた金屋子神祭文(鉄山秘書)を読むと、神前で唱える一連の祭文の中には金山彦、天目一箇神、金屋子神の名称がいっぺんに入っていて統一感が全然無いのだが、神が自分の名を名乗る場面(播磨降臨、出雲降臨)はいずれも金屋子神を名乗っており、また最後に民衆が神を祀る場面でも 「神徳代々に礙(さわり)無く、金屋子神と崇敬奉る」 となっていることから、あくまでも金屋子神の名称が中核であることがわかる。金山彦神、天目一箇神の名称は添え物のようにちょこっとオマケで出てくる別称に過ぎず、脇役もいいところで、金山姫に至っては一言も触れられていない(^^;)




それを含んで神名の入れ替わりの時期を考察すると、やはりどうしても明治維新に行き当たる。日本全国で神様の読み替えが大々的に行われたのが神仏分離+廃仏毀釈のときで、このときは八坂神社のように元は仏寺だったものが神社に鞍替えしたとか、春日大社のように興福寺の仏僧が一斉に神職に転職して移籍したなどの事例が続出した。

金屋子神社は仏寺ではなかったから、三法荒神など仏教系の要素をひっこめれば特に大きな変更はしないでも済んだはずなのだが、しかしこのときあの九条尚実(関白、太政大臣)の置き土産=金山彦尊の額が遅行性薬物のようにじわりと効果を及ぼしたのではないか。



 

 ■ 背後にみえる藤原氏(九条家)の影




この九条家(藤原氏)の及ぼした影響は、実は結構深そうである。

分かりやすい事例では金屋子神社の社殿にある下り藤の紋にそれがみえる。これは金屋子神社の紋ではなく、なんと藤原氏(=藤原北家 → 九条家もその一族に当たる)の家紋なのである。これ以外にも御神灯にこの紋の付いたものが寛文二年(1662)に九条家から奉納されていて、つきあいが相当に古かったことが見て取れる。(火災がなければもっと色々な奉納品が残ったかもしれないと思うと非常に惜しい… ^^;)




金屋子神社の本来の神紋は菱井桁に橘(たちばな)で、本殿の屋根にはこの紋が付いている。つまりここでは本殿=金屋子神の紋、拝殿=藤原北家の紋となっていて、こういう状況はよほど縁起の深い関係になければ普通は生じない。




そう思ってこの神社のある比田の支配権を遡っていくと、嘉元三年(1305)頃の荘園一覧:摂籙渡庄目録に京都の平等院の荘園であったことが記載されている。平等院 (一般的には十円硬貨の鳳凰堂ばかりが有名だが ^^;) は冷泉天皇から不輸/不入の権を認められて以降、藤原氏の荘園運営の中核的な位置にあって、ぶっちゃけた言い方をすれば "官憲の取り締まりの及ばない非課税天国" であった。その荘園のひとつがこの鉄の王国にあって、平安~鎌倉期の藤原氏の財力を支えていたのである。

しかし時代が下って戦国乱世に突入すると、出雲の一帯は尼子氏、毛利氏の争う地となり、松江藩が成立して以降は堀尾氏、京極氏が相次いで入部、最終的に松平氏の所領となって幕末まで続くこととなった。かつてわが世の春を謳歌した藤原氏はこの過程で荘園の大部分を失い、摂政/関白を独占する五摂家(※)でさえ没落して、その経済規模は中程度の旗本レベル=2000石ほどに縮小した。時代の移り変わりとはいえ、まさに諸行無常の有様といえる。

※五摂家:藤原氏の中核となった北家のなかでも家柄の高い近衛家、九条家、二条家、一条家、鷹司家を五摂家と称し、朝廷の官位の頂点である太政大臣、および天皇の政務を代行する摂政/関白はこの五摂家から選ばれた。藤原一族の長である藤原長者もこの五摂家から選ばれる仕来りだった。




しかしそれでも彼らは名門貴族としての格式の高さは保っていたので、中世の皇室とそっくりの権威ビジネス=額文字などを有力寺社や諸大名に下賜してはおひねりを頂く(…もうすこし上品な言い方があれば良いのだが思いつかない ^^;)という行為は度々行われた。こういう錬金術は、彼らはとてもうまい。

先の九条尚実が活躍した宝暦年間の前後を調べると、出雲の松江藩では藩主 松平治郷 (号名:不昧) が製鉄で儲けた財力を茶道につぎ込んで放蕩三昧をしており、札束パワー(?)で上方の公家たちと盛んに交流を深めていたことが記録に残っている。…もしかすると、金屋子神社に下賜された額は、この製鉄マネーに対する応礼のひとつだったのかもしれない。

いずれにしても、貧窮しているとはいえ名門貴族からの下賜品があるということは、神社のステータスとしてはこのうえもなく高いものであった。当時決して上品な存在とは見られていなかった "たたら者" の人々にとっては、なおのこと燦然と輝いて見えたかもしれない。




そして時代が下って幕末、当時の九条家の当主=九条道孝は新政府側に付いて、戊辰戦争では奥羽鎮撫総督として東北地方に自ら出陣し、維新後は勝ち組の名誉職として明治天皇の麝香間祗候(相談役)に収まった。王政復古の世相では、かつての平安貴族は華族と名をあらため、幾分控えめながら爵位をもった身分となった。九条家は侯爵である。

そういう中で行われた神仏分離令に於いて、金屋子神社は判然した祭神の名を、九条尚実の額の通り金山彦命として神祇省に届け出た。…このとき一緒に申請された "金山姫命" が、あるいは本来の金屋子神の姿だったのかもしれないが、いまとなってはよく分からない。




そして神仏分離/廃仏毀釈の嵐が過ぎ去ったのち、明治政府の官僚の手が及ばない秘密の空間……たたら製鉄の技術伝承の中にのみ、古い信仰の姿がほぼオリジナルに近い形で残った。

…それが、現代に伝わる女性の姿をもった金屋子神なのではないかと筆者は思っている。
 



…さてここから藪の中をしばらく進むと金屋子神の降臨したとされる峰に行けるらしいのだが、藪が深そうなので登頂は断念。もう午後もいい時間なので、そろそろ横田に向かうことにしよう。


<つづく>