2013.05.25 那須殺生石:御神火祭 ~玄翁和尚の周辺~(その2)







やがて日も暮れて、気温も下がってきた。5月も下旬とはいえ標高900mちかい殺生石では夜間は5℃以下に下がることも珍しくない。祭りを見物するにもある程度の防寒具は必要である。




午後7時半を過ぎると、定刻どおり祭りのイベントが始まった。最初は地元の方々の那須音頭の披露からである。大松明に向かって並んでいると突然背後から踊りの列が現れるので少々驚くが(^^;)、細長い賽の河原の地形をうまく使いながら後ろの観客にも多少のボーナスステージが回っていくようになっている。




なお余談になるが今回はカメラ本体が Nikon D300 から 同D7000 になってISO6400 を標準感度として望んでいる。調子に乗ってISO25600まで上げるとさすがにノイズが目立ってくるが、技術の進歩はナカナカに侮(あなど)り難く、望遠目一杯でも手ブレは殆どない(^^;) 




さてやがて踊りが一段落すると、横笛の生演奏と共に九尾伝説の語りが始まった。



物語はいつもの如く鳥羽院と玉藻前のエピソードから三浦介、上総介率いる軍勢と妖狐の戦いへと話が移っていき、20分ほどかけて伝説の概要をなぞっていく。

以前はこの平安調の軍勢に倒されて毒石になったあたりで話が終わっていたような気がするが、今年は後日談である玄翁和尚が殺生石を打ち砕くところまで話を引っ張って伝説全体を俯瞰するような語りになっていた。…が、長いお話なので前半の内容についてはある程度以前の記事を参照して頂くとして、今回はこの後日談である玄翁和尚の周辺について書きながら、祭り風景の写真を並べていくこととしよう。

※写真はWikipediaのフリー素材より引用(作/葛飾北斎)


 

■玄翁(源翁)和尚について



さて玄翁(源翁)和尚は三浦介、上総介に討ち取られた九尾の狐が、殺生石に姿を変えて毒気を振りまいているのを済度して打ち砕いたとされる人物である。

打ち砕かれた殺生石の破片は日本各地に飛散(※)したと言われ、それぞれの落下場所でさらなるサイドストーリーを生んでいくのだが、この故事をもって大工道具の金槌を 「玄翁」 と呼ぶようになったというのはあまりにも有名なエピソードだろう。

※飛び先には様々な説があって実は一定していない。曹洞宗の寺院には結構多い(^^;)




玄翁(源翁:1329-1400)は曹洞宗の僧で越後国の出といわれる。謡曲や能などではさすらいの旅路の途中で偶然殺生石の前を通りかかったような描かれ方をしているが、実は彼は当時はまだ新興宗教(伝来して100年少々)の香りをのこす曹洞宗の勢力拡大のため日本各地に寺を建立しまくったエヴァンジェリストであり、那須はその活動域の中にあった。

彼の伝道活動は曹洞宗本山であった総持寺から始まって、29歳の頃に鳥取で退休寺を建立したのを皮切りに、のちに活動域を主に東日本に移して玄通寺、海蔵寺、安穏寺、泉渓寺と次々に寺を建立しながら関東地方を北上し、その後奥州に入って喜多方に拠点を構えた。ここから奥州方面の教化に努め、常在院、慶徳寺、満願寺、示現寺、化生寺、正法寺、永泉寺、最禅寺など計30あまりの寺を開山して曹洞宗の勢力を大いに拡大したのち、最後は示現寺で亡くなっている。彼の開山した寺はさらにそれぞれの末寺を設け、曹洞宗の中でも玄翁派とよばれる一派を形成した。

彼が殺生石を "打ち砕いた" のは1385年のことで、年齢でいうと56歳の時である。このとき彼の活動拠点は喜多方にあって、那須は関東にある関連寺院との往来の途上に位置していた。玄翁和尚は曹洞宗のトップでこそなかったが、現在の感覚で言えば支店(末寺)をいくつも設立してマーケットシェアを拡大した切れ者の営業部長くらいの立ち位置にいたように思われる。



史実としては、玄翁は後小松天皇の勅命により那須殺生石の済度を行ったことになっている。済度とは迷える魂に仏法を説いて悟りの境地に導くことで、要するに施餓鬼供養のような行事を行ったということらしい。

御神火祭で語られる物語の筋書きでは玄翁は 「泉渓寺の住職」 という紹介のされかたをしている。泉渓寺は彼が開山した寺のひとつであり、済度のときの拠点寺である。当時は那須といえば現在の烏山から那須連山までの広大な領域(旧・那須国)を指し、その人口中心は烏山から大田原あたりにかけての南端部にあったから、少々距離は遠いけれども担当領域としてはまあ妥当なところであったように思われる。
(…というか、京都から見たら烏山の泉渓寺も茶臼岳山麓の殺生石も同じ "那須" で一括りに見えたに違いないのだが ^^;)



今回筆者は予備取材として泉渓寺(烏山)と示現寺(喜多方)で玄翁和尚の情報をいくらか集めたのだが、この時期に後小松天皇による勅があったのはどうやら事実であるらしい。

泉渓寺には殺生石供養を行った後に後小松天皇から授与された 「大寂院」 の勅額が現在でも伝わっているし、玄翁はこのとき勅特賜能照法王禅師源翁心昭大和尚の号も賜わり、泉渓寺にはこれを記念して勅使門を建て、これも現在、境内に残っている。つまり物的証拠が残っていて、さらにいくつもの文献で玄翁が殺生石を教化/済度したとする記述がみられるのである。




それを行った源翁の姿は、彼の開いた一連の寺で座像となってその姿を後世に伝えている。上記写真(↑)は泉渓寺に伝わる像で、取材時に拝見させていただくことが出来た。

※玄翁禅師座像は寺のご本尊である釈迦如来像の裏側に壁板一枚隔てて安置されており、普段は見ることが出来ない。像の手前にあるのは位牌ではなく後小松天皇から頂いた号である。




ただし現在では(特に簡略化された殺生石伝説に於いては)殺生石調伏の勅を出した後小松天皇の名前が物語の前面に出てくることは殆ど無い。この天皇の周辺にいろいろな事情が渦巻いていて、実はちょっとしたミステリーになっている。



 

■人皇百代、後小松天皇周辺の話




さてもう少し話を続けよう。後小松天皇は、足利尊氏が室町幕府を開いたときに南北に分立した朝廷が、ふたたび合一したときの北朝側の天皇である。南北朝時代とは簡単に言うと、鎌倉幕府崩壊から室町幕府成立にかけてのゴタゴタの中、互いに正統性を主張して2つの朝廷が並び立ち、60年あまりも対立していた時期のことをいう。大きな区分では室町時代の前半の一時期ということになる。

現在の宮内庁の正式な立場としては、皇統は "南朝側が正統" という立場で歴代天皇の世代がカウントされている。しかし政治的に勝利したのは北朝側で、このへんが南北朝という時代性をわかりにくくしている。
(※遺伝的には北朝も南朝も親戚関係で、皇室の血統は維持されている)




後小松天皇は在位の途中で南北朝の統一があり、正統印の付いた北朝で唯一の天皇という位置づけになっている。奇しくも神武天皇以来、ちょうど百代目にあたり、ここから現在の天皇に向かって皇統が伸びていくことになる。

ただし南北朝廷が統一されたのは後小松天皇自身の功績ではなく、背後にいた三代将軍:足利義満の強大な政治力/経済力/軍事力によるものだった。北朝の歴代天皇は結果的には勝者側のグループには入っていたものの、政治に関しては発言力は無いに等しく、後小松天皇もその例に洩れなかった。



こういう "権威はあるけれど政治的実権がない" 状態の貴人の出来ることは、大変に限られたものになる。あまり野心的なことをしようとすると排除されてしまうし、かといって本当に何もしないと存在そのものの軽重が問われてしまう。

こういう立場に置かれた場合、人によっては詩歌管弦の世界に逃避したりもするのだが、後小松天皇の場合は政治的にはあまりインパクトの無い寺社への勅額の授与などをさかんに行った。何か適当な宗教行事を行うように命令(勅)を出して、それが済んだら褒美に寺に掲げる額の題字を書いて下賜したのである。玄翁和尚に対する殺生石供養(※)の勅はその最初期のものにあたっている。

※画像はWikipediaのフリー素材より引用




…といっても、勅が出たのは後小松天皇の即位3年目、年齢にして数え8歳(現代風の満年齢では7歳 !!)のことであるから、とても本人の自発的な意図とは考えにくい。おそらくは当時院政を敷いていた父帝、後円融上皇の意向と考えるのが自然だろう。これについては別途後述したい。



 

■狐の嫁入り




…さて松明行列が賽の河原まで降りてきた。毎度のことながら松明だけで浮かび上がる闇夜の風景は、ナカナカに神秘的でいい感じだ。




筆者的にはこういう炎の明かりだけで浮かび上がる色合いのほうが好みには合う。ちなみにカメラの設定をオートホワイトバランスにしているとこうは写らない。夜間に敢えて 「日中晴天」 用の設定にすることで、色温度の低い被写体に対してこの色調が得られるのである。

※昔のフィルムカメラではデーライトタイプのフィルムを使うのが一般的だったので、放っておいてもこの色調が出た。




やがてここに狐の嫁入りの行列が加わる。毎年一組だけしか選ばれない新郎新婦が、狐の行列を伴って降りてくるのである。ここは晴れ舞台なのでスポットライトが当たる(^^;)





新郎新婦は狐の面は被らず、顔に直接狐のメークをしての登場になる。



ここで神職氏が登場して大松明に向かってお祓いをする。




そして新郎新婦にも清めの儀式を行う。



さらに一般参加者にも幸せのおすそ分けが行われ、無病息災、五穀豊穣、子孫繁栄その他もろもろ…のご利益が降り注いだ。筆者の懐にも是非ともご利益ビームの過剰照射を頂きたいところだ(ぉぃ)




そしていよいよ、新郎新婦によって大松明に火が灯された。




おおお~、昨年はしょぼかったけれど、
今年は派手に燃え上がる~ヽ(´ー`)ノ




そしてひゃらりらり~~…と、笛の音が響き、白面金毛九尾太鼓の演奏が始まった。


<つづく>