2014.01.09 狩野三郎行広、鹿の湯に至りし事(その1)
那須湯本の温泉発見について考察して参りました (´・ω・`)ノ
さて今年は初詣で那須温泉神社を改めて眺めてみた訳だが、どうも発展経緯的に河原の源泉の位置が神社のオリジナルな社殿だったんじゃないの的な雰囲気が濃厚で、翻って事の始めの "温泉発見" とはどういう経緯で為されたのだろう…などと考えてみた。
…で、地図を眺めながら思いついたことを元に、現地を歩いてみたのである。すると特にこれといったひねりも無く、わずか半日でおおよその状況が推測できてしまったので、忘れないうちに簡単にメモを残しておこうと思い至った。…ということで、本稿は短時間でパパパ…っと書いている。
湯本温泉(鹿の湯)の発見者は、那須国(当時)茗荷沢の住人狩野三郎行広という人物といわれる。時は人皇35代舒明天皇の治世(在位629~641)、狩で矢傷を負わせた白鹿を追って山中に入り、その白鹿が温泉に入って傷を癒しているのを見つけたというのは、あまりにも有名なエピソードである。…今回は、その周辺を改めて眺めてみたいと思う。
■ まずは茗ヶ沢へGo!!
そんな訳で、長すぎる前置きは大幅にカットして早速出かけてみよう。行き先は、狩野三郎の住んだといわれる茗ヶ沢(みょうがさわ)である。
※昼過ぎに出たのでちょっと西日がかっているけれども、まあ気にしないでいただきたい。
茗ヶ沢は那珂川河畔の断崖の上に開けた非常に古い集落である。現在はりんどう大橋が出来てクルマでひょいと到達できてしまうけれども、ここは三方を断崖に囲まれた堅牢な地形で、戦国武将であれば城のひとつも建てくなるような城砦向きの場所であった。付近は小河川が無数に湧いて流れ下る "水の豊かな土地" で、右岸(南側)の那須野ヶ原が伏流水による水不足で開発不能であったのとは対照的に、水で苦労をする要素はほとんどなかった。
茗ヶ沢は、当時の那須で人が入植可能な那須山塊側ぎりぎりの場所に位置していた。水が豊かなのに何故ぎりぎりかといえば、活火山である茶臼岳の周辺は土地が痩せすぎて作物が育たず、また当時の那須国の人口中心は現在の大田原市~那珂川町付近にあって、ここから離れた山側というのはまだまだ未開の深い森だったのである。
こんな場所で狩野三郎行広は、半農半猟の生活を営んでいたらしい。現在ではその跡地と思われるところに温泉神社が建っている。
さて本稿はあまり長く引っ張るつもりは無いのでいきなりネタをばらしてしまおう。地図の縮尺を大きめに取って、河川の水系図と茗ヶ沢(茗荷沢)、湯本(温泉)の位置関係を示すと上図(↑)のようになる。
実はもうこれで温泉発見の状況はおおよそ推測できてしまう。一見すればお分かりの通り、彼の住居の脇を流れていた湯川を遡っていけば自動的に温泉に行き着いてしまうのである。茗ヶ沢と鹿の湯源泉までの距離は直線距離でおよそ8km、まっすぐスタスタ歩けば徒歩で2時間程度の距離感である。つまり彼にとっては住んだ場所がすなわち必勝の方程式(?)だった訳で、事の次第はそれほど難しい話ではない。
その行程を今回は簡易的にトレースしてみよう…と思っているのだが…なんだか山の方は雪雲に覆われていまいちスッキリとしていないな …むむむ。
■ りんどう大橋から見る茗ヶ沢
そんな訳でまずはりんどう大橋に到達。現在ではこの巨大な橋が出来たために那須野ヶ原側からは苦も無く渡れてしまう。しかしこのあたりは那珂川の穿つ渓谷が深く、かつてはなかなか簡単には越えられなかった。
そんな橋の上からワンショット。向こう側に見える台地の上が、茗ヶ沢である。こうしてロングショットでみると大したことのない只の丘にしかみえないが、さにあらず。
那珂川河床から断崖の上までは60m以上の高低差があって、15階建てのビルに相当するくらいの要害の地なのである。このスケール感は、実際の風景を見ないことにはちょっとわからない。
ちなみに那珂川の水面直上の状況はこんな感じで、とても簡単に登れるようなところではない。那珂川というと "船運" という印象をもっておられる方がいるかもしれないが、それが可能であったのは黒羽河岸から下流側で、この付近までくるとなかなかうまい登り口がないのである。
さて茗ヶ沢は、古くは茗荷沢と称した。茗荷とは、汁物の薬味につかうあのミョウガのことである。茗荷の群落のあるところは茗荷沢とか茗荷谷などと称し、全国でも割と多く見かける。ただこの植物は大陸からの渡来種なので勝手に原野のど真ん中に出現したりはしない。つまりそこに茗荷が生えているということは、一見自生のように見えても、かつては人が住んでいた痕跡なのである。
…ということは、ここも茗荷がそれなりの群落になる程度の期間、人の定住があった集落だったのだろう。
※茗荷沢には那珂川の河岸段丘を一段下がったところにもいくらか耕地があり、昔はこちらにも集落があったらしい。現在の崖上の集落とどちらが古いのかはよくわからない。
■ 温泉神社(茗荷沢)
いよいよ橋を渡って茗ヶ沢(茗荷沢)の中心集落にやってきた。…といっても、あたりは農家がまばらに散在しているだけで、ことさら特別な風景が広がっている訳ではない。
そこに、地区唯一の神社がある。額にはただ "温泉神社" とだけあり、解説板などは何もないのだが狩野三郎行広の住処とされる集落であるからには湯本の那須温泉神社を勧請したものであることはほぼ間違いあるまい。
鳥居には、真新しい修理の跡があった。東日本大震災によるものだろうか。…聞いてみようかと付近に人影をさがしてみたけれども、残念なことに誰も居ないようだった。…まあとりあえず、参拝してみよう。
鳥居の先には、建物がふたつあった。左の赤い屋根のほうが温泉神社社殿で、右の建物は地蔵堂である。2つセットになっているのは神仏習合時代の名残のように思える。
賽銭箱がないところをみると、不特定多数の人が参拝に訪れることは想定していないようだ。あくまでも地区内のローカルな社…というか氏神的な雰囲気が漂っている。
鞘堂の中の本殿は、このようなものであった。鞘堂には本来は扉があったと思われるが現在は失われている。素朴な木造作りの社で、供え物(米飯)はしっかりと供されており、現在でもここは生きた信仰の対象であるようだ。…日本にはまだまだ、こんな風景が残っているのだなぁ。
鞘堂内には、大正時代に奉納されたらしい手作りの絵馬が残されていた。これはお宮参りの様子だろうか。生き生きとした民俗模様が伺えて大変興味深い。
よくみると奉納者の名前に "人見" というのが見える。この人見というのは狩野三郎行広の子孫一族の名乗ったとされる姓である。那須地方の有力者にはこの人見姓の方が多く、明治維新のときの創氏改名でも人見を姓に選んだ方が結構いたらしい。
その意味するところは、温泉を発見したときの様子を称して "人の見ざるものを見た" あるいは "温泉の神を見立てた人" から来ているという。雅の中にも神懸かった響きをもつ名で、そのものが何やら言霊めいている。
さて神社から少し奥に入って、集落の周辺を見回してみた。一見するとごく普通の農村風景があるばかりだが、本来この付近は畑作地であったところを、大変な苦労をして水田化したところであるという。
というのも、地区内を幾筋も流れ下る沢筋をみればよくわかるのだが、ここは表土がとても薄いのである。土地改良技術の進んだ現代にあっても水田耕作のできる限界はここから2kmあまり山側に寄った広谷地あたりが限界で、「観光産業」 などという洒落たものの無かった時代にはそれは人の生活できる限界そのものであった。
ちなみに茗荷沢の1kmほど下流側には "田代" と呼ばれる集落があり、ここは地名からみても古くから水田が開かれたところであったらしい。ここから翻って考えるに、やはり茗荷沢の付近というのは人の住める限界ギリギリの条件だったのではないか。
そういえば集落の中央付近を曲がれる沢が地図にひとすじ書いてあったな…と思って、橋の下に下りてみた。さきほどの温泉神社から1kmほどのところから出ている湧き水で、地区内ではここが一番大きな水系にあたる。
ここでも石と砂の入り混じった地盤に薄い腐葉土の層が乗り、それを雑木の根が保持している様子がみえる。首都圏のゼロメートル地帯では絶対にお目にかかれない、野性味溢れる(?)農業用水路である。(※もしかするとこの沢をして茗荷沢と呼んだのだろうか…)
…ともかく、こういう地盤のところにかつての狩野三郎行広は生活を営み、夏は畑を耕し、冬は狩りをしたと伝えられている。そして温泉発見は、この狩りのときであったという。
ここからは、この風景をもとに、1380年前の温泉発見までのプロセスをすこしばかり考えてみることにしよう。
<つづく>