2015.06.27 日本最北の城下町、松前を訪ねる:前編(その1)




北海道で日本最北の城下町を眺めて参りました (´・ω・`)ノ



いつもの年なら南国詣でをしているこの時期、たまには北方にも足を延ばしてみようか…ということで北海道に渡ってみた。

といっても、ミーハーにラベンダー畑を追いかけたりラーメン紀行をしたかった訳ではなく(笑)、江戸の幕藩体制に於いて日本で最北端に成立した藩である "松前" の町と城跡を眺めながら、北海道の歴史についてゆるゆると考えてみようと思ったのである。

その北海道の歴史事象の大半は、島の広さの割に一極集中で、実は南部の松前周辺に集積している。ここは和人による最初の開拓地の中心であり、北方民族であるアイヌ人との交易の拠点でもあった。北海道の函館以北の地域が真面目に開拓されていくのは明治期に開拓使が入ってからの話で、それまではこの最南端の岬の周辺が幕藩体制の政治的な外延部なのである。




一方で先住民族であるアイヌ人はその人口の少なさ (江戸時代末期で2万6000名) と文字による自前の歴史書を残さなかったことから、民族の名が知られている割にその内実は不明で政治的な存在感は希薄である。……などと書くと暇そうなアイヌ人団体から 「差別にだーっ、精神的苦痛がーっ」 とか抗議が来そうな気もするけれど、これは事実であるから仕方がない。特色ある魅力的な文化をもっていることと政治力の有無はまったく別の話である。(機会があればアイヌについては別途書いてみたいけれども)

ゆえに、北海道という地域を理解しようと思った場合、やはり史料の多い松前から見ていくのが適当のように思える。そんな思考の果てに、筆者は道南に向かってみることにしたのであった。

なお今回の旅は松前から函館までを4日間で巡ってみたのだが、松前と函館では趣向ががらりと変わってしまうので、今回は松前にスポットを当てた構成(実質2日分+α)で書いてみたい。

※写真は函館市北方民族資料館史料より(撮影許可を頂いています)



 

■ 始まりは、陸奥湾から見る下北の風景から




さてそんな訳で筆者はいきなり青森に居る。さすがに自宅からの道程を延々と書いてもつまらないので途中は大幅省略である(^^;)。筆者はここから特急白鳥に乗って青函トンネルを抜けて北海道を目指していく。




かつては蝦夷ヶ島と呼ばれた北海道。そこを開拓した最初期の和人たちは、この陸奥湾に面した下北半島、および津軽半島から渡っていったと考えられている。

この本州最北端に住んだ人々は、もとは "蝦夷" としてアイヌと同じ血統だったと思われるのだが、のちに文化的に分化した。文化的に分化などというと下手な駄洒落みたいだけれども(笑)、意識の大転換があったことは事実である。本州側の人々はコメの文化圏に早くから入って律令国の枠組みに収まり、ヤマト民族の一派としての意識を持つに至った(人種的にはアイヌ系で文化的には和人という状態)。平安末期の藤原三代あたりまではそれでも半独立の機運が残ったのだが、頼朝による鎌倉政権樹立で政治的に中央に統合され、その後はほぼ一体化した。

いっぽうこの枠組みから外れた北海道では "蝦夷" の民族性が残り続けた。といっても古い縄文の文化がそのままアイヌになった訳ではなく、いくらか紆余曲折を経るのだが、結果的には本州とは民族性も言語も異なる集団となった。そのあたりの境界性のようなものを考えながら、陸奥湾、そして津軽海峡を越えてみたかったというのがこのときの筆者の気分なのである。




…しかしこの日は運悪く強力な低気圧がノロノロと北海道付近で停滞しており、陸奥湾は御覧のように激しく荒れた様相だった。

せっかく静かなるプロローグとしての遠景を期待していたのに、旅の最初から怒涛のクライマックスでは予定が狂ってしまうのだが……天気の神様は、どうやら筆者に試練をお与えになっているらしい。




それはともかく、当初の目論見では陸奥湾の向こう側に下北半島が見える予定であった。特急「白鳥」 の走る津軽線は陸奥湾の沿岸沿いをひたすらまっすぐに走っている。天候さえよければおよそ20kmほどの平舘海峡を挟んで車窓からその遠景を望むことができた筈であった。

巨大な "斧" を連想させる下北半島には、斧の刃先の周辺に小さな岬がいくつも並んでいて、それぞれ貝崎、北海崎、イボ崎、牛ノ首崎、トドメキ崎…などの名がついている。そしてそのうちのひとつに蛎崎(かきざき)というのがあり、かつてここに、とある小豪族が居を構えていた。時代は鎌倉の頃で、その出自のほどはよく分からないのだが、この時代は居住する土地名を名乗るのが "イケてる作法" であったので、彼らは自らを蠣崎氏(※)と称した。

この蠣崎氏は、津軽の有力豪族:安東氏の配下の郎党であったらしい。安東氏は奥州藤原氏が頼朝に滅ぼされたのちに鎌倉の御家人として津軽を支配した武家で、のちに男鹿半島付近に割拠して秋田氏となる家系である。北部奥州にはもうひとつ、やはり頼朝の奥州合戦のときに甲斐からやってきて土着した南部氏が盛岡~八戸付近に勢力を張っており、陸奥湾を挟んで互いを牽制していた。

しかしやがて時代が下ると南部氏の勢力が伸長し、室町時代中期の康正二年(1456)、蠣崎氏は季繁(すえしげ)のときについに下北半島を追われてしまう(※)。時代は応仁の乱の起こる直前の混沌とした頃で、既に東北では一足先に戦国群雄伝が始まりつつあったらしい。

※現在では豪族名と地名の字体が異なっているが、蠣も蛎もどちらも食用貝のカキで、蛎の方が略字体になる。地名の起こりは、おそらく単純に岩礁でカキが採れたことによるものだろう。

※下北半島には南北朝合一後も現在のむつ市田名部のあたりに南朝系の拠点があり、北部王を名乗る皇統がいた。蠣崎氏が下北半島の支配を狙ってこれを攻め滅ぼしたことから南部氏の介入を招き、蠣崎氏は本拠地を失って敗走してしまう。これ以降、田名部は南部氏の所領となって戦国時代を迎えていく。




このとき南部氏に敗れた蠣崎氏にはもう本州内では行き場がなく、海峡の向こう側に逃亡を図った。当時渡島(わたりしま)と呼ばれていた北海道の南端部である。

当時ここに渡った集団はいくつもあり、まとめて渡党(わたりとう)と呼ばれていた。時代をやや遡って鎌倉時代初期、執権北条義時(1163-1224)の頃に流刑地として都の罪人がここに流され、それらを監視するために当時御家人になりたてホヤホヤの津軽安東氏が蝦夷管領に任ぜられた。この蝦夷管領の役職は安東氏の世襲で、鎌倉幕府の滅亡から室町幕府成立に至ってもそのまま引き継がれた。さきの逃亡者:蠣崎氏はこの安東氏の支配下で現地出張所の親分の一角に収まっている。

鎌倉幕府や室町幕府はどうやら北海道をしょぼい離島のひとつくらいにしか思っていなかったようで、その扱いはほとんど放置に近かった。気候的にコメが採れないことから農地としての価値は無いものとみなされ、支配への関心が薄かったともいわれる。この隙を縫って安東氏は、のちに薩摩の島津氏が琉球貿易を独占したように、アイヌとの交易を独占するようになっていく。本州の和人側から見る北海道の歴史は、実質的にこのあたりから始まっていくと思ってよい。




…という話を、穏やかな陸奥湾と下北半島の遠景を眺めながら書きたかったのだが、雨と風が轟々と叩きつける車窓は流れる雨粒で解像感もへろへろのままに景色が飛んでいく。

はてさて、この先天候は回復してくれるのだろうか? …なんだかもの凄く心配なのだが(^^;)




 ■ 津軽海峡(青函トンネル)を経て木古内へ




さて列車はやがて長いトンネルに入った。青函トンネルである。




トンネル区間は延々80kmほども続き、およそ40分ほど真っ暗な状態が続く。このトンネルもなかなかドラマチックな逸話が多いのだが、書き始めると止まらなくなりそうなので敢えてカット。




国境の長いトンネルを抜けると、北海道であった。ここは道内最南端の駅、木古内(きこない)駅である。最南端といっても北海道の陸地部分に到達してから32kmあまりも走ってようやくたどり着いた駅で、なにやら 「ちょっと隣の駅」 のスケール感が本州とはまったく異なっている。

※ちなみに写真左側に見える新しい駅舎は来年開通予定の北海道新幹線の施設である。




筆者は函館には直行せず、ここでレンタカーをGETした。松前を訪ねるには函館は遠すぎ、この木古内を起点にするのが最も近い。津軽海峡線は地図上で路線図をみるかぎり松前にかなり近いところを通っているのだが、そこはトンネルのなかで駅はなく、最寄りの駅はここになる。最寄りといっても50km以上あるのは、まあ北海道のスケールだから…と思うしかない(^^;)

レンタカー屋のおっさんに 「松前までは2時間弱くらいですかね」 と振ってみたところ、「1時間で余裕でしょうなっ、あっしなら40分ですぜっ、がはははっ♪」 …と威勢がいい。地図上では木古内駅から松前城までは55kmほどあり、信号待ちなどを考慮すると関東平野の平均レートで1.5時間、途中いくらか立ち寄りを考慮して筆者は2時間弱を見込んでいた。それが40分というのは、多少の営業トークとジョークの成分を割り引いたとしても、巷(ちまた)で言われるように "北海道の住民は公道レーサーのごとくかっ飛ばす" という性癖を(中略)ような気がしないでもない。

…とはいえ、さすがに雨の中で "サーキットの狼ごっこ" はちと無理がある。筆者は順法精神にあふれた善良な市民として、適度な速度で流すこととしよう(笑)




■ 木古内から望む津軽海峡




さてここからは海岸沿いにR228を松前を目指して南下していく訳だが、まずは目前の海の様子を見てみたい。なにしろ筆者にとっては初めて見る北海道の海なのである。




付近の地勢はこんな(↑)感じになっている。ここは海岸ぎりぎりまで山地がせり出していて、いわゆる 「でっかいど~、北海道~」 的な地平線の見える観光イメージとは掛け離れている。…が、そもそも道南というのはこういう世界なのである。

今回筆者が訪れている北海道南部では、広々感を感じられるのはなんとか函館平野くらいのもので、しかしその面積は筆者の居住地である那須野ヶ原の1/4以下でしかない。基本的に道南の街並みは生産性に乏しい山がちの地形に河口の三角州がちょこちょことおまけのように連なった地形で、海浜集落の典型的なつくりになっている。農業で食っていけるような要素はもとから乏しく、かつてここに入植した和人たちもコメを作ろうなどとは発想しなかった。彼らの存立基盤は、目前の海に出て行う漁業と、アイヌ人との交易だったのである。




さて浜に降りてみた。おお、…これが北海道の海岸♪

本来なら向こう側に青森県側の竜飛岬が見えるはずなのだが、雨の中では視界は効かず、悪魔の咆哮のような波の音ばかりがズズーン、ズズーン…と響いてくる。砂は黒く、空は鉛色。遠くでカモメだかウミネコだかの声がかすかに聞こえている。




こうしてみるとまるで北島三郎の演歌に出てくるような風景だが、海は豊かである。聞けば付近の海底は遠浅の砂地で、波が穏やかなときはカレイやらヒラメやらの良い漁場なのだという。 釣りも盛んらしく、長大な投げ竿で100mほども遠投してマコガレイを狙うのがその道の "通" であるらしい。




この砂地は沖合数kmから陸上まで続いている。話のスケールがやや大袈裟になれけれども、今から6000年ほど昔の縄文時代、気候は今より温暖で海面水準が3~5mほど高く、"縄文海進" とよばれる内陸まで海水が入り込んだ時期があった。その頃に形成された砂浜と、ごく浅い海底が、のちの "海退" によって陸地となり、現在では人の住む場所となっている。

海進は約1000年前にも起こり(平安海進)、西暦で言うと1100年の頃にピークを迎え、1200年代(鎌倉時代)にふたたび海面は下がった。和人の入植が本格化するのがちょうどこの鎌倉時代である。海退によって自然が与えたわずかばかりの平地に、なんとか取り付いて足場を築いたようなイメージが思い浮かぶ。




ちなみに木古内で海抜3m未満の部分を青く塗り潰してみると(↑)、市街地の大部分は海面に沈むか波打ち際の浜辺になってしまう。そういえば渡党がやってきた初期の頃、和人のつくった "中野舘" という砦が実はこの木古内にはあった(※)のだが、現在の地図上に残る "中野" の地名は海岸から3~4kmほども奥まった付近である。これは初期の和人の侵入が平安海進の頃にまで遡る可能性を示していたりはしないだろうか。

※中野舘の明瞭な遺跡は実はいまだに特定されていない。ただ中野川の流れる中野地区に小さな神社が残されており、なんとなくそれっぽい雰囲気がある。




…とまあ、これだけを根拠にあまり勇み足すぎる仮説を展開するのは控えなければならないけれども(^^;)、関東地方では貝塚の分布がやはり内陸側に寄っていて、縄文海進の研究で注目されていたりする。そのあたりを勘案すると、ちょっとしたロマンではあるな。


<つづく>