2015.06.27 日本最北の城下町、松前を訪ねる:前編(その5)




■ 大舘跡~郷土資料館




さて気分的には松前城に行きたいところなのだが、雨が強いので城の敷地内を歩き回るのはちょっと無理っぽい。カモメも海辺から市街地に避難してきて、公園の芝生で休憩中であった。皆同じ方向を向いているのは雨で顔面を叩かれないようにするためらしい…健気だなぁ。




こういうときには屋根のある施設に入るのがよかろう。…と、筆者は郷土資料館に行くことにした。資料館は大舘跡に隣接して建っている。




大舘(おおたて)は前述したコシャマインの戦いに勝利した蠣崎信広の息子、光広が入居した砦である。蠣崎氏はここを徳山館と名付けて再整備し、150年ちかく居を構えつづけた。

武田の血が入って二代目の光広の時代はもう戦国時代に突入している。北海道は幸運なことに本州側から大規模な兵力が攻め寄せてくるようなことはなかったけれども、奥州に割拠する南部、伊達、最上、秋田(安東)などの合戦を間近に見ながら緊張を強いられ続けた。

それゆえ蠣崎氏は徳山館(旧:大舘)の堅牢な地勢を最大限に生かして防御に徹する構えをとったわけだが、実際に攻めてきたのは散発的に蜂起するアイヌで、しかも毎度のように函館や江差方面…つまり背後から攻められた。北海道の戦国時代は斯様(かよう)にユニークな構造をもっている。

※この間、幸か不幸かアイヌ側には民族全体を統率する "王" は出現しなかった。あくまでも個別の部族がゆるやかに並立するという "国家未満" の状態であったため、一方ではある部族が和人を襲いながらも、他部族は交易を持続するという奇妙な関係が続いた。和人の側もアイヌから得た交易品を(主に日本海ルートで)本州側に転売して差益で食っていく構造があったため、うまいことなあなあの関係を保っていたような印象がある。




現在はこの舘跡には城としての建物はなく、徳山大神宮なる神社となってその痕跡を留めている。雨が降っていなければ高さ40mほどある砦のてっぺんまで登っても良かったのだが今回はちょっと無理そうなので断念。




そんな訳でとりあえず隣の郷土資料館の建物に入ってみよう。資料館といっても建物の半分は図書館として使われていて、玄関近くの入り口から入ろうとするといきなり終盤の近世資料のコーナーがあり 「資料館は二階から入ってくださいね~」 と言われてしまう不思議な順路の展示なのだが、まあ細かいことは気にしない。




おお、建物の外観は地味でも展示コーナーはなかなか気合がはいっていそうだな♪




バブルの頃に全国で量産されたイケイケ郷土資料館では 「地球の誕生」 あたりから大上段に構えて始まるのが多かったけれども、ここは約4000年前の縄文集落から始まっていて地に足のついた展示になっている。

竪穴式住居の基本構造は北海道も本州もあまり差は無く、弥生人が渡来文化とコメを持ち込む以前はどこでもだいたいこんな感じ(↑)の生活であったらしい。




それが紀元前2世紀頃から徐々に九州方面~近畿~関東…と稲作(=弥生文化)が広まりだして、8世紀頃に米作の北限=青森県に達して止まった頃から差を生じていく。津軽海峡以南は米作と鉄器の時代となって大和朝廷の影響下に入ったが、北海道側は平安時代いっぱいまで土器と石器の時代が続いた。

さすがに平安貴族が古今和歌集などを詠む時代になると縄文土器はトレンド遅れとなり、本州の土師器(はじき)の影響をうけた擦文土器(さつもんどき)が主流となるのだが、鉄器時代はまだ本格的には始まらない。この間に、もともと遺伝的にはほぼ同じであった北東北と北海道の住民の生活様式に差がひらいた。

それでもやがて鎌倉時代に入ると鉄器が本格的に流入するようになる。北海道では製鉄は行われなかったから、供給は本州側からの一方的な "輸入" である。鍋、釜や刃物などは高価な希少品ではあったけれども、土器や骨器、石器にくらべたら圧倒的に便利であったので生活必需品として急速に広まっていった。そしてこの "鉄の文化" の片鱗に触れてそれに依存するようになった(→つまり石器時代から脱皮した)人々が、のちに "アイヌ" を称するようになるのである。このあたりは、調べ始めると非常に興味深い。




…が、ここではそれらを全部紹介している余裕は無いので、先史時代はすっぱりと飛ばして戦国末期まで時間を進めてみたい。話を蠣崎氏に戻すけれども、ここで彼らには大転換が訪れるのである。



 

■ 朱印状、黒印状、そして "松前氏" へ




さてその大転換のきっかけは、豊臣秀吉による天下統一と、その後の徳川家康による江戸幕府開設であった。このとき日本の統治ルールは激変し中世から近世へと脱皮したわけだが、蠣崎氏はここで一世一代の大勝負に出た。秀吉が天下統一を成し遂げると、すみやかに上洛し 「ご機嫌伺い」 に出頭したのである。それで何を得たかと言うと、天下人=秀吉による直接の本領安堵の書状(朱印状)なのであった。それまでは蝦夷管領である安東氏の子分という "水面下" の身分であったのが、これで一気に箔がつき、全国水準の独立領主となったのである。

蠣崎氏は続いて徳川家康にも接近し、関ヶ原の戦いの前年、1599年に家康支持の立場を鮮明にしてやはり挨拶伺いに出向いた。蠣崎氏の支持があったことで家康にとって関ヶ原の戦いが特別に有利になったかというとそんなことは全然無いのだが、こういう政治的な意思表明は早く鮮明にしたほうが心象は絶対的によくなる。これが功を奏して、家康は征夷大将軍となったのち、蠣崎氏に黒印状を発行し蝦夷でのアイヌとの交易の独占権を認めることとなった。蠣崎氏が江戸時代を通じて確固たる経済基盤を持つに至ったのは、特にこの黒印状のお墨付きによる。

しかもこのとき、蠣崎氏は家康の平姓 (三河守になった頃から徳川を名乗っているが元は松平姓である) と秀吉派の筆頭であった田利家(※)から各一字を取り、松前氏に改姓するという粋なパフォーマンスをしてみせた。時代の転換点で時の天下人に臆面もなくこういうゴマスリが出来るというのは、一種の才能といってよいと思う。
 
※なんで前田利家?という気がしないでもないけれども、このとき既に秀吉は没しており、嫡男の豊臣秀頼は関ヶ原の敵方であったので、家康の機嫌を損ねぬよう豊臣五大老の前田利家をもって朱印状への感謝の意を示したらしい。前田利家は小田原成敗後の東北仕置き(秀吉は会津までしか来ていない)のとき、津軽まで北上して秀吉の支配の徹底と検地を行っている。蠣崎氏はこのとき前田利家の陣に出頭して秀吉への会見のとりなしを依頼しており、これが独立領主に脱皮する分水嶺になったという経緯がある。




資料館にはこのうち黒印状の写しが展示してあった。黒印状は将軍の代替わりのタイミングで同じ内容のものが発行されて効力が担保された。展示品は延享年間のもので、九代将軍:徳川家重の時代にあたる。その主な内容は以下のようなものである。

一、松前へ出入りする者は志摩守(松前氏)に無断で夷人(アイヌ)と取引してはならない

一、志摩守に断り無くして渡海、商売している者を見つけたら報告せよ

一、夷人に対し非道を働いてはならない、違反者は厳罰に処す


ここで志摩守とは秀吉のとりなしで朝廷より蠣崎(松前)氏に与えられた官位で、律令的な身分を表している。全部で十行にも満たない内容ではあるけれども、これが徳川将軍名義で発行されたことで松前藩はアイヌ交易による収入を担保されることとなった。書状1枚で効力はたっぷり260年である。封建体制にあっては、エライ人の一筆はかくも凄まじいものなのだなぁ…!

※展示された黒印状は慶長九年版と延享四年版があり、内容はほぼ同じなのだが文章表現には多少のゆらぎがある。こういうところは行政史的に面白い。




こうして蝦夷の資源交易を一手に握ることになった松前藩は、北前船航路の発展とともに上方(大阪、京都)とむすばれて大いに潤っていくこととなった。コメが採れないために "無高" の大名という特殊な立場ではあったけれども、のちに一万石相当の格式を得て、江戸の幕藩体制の中で特色のある立ち位置を占めるようになった。




余談になるけれども関西の食文化における昆布出汁(だし)の隆盛はこの北前船によるものといわれる。昆布は別名をズバリ "松前" と称した。乾燥した状態で船で運んで来るうちに熟成が進んでいい味になったのだそうで、関東が房総沖でとれる鰹(かつお)から鰹節を作って好んだのとは対照的に、特色のある味覚圏を形成した。地理的には離れた北海道の産物が関西の食文化を支えていたというのは、なかなかに面白い話である。




■ 松前城 TRY1




さて午後もそろそろ夕方近くになってきたので、それではいよいよ松前城に…




…と思いきや、クルマから降りようとした瞬間に、風雨に煽られて新品の傘は秒殺 ( ̄▽ ̄;)




望遠で観察してみると果敢に突撃している観光客も居るには居る。…しかしまあ、この天候では落ち着いて見学という訳にもいかないだろうなぁ。

…そんな訳で、本日のところは無理をせずに撤退。松前では明日も散策時間は取れるので、城には改めて訪れることにしよう。




■ 宿にて




早々に宿に入ると、女将さんが 「まあこんな雨の中じゃ来られないかと思っておりましたわ」 などと言っていた。津軽海峡の南側では24時間降水量が150mmを越えたところもあるようで、どうやら筆者は一般に "集中豪雨" と言ってよい天候の中を散策していたらしい。

明日も雨であることに変わりはなさそうだが、低気圧の中心は太平洋側に抜けるようで多少状況は楽になりそうだった。とりあえず、今日はゆっくりと寝ておこう。


<後篇に続く>