2015.06.28 日本最北の城下町、松前を訪ねる:後編(その3)
■ 松前藩屋敷
さて城を出た後は、松前藩屋敷へと向かってみた。幕末の松前城(福山城)拡張の折りに武家屋敷が移転したのがこの付近なのだそうで、当時の建物は残っていないけれどもかつての松前の街並みが(武家だけではなく庶民の住宅も含めて)ジオラマ風に再現されてテーマパーク化されている。城跡を見学したならば是非ともセットで訪れておきたいところだ。
松前城からはほんの数百メートルなのであっという間に到着。
…が、相変わらず雨は降り続いており、駐車場は御覧の通り(^^;) …こりゃ独占だねw
本来、ここは結構広大な公園になっていて見どころも多いはず(松前藩屋敷はそのほんの一部)なのだが、まあ雨模様でもあるし、あまり欲張らずに行ってみよう。
チケット兼パンフレットはこんな感じであった。なんだか日光江戸村みたいな雰囲気だな。
■ 沖之口奉行所
そんな訳で敷地内に入ってみる。おお、すっかり気分は時代劇のセットの中だ(笑)
再現されているのは江戸中期頃の松前の街並みだそうで、北前船が盛んに往来してた頃を思えばよい。
こういう気分の出る風景の中を歩くのはとても楽しく、ここに町娘とか番頭さんとか町人若衆なんかが闊歩していると、さらに気分が盛り上がって良いと思う。…え、筆者?
衣装を貸してくれるなら八つぁんか熊さんくらいに化けて歩くのは全然OKだぞっ♪(笑)
内部は結構広いのですべてを紹介する訳にはいかないけれども、当時の雰囲気を色濃く反映しているところをつまみ食い的に見てみよう。まずは沖之口奉行所である。現代でいえば入国管理局みたいな仕事をしていた役所だ。
役所の内部はこんな状況で、本土で一般的にみる武家屋敷と変わらない。
…が、これを北海道に持ってきたというのは結構大変なことなのである。本来、日本家屋というのは夏向きの風通しの良いつくりになっていて寒冷地には向かないからだ(※)。そこを無理を通して京風の書院造りにこだわったところに、松前藩の "和人の文明圏の一部でありたい" という強烈な意識が伺える。
※アイヌ人は樹皮を幾重にも重ねて竪穴式住居に似た家(チセ)をつくり、冬季は土をかぶせてトイチセ(=土の家の意)とし保温性を確保した。板壁の家にこだわった和人がなかなか北方に住まなかったのは、この住居の性能にも依っているらしい。
それはともかく、ここで行われたのは蝦夷地に入境する人々の検問であった。特に不審者の入境や密輸行為などは厳しく取り締まられたという。
これは当時の検問の様子を描いた絵図(松前風景図/平尾魯仙)である。白洲に引き出されて手を広げているのは入境者で、よくみると全員裸にされて身辺を検められている。この段階で、刀傷のある者、入れ墨のある者、身元引受人のいない者は入国を認められなかった。
本州の街道沿いの関所が江戸時代半ばには形骸化して "お伊勢参り" などがゆるゆるの管理状況だったのに比べると、これは相当に厳しい処置といえる。薩摩藩のように切り捨てられないだけマシではあるけれど、違反者はそのまま船で送り返すというのが一般的な対応であった。
■ 旅籠と商家
さてこちらは無事入国の認められた人の宿泊する旅籠(=旅館)である。看板をみると、蝦夷地なのにどうして "越後屋" …という気がしないでもないけれど、聞けば松前の商人の出身地は近江が一番多く、次いで北陸が多かったのだそうで、"越後屋" という屋号があっても不思議ではないらしい。
内部はこんな風になっており、土間から板の間に上がってそれぞれの個室に入るようになっている。もちろんこんなところに泊まることが出来るのはそれなりに豊かな商人や武家、役人などで、労働力として諸国からかき集められた出稼ぎ漁師などはもっと簡易な番屋に入った。
手代の詰めていたであろう番台に上がってみると、おや…囲炉裏の中には砂利が敷いてあるな。灰は炭の直下にごく少量しか置かれていない。
この灰と炭の入っている中央の器は呂金といい、聞けばこうして砂利と二層にすることで熱効率の向上と鍋や鉄瓶の座りの良さを図っているらしい。これは北海道に独特の形式だそうで、筆者は初めてこんな囲炉裏があることを知った。
さてこちらは商家である。見れば本土から運んできた呉服などが並んでいるけれども、こんなのを庶民がホイホイ買えたのかというと…買えたらしい(理由は後述)。
しかし商人の稼ぎとして大きかったのはこういう小売業よりも漁場の経営であった。元は禄(給与)の代わりに交易場所の経営権を領主から家臣へと与えたものだったのが、やがて漁場の権益がそこに加わり、時を経てその経営を商人が代行するような形にシフトした。これが大当たりして、松前の春は江戸にもないと言われるほどの経済の活況が実現していくのである。
■ 漁家と廻船問屋
それでは松前に富をもたらした経済活況の中身についていくらか書いてみよう。さきほど漁場の話に触れたけれども、松前はとにかく海産物が豊かにとれる。春には鰊(ニシン)、夏は昆布(コンブ)や若布(ワカメ)、鮑(アワビ)、秋には鮭(サケ)が大量に獲れた。これらは干物や塩漬けなど日持ちのするように加工されて本州の都市部に出荷され、大阪や京都に到着する頃にちょうど頃合いよく熟成して風味豊かな "松前物" となった。
これがどのくらいの収入になったかというと、本州の一般的な農民の可処分所得がおよそ10両であった江戸時代後期に、松前の漁師はニシン漁だけで15~20両、昆布/若布/鮑領と鮭漁でそれぞれ5~10両ほどの収入があり、通年では30両以上の所得をもっていたのである。役人や松前氏の家臣団はもちろんそれ以上のリッチさであった。
さらには本土の農民が五公五民(享保以降)で収穫の半分を税として納めたのに対し、松前の水産物にかかる税は水揚げ高のわずか十五分の一という少なさであった。辺境の地で物価が割高であったとしても、それを補って余りある収入があったので、生活水準は非常に高かった訳だ。
※これは徳川幕府が農業(特にコメ)を基準とした課税体系を採用しており、その他の経済活動については所得を正確に補足する手段を持たなかったという事情が影響している。年貢率5割の農民も副業による収入については補足されていないので(→つまり史料としても追いきれない)生活実態はもう少し楽だったかもしれないけれども(^^;)、それをひっくるめても松前藩の住民の所得水準の高さは際立っている。
そんな漁師の家が再現されていたのでちょっと覗いてみよう。
おお実に広々としている…!(^^;) 平屋建てながら100坪くらいはありそうだな。
当時の記録としては、幕府の地理学者:古河古松が天明八年(1788)に松前を周遊して書いた東遊雑記に 「江戸から北上して陸奥路を行くとどんどん風景が田舎くさくなって、秋田、津軽のあたりでは辺鄙(へんぴ)で寂しい風景になったのが、海を越えて松前に渡ったとたんに華やかな都風の風俗が現出して驚いた」 という趣旨の記述がみえる。そこでは末端の庶民に至るまで立派な門を構えた屋敷に住んでいるともある。江戸の学者の目から見ても松前の豊かさは桁違いに見えたらしい。
その豊かさは、漁場の広大さをストレートに反映したものであった。当時三百諸侯ともいわれた各藩に比べて、松前藩の管轄する漁場は北海道本島から樺太、国後/択捉方面にひろがる広大な領域で、他の追随を許さなかった。ここに商人が介在して各地から募集した季節労働者を送り込み、ガンガン海産物を獲りまくって上方の大都市部に出荷するというサイクルを回したのである。
その物流を担当したのが廻船問屋であった。いわゆる北前船(きたまえぶね)を運用した業者である。
北前船として使われた船の形式は弁財船といい、江戸時代の日本で造られた最大の商船であった。一隻を建造するのに約3000両、操船には15名を要したというが、京都の玄関口となる敦賀と松前を2回往復すれば元がとれ、3航海目からは利益が出るほど儲かったので盛んに建造された。最盛期には1500隻ほどが稼働していたという。
松前から本土に運ばれたのは海産物が主体で、最も多かったのはニシンであった。
ちなみにニシンとは、こんな(↑)魚である。卵はいわゆるカズノコで、身は食べても美味しいが、江戸時代は食品よりも魚肥として大量に消費された。
江戸時代には米よりも儲かる商品作物として綿花の栽培が(主に西日本で)盛んになったが、これは地力を猛烈に消耗するので普通の落ち葉を腐らせた堆肥では全然間に合わなかった。そこで動物性の肥料(焼いた骨とか干した魚とか)の投入が試みられ、安価で効果の高い有力候補として見出されたのが魚肥であった。
植物の3大栄養素として窒素(N)、燐(P)、加里(K)があるけれども、魚肥は窒素と燐成分の補給に有効で、花や実が大きく付いた。また化学肥料並みの即効性がある一方で、連続して使用しても土を荒らさない。だから農民はお金を出してでも欲しがり、魚肥は別名金肥(きんぴ)などと呼ばれた。
※ニシンは流通の8割以上が魚肥で占められ、食用として消費されたのは2割に満たない。
※金肥とは有料の肥料の総称で菜種粕なども含まれる
魚肥はもちろん本州でも作ることができる。最も簡単なのがどこの海でも簡単にとれる鰯(イワシ)を干したもので、実際によく使われた。関西では大阪湾周辺が、関東地方では房総半島がイワシ魚肥の一大産地となっていた。
そこにわざわざ蝦夷から手間暇をかけてニシンを運んでいく意味があるのか…という当然のツッコミがあると思うのだが、実は十二分にあった。輸送の手間暇を含めても、安価に供給できたからである。圧倒的な物量と価格競争力で大手スーパーが中小商店街を駆逐していくのと一緒で、蝦夷松前産のニシンは強力な商品力を発揮した。消費者(この場合は農家)が安価に購入でき、かつ漁師も商人も大儲けしているということは、すなわち原価がムチャクチャに安く、簡単に大量の調達が可能だったいうことでもある。
…それを可能としていた蝦夷地の広大な自然のキャパシティを思うと、そのスケールには驚くしかない。かつて秀吉や家康がどこまで綿密に算盤(そろばん)勘定をして松前氏に独占商業権を与えたのか、その真意はわからないけれども、結果として松前氏が得たものは恐ろしいほどに巨大な宝であった。
■ しかし黄金時代は終焉に至った
さて長々と書いてきたけれども、そろそろタイムアップが近づいてきたのでまとめに入ろう。・・・といっても、何かのストーリーに添って取材している訳ではないので特別何かのスペクタクルがある訳ではない(^^;) 天候が良ければ時代区分に添った順番で各ポイントを巡ってみるという趣向もあり得たけれど、この条件ではまあ贅沢は望めないので軽めに終わろうと思う。
幕末期、松前藩にとって不幸なことが三つ重なった。ひとつはロシアの南下政策が激しさを増し、樺太に大量の民兵を送り込まれて領有権が事実上空文化してしまったこと、二つ目はそれを受けて蝦夷地の支配権をふたたび幕府に召し上げられ、そこに松前城の拡充工事が重なって財政が破綻してしまったことである。そして三つ目が戊辰戦争の戦禍で、松前城は激戦の末落城し、市街地も大半が焼失してしまった。藩主松前徳広はなんとか落ち延びたものの、かつて松前藩の豊かさを支えたものはことごとく失われてしまった。
時代が変わり、明治新政府は蝦夷改め "北海道" の開拓を国策の柱のひとつとして進めていくことになった。しかしその中心となったのは新規に建設された計画都市:札幌で、松前藩は廃藩置県により消滅し、かつての松前港は訪れる船もなく人口も減って寂れていくばかりとなった。
…もはやここは、蝦夷地の中心ではなくなったのである。
木古内まで戻る頃合いをみながら、筆者は売店兼休憩所でコーヒーを頂きながら一服、店主氏と雑談をしてみた。生憎(あいにく)の天候で人が少ないですねぇ、と話を振ると 「いやいや、いつもこんなものですよ~、ハハハ♪」 と能天気に仰る。聞けばここが最もにぎわうのは桜祭りの頃だそうで、それを過ぎると静かな日々が淡々と流れていくのみ。……現在の松前は、そういうところであるらしい。
「そういえば、昨日は司馬遼太郎ツアーの方々が来られましたな」
「街道をゆく…ですか」
「たぶん」
「その本でしたら、私も一応(笑)」
その本とは、これである。有名どころなので事前のリサーチも兼ねて筆者も一応斜め読みくらいはしておいた。発行は1985年で、もう30年も前の旅の風景が流麗な筆致で記録されている。
そこに書かれた松前と、現在の松前では、やはり幾分か現在の方が寂しい。特に、町に子供がいなくなっている。司馬遼太郎氏は町をゆく子供たちの描写をたくさん残しているのだが、筆者は今回、子供らしい子供には出会わなかった。
そういえば、昨夜泊まった旅館の女将さんも言っていたな。街道沿いに新しい家が並んでいますけれど、みなリタイアされた人ばかりで、若い人がいないのです…と。
まあそうは言っても、市街地には小学校も中学校もある訳だし、さすがに誰もいないってことは無いだろう(笑) 雨の日に出歩く物好きな子供がいなかっただけなのかも知れない。それもひっくるめて、もし次回があるとしたら、もうすこしマシな天候のときに来てみたい。
…そんな訳で、さすがにもう潮時である。どうせJR北海道のことだから定刻通りに列車が来ることもないだろうけれど(※)、筆者はここでリターンフェーズに入ることにした。
※実際に筆者の乗る予定だった特急列車は15分遅れで到着したのだが(笑)、いちいち目くじらを立ててはいけない。なにしろ、ここは北海道なのだ(ぉぃ ^^;)
■ 原初の海岸
さて木古内に引き返す途上、松前市街地の西側にある弁天島の付近でほんの短い時間、海を眺めてみた。ここは自衛隊の駐屯地があって民間施設がほとんどない一角である。昨日の暴風雨の中では内陸部に避難していたカモメたちは、今日は海岸付近にいる。
そこで何がみえるかというと、手垢のついていない自然の海岸線が延々と続いているのである。護岸工事の洗礼をうけていないナマの松前の海岸線は、船の接岸を容易には受け付けない浅い岩礁をバリケードのように纏(まと)っている。吹きさらしの岬には樹木らしい樹木もない。こんな風景が、見渡す限り単調に続いていく。
かつて渡り党の最初のグループが本州側からわたってきたとき、最初に見たのがこんな風景なのではなかったか。
そこに "定住しよう" などと発想するのは、よほどの好きものか変人か、あるいは…追いつめられて選択肢を失った者に違いない。
しかし結果として、定住は成功し、彼らは居場所を確保した。…そのたくましさを、幾許か筆者も見習ってみたい。そんなことを思ってみた。
<完>