2017.05.05 続:那須疎水を訪ねる
~第二分水を行く~(その4)
■ 品川台地の端面を行く
さてさらに下って、現在筆者は北金丸にあるJUKI工場脇にやってきている。ミシンで有名なこの工場脇を流れる那須疎水第二分水は、見た目は普通の用水掘と変わらず、源流から追いかけてこないとなかなか那須疎水だとは気付きにくい。
そんな地味なところをわざわざ写真つきで紹介したのは、このあたりから品川台地の起伏が始まっていくからだ。那須野ヶ原は火山灰質の扇状地で、数十万年の時を経て侵食され南端付近にはいくつもの分離丘陵が発達した。そのうち最大のものが品川台地である。
台地の上には河川はなく、ゆえに農地にはならず、戦前は今の国際医療福祉大のあたりに陸軍飛行場(金丸飛行場)があって、その南側の台地部分は陸軍演習場として使われていた。
那須疎水第二分水はこの台地の西端~南端を舐めるようなコースで流れていく。ゴールである品川開墾( 傘松農場)は台地の南西側で、字(あざ)でいうと鹿畑~蛭田の付近である。
そんな訳で、終盤はこの品川開墾( 傘松農場)とその所有者であった品川弥二郎の話を織り交ぜながら走って行くこととしたい。那須疎水開削の時代背景の話もしたいのでやや脱線気味になるけれども、まあそこはそれということで(笑)
さて品川台地の起伏はこんな程度(↑)で段差は15~20mほどである。山というよりも丘といった感じの地勢で、これが多少の凹凸を伴いながら10kmほども続いていく。第二分水はこの段差の直下をゆるゆると流れていく。
もうほとんど草に埋もれているような格好だが、ちゃんと水路は続いている。はるばる西岩崎からよくぞここまで続いたものだ。
さてこのあたりでそろそろ那須疎水のキーマンの一人である品川弥二郎について書いておかねばならない。品川台地、品川開墾の名は彼にちなんだもので、那須疎水プロジェクトの功労者の一人である。印南丈作、矢板武が地元側の名士であったのに対し、品川は政府側にあって那須疎水開削を支援した立場にあった。
※写真はWikipediaのフリー素材を引用
彼は長州の出身で戊辰戦争/西南戦争を最前線で戦い、内政にあっては内務省、農商務省で要職を歴任し、のちに内務大臣となった。綺羅星のような維新の志士の中では微妙に地味な存在だが、文武両道に秀で、皇居:北の丸公園の北端、靖国神社の正面入口脇に銅像が建つくらいには尊敬を集めていた人である。
彼は那須疎水の開削を印南丈作らが陳情していた明治16年頃、農商務大輔の地位にあった。丈作らが私費で先行開削を始めたものの資金難に陥って頓挫しかけていたところに、5000円の銀行融資を仲介する援助をしている。
この融資の仲介というのは時代性を考えれば大変なことであった。ここは重要なところなので、少し丁寧に説明しておきたい。
■ 松方デフレと那須疎水の話
ここでまず時代背景を説明しておこう。
徳川幕府を倒した明治新政府は、戊辰戦争、続いて西南戦争の膨大な戦費調達に追われて、やむなく太政官札、次いで明治通宝という紙幣を乱発した。これらは金/銀との交換が保障されない不換紙幣で、額面通りには取引されず特に西南戦争のときに猛烈なインフレを招いた。明治10~14年のインフレ率は平均で10%、これが年々加速してピーク時の明治14年には15%まで上がった。
※写真はWikipediaのフリー素材より引用
このインフレを抑えるため、時の大蔵卿:松方正義は就任早々に過剰に流通した不換紙幣を回収しはじめた。今風の言い方をすればマネーサプライの縮小で、金融政策の方向性としては正しいのだが当時は理論的な裏付けが乏しく一種の冒険と受け止められていた。
その効果は劇薬のごとく現れて+15%のインフレが一気に-20%のデフレに反転した。おかげで国内経済は大混乱となったが、松方は不換紙幣の回収を最優先し、同時に政府の支出を抑えて緊縮財政を行った。これは維新に伴う2度の内戦(戊辰戦争、西南戦争)の財政的な終戦処理ともいえ、江戸時代の遺産ともいえる旧貨幣なども一挙に葬り去る大技であった。
ちなみに通貨発行権が一元化されて日本銀行が設立(明治14年)されたのがこのときで、経済混乱を批判的にとらえて 「松方デフレ」 という言葉が流布しているけれども、我が国の近代通貨制度の基本部分がつくられた大転換期がこの明治10年代なのである。
※よくわからない人は、とりあえず那須疎水がつくられた当時は景気が猛烈に悪いうえに政府にはお金がなかった・・・とだけ覚えておこう!
※写真はWikipediaのフリー素材より引用
那須疎水の整備計画は、この大不況下の緊縮予算・・・という厳しい条件下で行われていた。予算も一発で降りたわけではなく、「試掘」 という名目で小出しになんとか引っ張って来ては使い果たす・・・という繰り返しである。
那須疎水の本幹工事は驚異的に5ヶ月で終わった・・・と書物にはよく書かれているけれど、それは小容量のパイロット水路がそれなりに通じてから一気に拡張したということで、苦労の多かった試行錯誤の部分は勘定に入っていない。
品川弥二郎が那須疎水に最初に関わったのは明治13年の飲用水路(※)開削のときで、農商務省勧農局長として現地視察に訪れたのが最初であった。
この後昇進して明治16年、農商務省大輔(たゆう:現在の事務次官に相当)のときに、印南丈作が那須疎水の先行試掘で予算を使い果たして救済を相談し、予算はつけられないけれども銀行融資の口利きはしようということになった。さきの5000円はこのとき第六十国立銀行から融資されたものであった。現在の価値で5億円くらいであろうか。
この融資がどこのくらい凄いものであったかは、米価の変遷をみると理解できる。明治13年に一石あたり9円28銭だった米価は同17年には4円71銭とはぼ半分になっており、当時の国内経済はもはや金利がどうこう言うレベルではない急降下の最中(さなか)である。こういう時期には銀行は融資の引き揚げ(いわゆる貸し剥がし)に走るのが普通で、新規融資などという博打はしない。それを実現させたのはまさに "政治力" であろう。
※那須疎水の本格工事の前に、飲用水を供給する小規模な水路がつくられた
※銀行融資以外にも品川弥二郎は那須開墾社の株主募集の紹介などの協力もしている
そしてこの融資で貫通したのが、本レポートの最初のほうで紹介した亀山隧道(=最も困難だった工事区間)なのである。これがうまくいったことで本予算が降り、那須疎水の本格工事が始まった。もし失敗していたら計画はそこで頓挫していた訳で、ぎりぎりの状態でプロジェクトはつながったのである。
品川弥二郎が開拓地の払下げをうけたのはこの論功行賞によるものといわれ、本工事の決まったタイミングでしれっと開拓計画に加えられた。現代の感覚ではそれってどうなのよとツッコミが入りそうだが、当時は武家政治の感覚が残っているのでこういう臨時ボーナスがあり得たのだろう。
ただこのとき既に那須西原/那須東原の主要なエリアは他の有力政治家や開墾社が先行して分割しており、彼の取り分は主要開拓地から10kmあまりも離れた飛び地のような場所になった。・・・それが、品川開墾である。
※このあたりの詳細は書きだすと長くなってしまうので、気になる方は西那須野開拓百年記念関連の資料を読むことをお勧めしたい。
■ 品川開墾( 傘松農場)
さてそんな訳で、そろそろゴールの品川開墾の領域に入っていく。
この付近は江戸時代末期には天領と旗本領が複雑に入り組んでおり、人家は巻川の西側(蛇尾側周辺)と那珂川河岸に分布していた。 しかし品川台地付近は標高が高く水が引けないため、ここだけはぽっかりと無人地帯になっていた。
平面図上では一見すると川が近そうにみえる場所だが、箒川や巻川は地表面に対して水面が低すぎ、那珂川、蛇尾川は丘陵の起伏が邪魔をして水路をつなぎにくい。ここに水を引くには東西の細長い分離丘陵のはるか北方から水路を引っ張ってくるしかなく、藩領境界を越えてまでそれを行う者はいなかった。
おかげでここは周辺の村々の入会地として堆肥用の草刈り場くらいにしか利用されていなかった。それが版籍奉還+地租改正に伴って明確な所有者がいないとして官有地に編入され、のちに開拓用地として払い下げられたのである。
ところでここに北方から水を引く場合、地形的には分離丘陵の途切れる大田原城付近の蛇尾川から引水することもできたんじゃないの・・・という指摘もあるだろう。のちには実際に蛇尾川から引いた水路もあるのだが、このときわざわざ那須疎水を延長してつないだのは 「品川弥二郎が那須疎水プロジェクトの功労者だったから」 ということに尽きる。
・・・さずがに、功績を評価された那須疎水を無視して全然違うルートから引水したら 「なんだよお前!」 の大合唱になっていたのではないかな(^^;)
■ 傘松農場跡
ここで第二分水からちょいと分かれて、蛭田集落に寄り道してみよう。ここには品川開梱( 傘松農場)の事務所が置かれていた。現在は "JAなすの" の事務所になっており、記念碑がある。
これがその事務所跡である。 うーむ・・・どうみても 「歴史ある大農場」 という感じではなく、普通の農協なのだが・・・(^^;)
聞けばどうやら農場は途中から信用組合に移行して自作農の共同体みたいな形になっており、戦後の農地解放のときも解体のターゲットとはならず、そのまま農協の地方組織として移行したらしい。個人農場として終戦を迎え、メッタ斬りに分割されてしまった青木農場とはずいぶん違う歴史をたどったのだな・・・
※戦後の農協の枠組みはGHQの食糧統制でつくられ、農地解放とセットになっていた。
さてここで簡単に農場の黎明期について記しておこう。
品川弥二郎の興した開拓農地は、当初は品川農場と称したようだが、枝ぶりのよい松の樹があったことからのちに傘松農場と称した。品川弥二郎本人は中央にいてあまり現地には入らず、当初は片岡政次という代理人を立て、のちには井上平五郎という人が管理人になった。傘松農場の実質的な運営はこの井上平五郎が中心となって行っている。
傘松農場では他の華族農場が西洋農法を大規模に取り入れたのとは対照的に、従来式の水田スタイルで保守的な開墾を進めていた。
品川自身は大の独逸(ドイツ)贔屓で 「西洋貴族は大農場の経営者でもある、日本士族も真似をしなければ」 的な主張をもっていたようだが、その手法は西洋風というよりは和風のあり方を志向したようである。
そのあたりの背景が知りたくて彼の経歴を紐解いてみると、日本で最初の農業団体:大日本農会の初代幹事長に品川の名がみえる。この団体は日本の伝統農法に主眼をおく社団法人で、英国の王室農会をモデルにした一種の農政シンクタンクであった。
これを見る限り、彼の農業に対する保守的な思想はどうやらガチのように思える。西洋礼賛、文明開化のご時世にあって、こういう人がいたというのはなんとも面白い。
ただ従来の伝統農法=水田稲作は水が豊富に得られなければ難しい。不安定だった初期の那須疎水の水量では、なかなか苦労も多かったことだろう。
ちなみに今回は詳細には触れないけれども、農場の実質経営者だった井上平五郎は水の調達に創意工夫を凝らし、のちに蛇川用水、富士川用水を引いて水の確保に努めている。おかげで彼はのちに "水神様" と呼ばれるようになったという。これはこれでひとつのドラマである。
■ 品川神社
さて農場事務所跡を過ぎて、いよいよ品川弥二郎の名を関した品川集落付近にやってきた。
街並みにはこれといった特徴はなく、歴史に興味のない人が見ても 「ふーん」 で通り過ぎてしまいそうなところだけれども、ここは那須野ヶ原開拓の最南端のモニュメントみたいなところだから、しっかりチェックしておきたい。
集落のほぼ中央には、品川弥二郎を祀った品川神社がある。本日のドライブミッションのとりあえずのゴールはここである。日本の郷土史は神社に凝縮していることが多いので、こういうところはぜひとも見ておかねばならない。
参道入口は質素な門柱が一組だけ。駐車場はないので路肩に車を止めて踏み込んでみる。
ここに神社が建立されたのは昭和9年のことで、品川弥二郎の没後34年目のことであった。その頃の品川開墾は入植戸数が約80戸、人口は500名あまりの豊かな農村に育っていた。農場は品川弥二郎の死後井上平五郎の単独経営になっており、既に品川家の所有物ではなくなっていたけれども、故人の遺徳を偲んで農地を見渡せる丘の上に神社が建立された。
境内は現在ではすっかり古色蒼然としてしまっている。しかしここは昭和天皇が皇太子時代に訪れたこともあり、合併前の旧:湯津上村時代は非常にメジャーなスポットであった。
現在でも旧品川開墾の関係者がメンテナンスを続けているらしく、下草は刈られており紙垂も新しかった。境内にはツツジが多く、ちょうど見頃を迎えようとしていた。
那須疎水の流れは、その境内を横切っていく。一般に神社の境内または直前を横切る形で流れる川は俗世と神域の境界を意味し、そこを渡る橋が神橋である。ここでは那須疎水がそんな粋な扱いで神社に取り込まれていた。
水はどんどん分割され、周囲の水田へと散っていく。もう終盤もちかいのでどんどん分割していくのだろうな・・・
神社本殿は、品川台地の段差の上にある。高さにして15mほど。
あたりに人の声はしない。鳥のさえずりを聞きながら、参道を上ってみる。
そんな訳でようやく到着した品川神社本殿。日が暮れる前に到着できて良かった…(^^;)
見れば社殿の造りには華美なところはなく、至って質素である。元々は稲荷社がここにあり、本殿のすぐ後ろにオリジナルの小さな社が鎮座していた。おそらくは神社合祀の勅令(明治39年)によって神社の新規設置が難しくなったので、古社と並立させるような格好で建立したのだろう。祭神は、品川弥二郎子爵ご本人である。
それにしても・・・三島通庸、印南丈作、矢板武、青木周蔵、西郷従道・・・と、那須野ヶ原開拓に主導的な役割を果たした明治の先人達は、皆それぞれの開拓地で神様になっているのだな。
品川弥二郎もその例に洩れず、開拓地で神様として祀られた。もともと日本では人と神の距離が近いとはいえ、那須野ヶ原は本当に人神(ひとがみ)が多い。
それはともかく、とりあえず二礼二拍手一礼。この人がいなければ那須疎水の開通はなかったことを思うと、それなりに敬意は払っておきたい。
ところで品川弥二郎が神様になっているのは、単に開拓地の親分だった・・・というだけではなく、彼が信用組合の祖であることも大きい。
それは開拓事業を通じて、中小零細事業者(開拓農家もその範疇に入る)が主に資金調達の面で苦労し、没落していく様子をみて救済に動いたことに拠っている。・・・おそらくは、松方デフレのときにいろいろと生々しい事例を見てのことであろう。
余談になるが明治時代の銀行は大資本家のみを相手に金融業を営んでいて、中小企業や個人事業主が資金を必要としてもほとんど相手にしなかった。
そこで人々は仲間内で組合をつくって出資金(預貯金の形をとった)をプールし、互いに融通する相互扶助を試みたのだが、素人がお金を集めて銀行の真似事をするのは能力的にも信用力の面からも問題が多かった。
品川弥二郎はその組合活動に法的根拠と資格要件を与えるべく晩年の人生を捧げている。組合業務には金融の他に生産、販売、機材の融通などいくつかの分野があるのだが、それらを整理し、中小企業育成に軸足を置いた独逸式をベースに産業組合法の制定を目指したのである。彼が亡くなったのはこの法律が帝国議会で成立した4日後だったそうで、これに基づいて作られた最初の組合のひとつが、 傘松信用組合つまりこの農場の金融部門なのであった。日本の信用組合の歴史はここから始まっている。
※あまりこの話ばかり書いていると本日のテーマからズレてしまいそうだけれども(^^;)、一般社会での品川弥二郎の評価は、那須疎水という切り口よりも信用組合の祖としてのほうが高い。産業組合法は第二回帝国議会に提案されて否決が続き、第十四回帝国議会でようやく成立した。品川( 傘松)信用組合はこれを待たずに結成され、信用事業のテストケースとなった。
※この信用組合の起源の話を知ってから那須疎水試掘予算の銀行融資を考えると、いかに凄いことであったかがわかる。印南丈作や矢板武がどれだけ地方の親分的な存在だったとしても、品川のような高級官吏の紹介がなければ銀行は融資に応じなかったことだろう。
<つづく>