2021.03.28 嵯峨野~水尾:清和源氏の源流を訪ねる
(その1)
京都郊外で清和源氏について考察してみました (´・ω・`)ノ
さて今回は古いネタではあるのだけれど2012年の同じ日付に京都を巡った記録を元に記事を書いてみようと思う。ちょうどコロナ問題で外出自粛が唱えられている時期でもあるし、せっかく取材して塩漬けにしているネタに日の目を見させてやりたいという想いもある。
今回取り上げるテーマは、日本史に於いて武家政権の中核を担った清和源氏の出自にかかわるもので、その誕生の端緒となった清和天皇の隠棲地、水尾(みずのお)を訪ねてみようというものだ。
清和天皇は平安時代の黎明期、嘉祥三年(850)~元慶四年(881)を生きた短命の天皇で、これといって特別な業績は残していない。しかし彼の代から分岐した子孫はまさに歴史をつくる大事業を成し遂げていった。鎌倉幕府を作った源頼朝、室町幕府を作った足利尊氏、そして血統の正統性は微妙ながら江戸幕府を開いた徳川家康は、みな清和天皇の子孫=清和源氏を名乗っている。このスーパー一族の祖となった清和天皇とその周辺はいったいどのようなものだったのか。今回はそのあたりをゆるゆると眺めてみたい。
今回訪ねたのは京都の中心部ではなく、かつての平安京の碁盤の目から遠く西方に離れた嵯峨野、嵐山を経由して、愛宕山の麓に小ぢんまりと開けた水尾集落に至るルートである。現在の嵯峨野~嵐山界隈は、巨大化した市街地が旧平安京条坊内から広がって住宅街で埋め尽くされている。しかし都ができたばかりの平安草創期には、嵯峨野の特に山側は鬱蒼とした竹林に覆われた寂しい郊外であった。そこに、やがて貴人の隠棲地として寺院や別荘(離宮)などがつくられていったのである。
平安京の政庁=内裏から嵯峨野、嵐山までの距離は6kmほどで、徒歩なら1.5時間、馬なら20~30分くらいであろうか。歴代の天皇はこのくらいの距離感のところに離宮を営み、しばしば院政の拠点とした。しかし清和天皇は嵯峨野や嵐山どころではなく、さらに奥の保津峡を越えて、水尾にまで踏み込んで終(つい)の棲家を求めた。今回は、ここに至るのが目的である。
さてそんな趣向で京都を訪れた筆者であったが、実は今回は広島で用事を済ませた帰路にちょいと寄ったというもので、使える時間は実質1日しかない。深夜着で安宿で一夜を明かしたらダッシュで往復、というせせこましさだが、まあ貧乏人は貧乏人なりに、ささやかな旅を楽しもう。
■ 予備知識としての臣籍降下の話
さてここでまず予備知識として "臣籍降下" について簡単に触れておきたい。臣籍降下とは天皇の血統の中で皇位継承順の低い者が臣下の身分に移行することをいう。子だくさんの皇族が何人もいるとどう頑張っても跡継ぎにはなれない2軍以下の血縁者が大量に発生してしまう。それらを切り離してコアな後継候補のみを残す人員整理が、奈良時代後半から平安時代にかけてさかんに行われた。
臣籍降下した皇族には、既存の有力貴族とは被らない姓が与えられた。当初は橘、大原、文室、岡、氷上、広根、長岡、良岑、清原などがあったが、嵯峨天皇(在位 809-823)の時代に "源" 姓が登場し、淳和天皇(在位 823-833)の時代に "平" 姓が登場してからは、ほぼこの2つに集約された感がある。9世紀半ば以降は、臣籍降下したらとりあえず源氏か平氏という形になっている。
臣籍降下した皇族は今風にいえば天下りの元祖みたいなもので、さすがに無職で放り出す訳にもいかず、朝廷内でそこそこ高位の役職で処遇された。おかげでただでさえ藤原氏が幅を利かせていた中央政界では、ポスト不足により中下級貴族の没落が加速するという副作用を生じた。
日本史を勉強すると飛鳥~奈良時代の頃には様々な有力人物が綺羅星の如く登場するのに、平安時代に入ると途端に 藤原〇〇、平〇〇、源〇〇 ばかりになって 「似たような名前ばかりで覚えられねぇ~っ!」 という状況になるのはこのためである。
ちなみに人数の多い源氏と平氏は、臣籍降下したときの血統から桓武平氏、仁明平氏、嵯峨源氏、清和源氏……などと祖となる天皇の名を関して呼ばれる。このうち平氏は源平合戦で没落したので、後世まで残ったのは源氏の方が圧倒的に多い。
その家系は21系統が確認されており、なかでも繁栄したのが鎌倉幕府、室町幕府、江戸幕府の中心勢力となった清和源氏であった。
そんなわけで、前振りがえらく長くなってしまったけれども、今回はこの清和源氏の祖となった清和天皇の周辺事情を眺めてみようという趣向なのである。
■ 嵯峨野への道
さてそんな訳でいきなり出発してみよう。京都駅前からゆるゆると出て国道1号線を進み、堀川五条から西に折れて郊外に出ていく。ここから国道9号線を西行し、府道113号、同29号を経て桂川に沿って嵯峨野を目指した。今回は京都中心部の街並みを観光する予定はないので、思い切って郊外シフトで行くことにする。
ちなみに本日の足となるレンタカーはダイハツムーヴである。ほとんど値段の安さだけで選んだようなクルマだが、これから行く嵯峨野~嵐山界隈は道幅が狭いので軽自動車のほうが取り回しがよいだろう。 短い道中だが頼りにしているぜよ♪
■ 嵯峨野、そして秦氏の話
さて清和天皇について語りたい……という動機で書き始めた本稿だが、実は清和天皇が出てくるのは話の後半で(ぉぃ ^^;)、前半は朝廷の力の落ちた時代について訥々(とつとつ)と書いていくことになる。
何の話かというと "平安時代以降の天皇はとにかく政治権力がなかった" という内容で、あまり気分のスカっとする話ではない。ただ日本史の大きな流れを俯瞰するとき、この内容を知っているかどうかで理解の深さは全然違ってくる。嵯峨野というところはそれが非常によく見える土地柄なので、面倒がらずに見ていこう。
ただしドライブコースは年表の順番に並んでいる訳ではないので、話はあちこちに飛ぶ。まあこれはいつものことなのでご容赦頂きたい(笑)
話の前振りとして、まず嵯峨野の地理を簡単に紹介したい。上図のマップで左右に流れる太い川=桂川の奥側の平野が嵯峨野、手前が嵐山である。この付近は大和朝廷の草創期には朝鮮渡来の秦氏が居住していたところで、5世紀の古墳時代の頃からぼちぼち開拓が進んでいた。
しかし耕地が開かれたのは手前の嵐山の近傍から南側が主で、嵯峨野の特に北西部はなかなか農地にはならなかった。一見すると平地のようにみえる嵯峨野は、実は細かな起伏や傾斜が多くて水を引きまわしにくく、農業(特に水田耕作)には向かなかったためだ。
秦氏は当時としては驚異的な技術水準をもつテクノクラート集団であった。しかし政治的野心には乏しく、官僚や職人集団として名を残すに留まる。その本拠地は嵯峨野の太秦(うずまさ)で、飛鳥~奈良時代のころの勢力圏は上図のようなものであった。
ここには平安遷都の170年前、奈良遷都の80年前の段階で広隆寺という京都最古の仏教寺院があった。これは聖徳太子が仏教を受容したのとほぼ同時期で、当時の秦氏の棟梁:秦河勝が聖徳太子から仏像を賜った逸話が日本書紀にみられる。山城平野にひろく支配地域をもっていた秦氏は財力もあり、桓武朝の2大遷都、長岡京と平安京の造営にも大きく関わった。
図中には平安京と並んで長岡京の領域も示した。実は長岡京の建設責任者(造長岡宮使)=藤原朝臣種継の母親が秦氏(秦朝元)の娘で、長岡京の建設には秦氏の財力と建設術が投入されている。ちなみに秦朝元は朝廷の主計頭で財務官僚であった。他に秦忌寸足長、太秦公忌寸宅守、秦忌寸都岐麻呂など一族の者が関わった。
平安京に関しては平安京造営使であった藤原小黒麻呂の妻が太秦嶋麿の娘であり、建設を担当した役所(造営省)の棟梁に秦都岐麻呂に名がみえる。また秦氏の傍流にあたる勝益麻呂が平安京造営に役夫3万人を提供して工事を支援した。また村上天皇記によれば平安京の内裏はかつて秦氏の棟梁=秦河勝の邸宅跡だと言う。
こういう話は書き始めるとキリがないので端折るれども、嵯峨野に根を張っていた秦氏の一族が長岡遷都、平安遷都を実行した桓武天皇(※)の元で大きな協力をしていたことは知っておこう。
※桓武天皇は当初は皇位が回ってくる可能性がないと思われていて、山部王時代には朝廷内で職員として勤務し大学頭などの仕事をしていた。この大学頭は官僚の教育、人事評価や昇格試験などを担当する役職で、桓武天皇はこの時代に 「誰がデキる奴か」 「誰が何を得意とするか」 を把握していた可能性が高い。即位後に矢継ぎ早に改革政策が実行でき、秦氏の一族を多く登用したのもその延長線上にあると言われる。
さて嵐山のシンボル的な存在である渡月橋がみえてきた。ここも書き始めると筆が止まらなくなりそうだが、なるべく控えめにまとめていこう。嵯峨野の歴史にとってここはとても重要なのだ。
渡月橋は京都観光においては定番の写真スポットである。しかしここでは芸術性はスルーして、すぐ上流側を眺めてみる。
そこに何があるかというと、用水路なのである。川面よりも用水路のほうが高い位置にあることに注目して頂きたい。これは奥にある堰で水を堰き止めて高さを稼ぎ、そこから引いているものだ。現在の水路は近代工法で小奇麗に造ってあるが、これと機能が同等の物を1500年前に造った連中がいる。さきに紹介した秦氏である。
この堰は一の井堰または葛野大堰(かどのおおい)と呼ばれる。浅い川床に大量の杭を打ち込んで堰としたもので、古墳時代に大陸から渡来してきた秦氏が造り、代々補修されながら使われている。この技術があったことで、秦氏は先住民がほとんどいなかった京都盆地の西側一帯に水を引き、穀倉地帯に変えて住みつくことができた。当時としては画期的なことである。
渡月橋を渡って嵐山側に入ると、水路の説明図があった。現在でもこの用水は周辺を潤している。ただし図をみてわかるように水は高きより低きにしか流れないので、北側の標高の高いエリアには水は回らない。秦氏の本拠地であった太秦はこの水利の回る範囲で営まれた集落で、ちょこっとでも標高の高いエリアは墾田にはならなかった。
※図中に松尾大社とあるのは秦氏の氏神である。
さて堰を造って何がおこるかといえば、上流側に水深のある安定した水域ができる。現在では屋形船が営業していて、季節がよければ新緑や紅葉を眺めながら船遊びが楽しめる。かつては皇族や公家の舟遊びの場にもなった。
しかしそれよりも実利の点でここは画期的なのである。平安京造営時、ここは桂川上流の亀岡(亀山)から材木を輸送する集荷場として機能したという。トラックや鉄道のない時代、陸上でもっとも効率的にモノを運ぶ方法は川に流すことである。新首都建設に用いる膨大な物量が、ここを経由して効率的に供給された。
実はこの桂川上流域=亀岡盆地も秦氏が開拓した土地であった。もともと洪水が多かった湿地帯で、やはり治水工事を行って良田にしている。その発展は平安京よりずっと早く、建都に用いられた瓦などの物資は亀岡から川を下って運ばれているのである。
それにしてもこの工学的な合理性とシステマチックな運用のなんと素晴らしいことか。もう土地の提供から作業員の手配から、建築技術の提供に資材の供給まで、ほとんど全部、秦氏の仕事なのである。
しかし新首都=平安京が完成してもそれで嵯峨野のすべてが潤ったわけではなかった。渡月橋から北側の、現在観光的なイメージで嵐山とか嵯峨野と呼ばれている狭いエリアは、あいかわらず水が引きまわしにくく低開発状態に置かれていた。秦氏は養蚕もよく行ったのでもしかすると桑畑などに使われた可能性もあるが、なかなか資料がみつからないところをみると特筆するほどの活用はなかったとみるべきだろう。
なおこの付近には5世紀頃から古墳がぼちぼち増えており、かつては死者を葬る場所として認識されていたことが伺える。のちにそれが一新されて貴族の別荘が立ち並んだことを考えると、時代の変遷具合がなんとも面白い。
さてあまりこの話ばかり引っ張るとなかなか主題に入れなくなってしまうので、この項を簡単にまとめて切り上げることとしよう。
開拓に功のあった秦氏は、やがて歴史の中に埋没していった。9世紀末ごろ惟宗の姓を賜って秦の名を使わなくなり、その後は中級官吏としてたまに文献に名が出るものの、歴史を揺るがすような事件に関わった形跡はない。他の中下級貴族と同様に、地方に散って土着の道を歩んだ者が多かったのではないか……と、筆者は推測している。
しかし彼らの整備した京都盆地の西側では、その後の日本史を動かす仕込みのような動きが静かに進行していった。これから順次、それを眺めていこう。
(つづく)