2021.03.28 嵯峨野~水尾:清和源氏の源流を訪ねる
(その2)
■ 天龍寺に見る天皇の権威と武家政権の諸相
さてそれでは渡月橋から戻って、嵯峨野側の様子を眺めてみよう。京都郊外はとにかく寺院が多いけれども、それらの多くはかつての上皇や上級貴族の離宮、別荘から発展したものだ。
なかでも渡月橋からわずか200mの距離にある天龍寺は代表的な離宮であった。現在は寺領が縮小して周辺はすっかり商店街で埋め尽くされてしまっているけれども、往時は桂川河畔までがひろく境内であった。
ここを最初に整備したのは嵯峨天皇(786-842)の皇后:橘嘉智子で、平安京遷都から間もないころのことである。もとは私的な禅寺(檀林寺)が置かれていたが、のちに後嵯峨上皇(1220-1272)、亀山上皇(1249-1305)が離宮を営んで院政を敷き、室町時代になってから足利尊氏が後醍醐天皇の菩提寺として整備を行い天龍寺となった。
離宮の主であった亀山上皇は、かの渡月橋の命名者でもある。先に紹介した葛野大堰(かどのおおい)で舟遊びをしながら月を眺め、橋の様子を月が渡っていくのに似ていると評して渡月橋の名がついたという。平安遷都から500年あまりのちのことだ。
※名前は似ているけれども嵯峨天皇(上皇)と後嵯峨天皇(上皇)は5世紀あまり時代の異なる別人なので注意したい
そんなエピソードを紹介すると 「舟遊びとは風雅よのう~」 と思われる方もいるかもしれない。
しかし亀山上皇、およびその父帝である後嵯峨上皇の治世は天皇の政治力が非常に弱くなっていた時代なのである。風雅とか風流とか言われる貴人は、詩歌管弦では名を残しても往々にして政治権力とは縁がない。
この時代は鎌倉時代の中盤頃で、もう武士の時代になっている。承久の乱(1221)で朝廷に勝利した鎌倉幕府は朝廷の財政基盤であった荘園に地頭を置いて税の徴収をはじめ、京都には六波羅探題を置いて朝廷の監視を強化していた。
このとき乱に参加した公家や武家は没落し、所領は没収され、朝廷は力を失ってほぼ完全に幕府の影響下に置かれている。さらには天皇や上皇の意思のみで重要事項を決定することはできなくなり、評定(ひょうじょう)つまり合議を経ることが必須となった。この評定衆の中には幕府の代表もおり、鎌倉にとって都合の悪い案件には拒否権を行使したので、皇室にとってはなかなかやりにくい気の毒な時代であった。
学校で習う日本史では、この時代は鎌倉幕府の源氏三代とその後の執権北条氏の記述がメインで、天皇の存在感は乱を起こした後鳥羽上皇を除いては空気のように薄い。それどころか明治維新が起こるまでほとんど天皇(朝廷)の存在感はなくなってしまう。
日本史における天皇の政治力の推移をざっくり年表風に整理してみると上図(↑)のようなものであろうか。古くは飛鳥時代、大陸での隋・唐の急速な勢力拡大に伴う安全保障上の危機感から、律令の制定や中央集権化の試みが行われ、強力な権限をもったリーダー(天皇)が国家の意思を決定する仕組みが、奈良時代になって一応の完成をみた。
しかし中国皇帝をモデルにした統治機構には弊害も多く、10年毎に繰り返されるプロレスのような粛清劇と予算の概念を無視した巨大土木事業の乱発、仏教への極端な傾倒、さらには血統的にどこから湧いて出たのか怪しい仏教僧:道鏡への政権移譲が画策されるに及び 「これはマジでヤバイことになるんじゃね?」 との共通認識が広まった。
やがて問題児を輩出した天武系の皇統が孝謙天皇で断絶したのち、天智系の光仁天皇、桓武天皇が即位すると、側近である藤原氏の勢いが強まって天皇の政治力の切り崩しが始まる。奈良から京都(平安京)への遷都は桓武天皇が有能な実務派だったために力業で乗り切ったが、その後はわずか数十年で藤原氏の世に変わってしまった。ここは日本古代史のおおきな転換点である。
以降は藤原摂家 → 武家へと権力がゆるやかに移っていく過程が400年余りにわたって続いていく。途中幾分かの寄り戻しはあったものの、ふたたび奈良時代のような中国皇帝スタイルの天皇が復活することはなく、政治闘争は主に貴族と武家によって行われるようになった。こうして空気のように存在感の薄い天皇が代を重ねていくことになるのである。
■ 日本の統治原理とは
ここで素朴な疑問が湧いてくる。空気のように存在が薄くなったのなら、どうして天皇の一族、およびその政治機構である朝廷は滅亡しなかったのか?
これには理由がある。朝廷が細々ながらも存続したのは、平安時代にあっては藤原氏が皇室に娘を入内させて皇后とすることで権勢を維持したこと、そして武家が台頭したのちは幕府を開く法的根拠として律令が機能したことによる。ちょっと寄り道をしてこのへんの事情をすこし紹介してみよう(寄り道ばかりで申し訳ないけれども ^^;)。
西洋史や日本以外のアジア史を基準とすれば 「え? 武力で打倒してしまえば国なんて乗っ取れるじゃん」 という感覚になりそうだが、日本はそうではない。武家政権=幕府はあくまでも律令の仕組みの中で運営されていて、これを開くには朝廷の与える位階で従三位以上との要件があったのである。日本史を見るうえでここは微妙に重要だ。
たとえば源頼朝は正二位で征夷大将軍となり鎌倉幕府を開いた。その後に室町幕府を開いた足利尊氏も正二位で征夷大将軍となり、さらに戦国時代を経て江戸幕府を開いた徳川家康は従一位で征夷大将軍となっている。
位階とは貴族(公卿)としてのステータスであり、古代の有力豪族の血統なら初期値高めのチートキャラ、そうでない場合は底辺スタートで、政治的、軍事的な勲功を立てることで朝廷からレベルアップの通知をもらう。学校の授業ではこういうルールを教えないので政権交代の様子がどうにもわかりにくいのだが、ちゃんとレベル上げにもステージクリアにも条件はあり、その中でゲームが行われているのが日本史なのである。
この仕組みは飛鳥時代に律令体制への移行が模索され、全国の豪族が合意して領地領民を朝廷に差出し公地公民制が始まったときに遡る。古くは官位十二階、十三階、十九階、二十六階、四十八階(どんどん細かくなる)、大宝律令以降は整理されて三十階(上図)となったが、最初に合意があって始まったという事実が普遍性をもたらした。
形式的ではあってもこの位階を授与する/されるの関係があったこと、および過去の歴史+伝統=政治的正統性という付加価値があったことで、武家政権成立以降も朝廷は命脈を保つことができた。日本人はどういうわけかこういうルールを律儀に守る民族で、いくら剛腕マッチョな勢力が台頭して武力を誇示しても、 そこそこ朝廷とうまくつきあえないと安定した政権は作れないのである。
さて話を亀山天皇の時代に戻そう。
さきに述べたようにこの時代は承久の乱で朝廷が鎌倉幕府に敗北して 「監視される側」 になってしまった少々特殊な時代に当たる。執権であった北条氏は位階でいえば四位~五位くらいの家柄で、本来なら幕府を開設する資格は無い。だから源頼朝から始まった源氏の将軍が3代で絶えたのちは、幕府の正統性が怪しくなった。承久の乱は、これに対する朝廷側の壮絶なツッコミともいえる事件である。
乱について書き始めると脱線が長くなるので詳細は省略しよう。勝利を得たのは用兵の巧みな鎌倉幕府の側であった。それも怒涛のトコロテン押しであっという間に京都を占領。首都陥落までの手際は鮮やかで、文字通りの完堕ちであった。 しかしそれでも朝廷を滅ぼさないのが日本的な采配なのである。
ただ勝ってはみたものの北条氏側も多少うしろめたいところがあったようで、正統性に関しては京都から位階の高い公家や皇族を招いて形式上の将軍(摂家将軍、宮将軍)とし、北条氏が執権として実務を行うというムニャムニャな体制が出来た。怪しいところは多々あれど、これでぎりぎりセーフの状態にはなった。
後嵯峨上皇、亀山上皇が院政を敷いていたのはこの頃で、ぎりぎりでも何でも形式上は正統性がある形が出来上がってしまったので、幕府の支配を覆すことはできないままに終わった。まあ気の毒といえば気の毒な話である。
■ 亀山天皇陵/後嵯峨天皇陵
さてその亀山天皇(上皇)と父帝である後嵯峨天皇(上皇)の陵墓にやってきた。
一般の観光客がゾロゾロと庭園のほうに流れていく中、こちらにはさっぱり人通りがない。静粛なことはまことに結構なのだが、誰もいないというのはちょっと寂しいな。
ここは現在は宮内庁の管理下にあって、仏教寺院の中にあっても神式で運営されている特殊な空間だ。筆者が天龍寺にやってきた理由はこれを拝観してみたかったというただ一点に集約している。 とりあえず、礼節をもって上皇殿の御霊に拝謁してみよう。
天皇陵は親子二代が並んで配置されていた。写真左奥が亀山上皇陵、右が父帝の後嵯峨上皇陵である。この時代の上皇は出家して僧籍に入るのが一般的であったため、天皇陵も仏式のお堂(法華堂)となっている。平安~鎌倉時代の貴人は火葬(当時は高級な葬儀とされた)を希望することが多く、お堂形式の陵には骨壺が安置された。
……が、驚くべきはその小ぢんまり感で、そのへんの田舎の地蔵堂と大して変わらないんじゃないの、と言いたくなるようなサイズ感なのである。
これを天皇の政治力がきわめて強かった奈良時代と比較してみるとそのスケール感の違いに驚く。 参考までに奈良の孝謙天皇陵の写真(↑)を紹介してみるが、こちらは長さ127mもある前方後円墳で文字通り "山" である。父帝である聖武天皇陵も同じくらいのサイズがある。
近代では明治天皇陵が約60mの上円下方墳(墓苑として整備されている領域まで含めると200m以上)として造られている。天皇に権威があった時代の墓はやはりそれなりに大きくて立派であることが伝わるだろうか。
※奈良時代の天皇陵に関しては古墳時代の別の豪族の墓なんじゃないの、と主張する学者先生もいるのだが、ここでは宮内庁の公式見解に基づいて書いている。
それがここでは、小さなお堂一つにまで縮小している。これは他の天皇陵にも見られる傾向で、不動産管理の主体が国家から民間に移行した影響とみられる。
奈良時代までの天皇陵は国家(朝廷)が造営し、専属の職員を置いて維持管理するものであった。しかし平安時代に入り寺院内につくられる陵墓が増えると管理はだんだん寺院主体に移って朝廷の関与はなくなってしまう。おかげで安普請どころか、やがて墓自体が所在不明となるケースが頻発するようになった。
じつはこの天皇陵も再建されたもので、行方不明の事例のひとつになる。
御嵯峨上皇/亀山上皇の離宮内にあった浄金剛院(天龍寺の前身)の境内に陵が造られたことは記録にあるものの、足利尊氏が天龍寺として境内を整備した後に消息が途絶える。そしてそのまま500年あまり所在不明のまま放置されていた。
これが再建されたのは、幕末の "文久の修陵" と呼ばれる事業によるもので、尊王攘夷の世相を背景としてふたたび天皇の権威が見直され始めた機運による。 天皇陵の調査/修復は江戸幕府によって数次にわたって実施されており、所在不明であった両帝に関しては浄金剛院の跡地に比定され、そこにお堂を再建ということで解決が図られた。
これに関しては考古学的な観点から物申したい研究者もいるようだが、天皇陵は現在宮内庁が管理しており、とりあえず祭祀上の問題はない(※)ということになっている。
※神道では祭祀により自由自在に神霊に御遷座頂けるので 「現に祭祀が行われている」=「そこに神様(天皇の神霊)はいらっしゃいます」 という理屈になるため。
それにしても、生前の存在感がそもそも微妙で、死後はすっかり忘れ去られてしまうとは、なんと不憫なことであろう。京都は応仁の乱~戦国時代にかけて荒れ放題になった時期があり、天龍寺の栄枯盛衰もその影響を受けたのだろうとは思うけれど、もうすこし真面目に管理してあげられなかったのだろうか。
■ 野宮神社~竹林の小径
さてなかなか清和源氏にストレートにつながらなくて申し訳ないが、まだ準備段階の話がつづく。天龍寺の庭園の北辺に至ると、一面の竹林が広がっている。ここも嵯峨野(※)の歴史を考える上では外せないので少しばかり触れておきたい。
※地番としては嵯峨なのに嵐山を名乗っている施設が多くて 「どこまでが嵐山なんだよ」 と突っ込みたくなるのはまあ……アレとして(笑)
周囲をMAPに起こすとこんな状況である。現在ではすっかり住宅地に浸食されているけれども、かつての嵯峨野にはひろく竹林が繁茂していた。その一部が天龍寺北辺に残されていて、景観保存地区になっている。
境内から出ると、おおCMや映画に出てくる京都ってこんな感じだよな……という風景がいきなり広がっていた。ほとんどが孟宗竹で、後述する野宮神社にあやかって野宮竹などという呼び方もされるらしい。
嵯峨野には昔からひろく竹林が繁茂して、竹細工の材料として使われていた。京都では戦後にタケノコ栽培のために竹林が増殖した時期があるが、ここは古くからある竹林である。タケノコ栽培用の竹林はマメに間伐するのでスカスカになっているのに対し、天然林は密に竹が生えているのでざっくりと区別できる。
普段はあまり写真のネタにならない萱垣の向こう側を見てみると、うねうねと連なる石ころだらけのゆるやかな丘陵が続いている。
開拓地に住む筆者には、こいう風景にはピンとくるものがある。農業用地として開かれた土地では、土づくりの過程で徹底的に石を取り除くという作業がある(開拓地の所々にそれが積まれて山になる)。ここにはその痕跡がみえないので、たぶん農地として本格的に利用されたことはないのだろう。
その起伏はほんの数メートル程度。近代土木の技術であれば、びっしり張った竹の根をとりのぞき平坦化するのはさほど難しくない。しかし古代にあっては、人々はより開拓しやすい南側の土地を優先して利用し、ここは後回しにされた。
嵯峨野史に関する文献では 「水掛かりが悪い」 という表現が随所にみられる。桂川より標高の高い嵯峨野北西部には葛野大堰の神通力も届かず、域内に瀬戸川、有栖川という小河川があるものの、うねりのある丘陵の連続のなかでは水路を展開するには至らなかった。その結果が、この風景なのだろう。
ためしに国土地理院の航空測量MAPで高さを5倍に強調してみると、都市開発の進んだ現在でも嵯峨野には不規則な凹凸があるのが伺える。
対照的なのが京都御所付近である。どちらが水を引きまわし易いかは一目瞭然。平安京が造営されたのは、もちろん平坦な地区のほうである。
さて竹林のなかには野宮神社(ののみやじんじゃ)が鎮座していた。これもかつての嵯峨野を象徴するものだ。現在は神社として定置定住の状況にあるけれども、もとは天皇一代毎に点々と場所を変えながら営まれてきた野宮(ののみや)である。
皇室の祖霊社である伊勢神宮には内親王(天皇の未婚の娘)が斎王として奉仕する習わしがあり、神宮に入る前にこの野宮に入って1年間の潔斎(斎戒)つまり身を清めて静かに過ごすことが定められていた。
潔斎ということは人に会うことも外出も控えて、食事も精進の品に限り、物忌みのようなひっそりとした生活を送るということである。源氏物語では光源氏がムリヤリ押しかけて一夜を(自主規制)な展開があったりもするのだが、重要なのは紫式部の時代(西暦1000年前後)まで至っても、ここは閑静な引きこも……隠棲の地と見られていて、街の賑わいとは無縁であったということだろう。
そこから時代がさらに下ってもこの付近の低開発状態は続き、いつのまにか詫び寂びの雰囲気を帯びた閑静な土地柄となった。 文学的あるいは観光的な価値はあったかもしれないが、カネになる産業(=農業や工業)は育たなかった。
要するに、ここが長らく古い風情を保ったのは、多分に荘園としての旨味に欠け、平安の大貴族たちも、その後に勃興した武士たちも、本気で奪い取って開発投資しようとは思わなかったという、そんなオチだったのではないだろうか。
……というか、こういう評価の仕方をすると源氏物語ファンとか京都大好き文化人の方々にぶっ飛ばされてしまいそうな気がするな(笑)
(つづく)