2021.03.28 嵯峨野~水尾:清和源氏の源流を訪ねる
(その4)




■ 愛宕街道(府道50号線)を行く




おっと歴史談義が長くなりすぎた。あまり寄り道が過ぎるとタイトル詐欺になってしまうぞ(笑)

念仏寺を出た後は愛宕街道=府道50号線を西進して、いよいよ清和天皇の隠棲地である水尾を目指していくことにしよう。それにしても相変わらず猛烈に道が狭い。 レンタカーを軽自動車にしたのは正解だったな。




地理的には、かろうじて嵯峨野と呼称できるのはさきほどの念仏寺のあたりまでだろう。そこを過ぎると急に山道然とした路面になる。京都中心部の喧騒を見てからクルマで郊外を目指すと、そのあまりの落差ぶりに愕然とする。

しかしこんなところでも一応幹線道路なのである。かつて京都から丹波方面に抜けるには、この水尾ルートと南方の亀岡ルートの2つの道が通じていた。標高 500 ~ 1000m 級の山々が連続する丹波山地にあって、ここはちょうど谷部がうまく連続して極端なアップダウンなく道を通ずることができた。古代の人々は巧みにそのようなルートを見出して街道としたらしい。




現在進んでいる府道50号線は鬱蒼とした杉林に囲まれていて視界はさっぱり効かない。進行方向左側、r50の南側には小倉山の斜面が広がっているはずだがちょっと確認できなかった。藤原定家が小倉百人一首を選じたところなのでチェックしておきたかったのだけれどな。




こんな寂しい道の奥地に隠棲した清和天皇は、嵯峨天皇から4代後に登場した。在位期間は天安二年(858)~貞観十八年(876)で、嵯峨天皇から約半世紀後の帝である。



 

■ 清和天皇の話



さてそれではようやく、清和天皇の話をしようと思う。とはいえ書くことは少ない。清和天皇には、政治的な成果はなにひとつ無いからである。ただ生きて、没して終わった。

なにしろ生後わずか8ヶ月で立太子、9歳で即位というあまりに幼い登場で、そこには本人の意思などまったく関係がなかった。背後に居たのは太政大臣にて摂政の藤原良房であり、実権は良房が握り続けていたためだ。

この藤原良房は、人臣初の摂政として知られる。本来天皇を後見する摂政の地位は皇族のみに限られたものだったが、巧みな政治力を駆使した良房は清和天皇の代でその地位を得て、ここから藤原摂関政治の時代が始まるのである。摂政とは天皇の代理人であり、摂政が政治力を握っている限り天皇はなにもできない。その最初の犠牲者?が清和天皇であった。

※画像はWikipediaのフリー素材より引用



ちなみに良房が権勢を得た背景には、本人の才能ももちろんあったのだが、嵯峨天皇の娘(源潔姫)を夫人に迎えたことが大きなアドバンテージとして作用したとされる。

ここでいくらか補足しておきたい。普通は天皇の皇女が臣下に嫁ぐなどあり得ないのである。しかし潔姫はさきに紹介した大量の臣籍降下の一人として皇籍を離れた直後だった。この大規模リストラではみな行先に苦労したようで、その中でこんなミラクルが起きたのである。

良房はこれを最大限に利用して天皇の外戚として影響力を行使し、文徳天皇に干渉して生まれたばかりの惟仁親王(清和天皇)を立太子させた。このとき惟仁親王には3人の兄皇子がいたのだが、一番幼い惟仁親王が選ばれたのは、おそらく摂政として操りやすいと踏んだのだろう。

※画像はWikipediaのフリー素材より引用:菊池容斎画 [前賢故実]




さて清和天皇の形ばかりの治世であった天安二年(858)-貞観十八年(876)の間に起きたトピックスというと、ほとんど唯一の事件が応天門の変(866)であろうか。平安宮にあった応天門が放火され焼け落ちたもので、当時まだ中央で生き残っていた古代豪族の末裔=大伴氏、紀氏が犯人とされ、没落することとなった。本当の犯人が誰かは、現在に至っても謎のままである。

これに何の意味があったかといえば、藤原氏に対抗できる有力な氏族が、これで中央政界からいなくなってしまったのである。既に死刑は廃止されていたので判決は流罪となった。その行先は伊豆、佐渡、安房、土佐、能登、越後、日向、薩摩、下総、上総、隠岐、壱岐と遠方ばかりで、大伴氏も紀氏も、バラバラに散らされてもはや戻ってくることはなかった。

こうしてかつては多様性をもっていた中央政界は、ブラックバスの放流された池のように在来種が駆逐され、藤原氏ばかりが跋扈するバス池になり果てた。あとは同族で食い合うばかりの蟲毒の世界である。

かつて平安遷都を成し遂げた桓武天皇は、元は朝廷の官僚であって、実務能力の高さから権力をよく掌握していた、しかしその後の展開を眺めていると、わずか半世紀でよくもここまでグダグダになったものだと思う。嵯峨天皇の代で朝廷の規律がグズグスと崩れ、一気呵成に藤原氏においしいところを持っていかれて、清和天皇の代でチェックメイトとなった。おそらく日本史を学ぶ人がいちばんツマラナイと感じるのが、このあたりではないか。

※画像はWikipediaのフリー素材より引用:伴大納言絵詞(部分)




そんな藤原氏一強の政界で、清和天皇がその後何をしたかというと、何もしないまま退位してしまった。皇位は第一皇子であった陽成天皇に譲位されたのだが、生後3ヶ月で立太子、即位が9歳という幼帝で、そこに自己決定権があったとは思われない。

清和天皇は退位した時27歳。現代ならまだまだバリバリの新鋭社員という年齢だが、退位後もなにもすることなく2年あまりを過ごし、なにを思ったのか前触れもなく出家して畿内の仏寺を巡り始めた。そして半年余りの放浪ののち、元慶四年(880)三月になって水尾に入るのである。




水尾入りが元慶四年三月の何日頃だったのかはわからないが、仮に月半ばの15日だったとして太陽暦に換算すると4月27日になる。本日が3月28日であるからほぼ1カ月後、新緑の良い季節に保津川沿いを遡ったということになる。




しかし清和天皇(上皇)が翌年の新緑を見ることはなかった。病を得て同年十二月に崩御したからである。ここを通った時、もう彼の残りの寿命は8ヶ月を切っている。 そしてその最後の日々で、彼は生まれて初めて自分のささやかな意思、「ここで人生を終えたい」 を表明するのである。



 

■ 保津峡へ




さて筆者は六丁峠を越えて保津峡へと向かっている。道はゆるゆると下り、切り立った渓谷の底に降りていく。とりあえず舗装はしてあるけれども実質的には林道みたいなものだ。

……ということは、この先にある水尾も京都府にとってはさして大きな観光資源とは見做されていないのだろう。少なくともバス路線は通じていない。




やがて保津峡が見えてきた。嵐山の渡月橋のあたりまでは桂川だった川が、この区間では保津川と名前を変える。見れば深い緑が印象的な川筋だ。

オンシーズンには川下りの舟がいるようだが、今日のところは姿はみえない。新緑の頃、あるいは紅葉の頃には良い景色がみられそうだな。




途中、ちょっとクルマを停めて小休止。対向車はなく、後方から追い上げてくる車もない。ほんとうに静かなものだ。




街道にはところどころにトンネルが穿たれていて、現在の道は狭いながらもトンネルを抜けて比較的まっすぐに整備されている。しかしかつての道は崖の縁を這うように抜けており、ちょっと間違えたらクリフハンガーな展開が待っていた。




トンネル脇には旧道が巻き道として残っている。軽自動車でもちょっと通行を躊躇してしまいそうなギリギリ具合で、かつての交通事情の大変さが伺えるシロモノだ。普段は篭とか輿に乗って外出するようなエライ人でも、さすがにこんな崖っぷちでは自分の足で歩かざるを得なかったのではないかな。




やがて保津川にかかる鉄橋が見えてきた。トロッコ電車にしては複線化していてゴージャスだなと思いきや、これは山陰本線であるらしい。京都から福知山に抜け、日本海沿いを鳥取、出雲を経由して山口県の長門までを結ぶ路線だ。そんな主要路線が嵐山の山中をトンネルで延々と抜けていて、保津川を越えるほんの一瞬だけ顔を出すのである。

ちょうど京都方面から下ってきた列車が停車するところで、狭いところにムリヤリな仕様で造った駅のようだ。面白いので、せっかくだからちょこっと寄ってみよう。




付近の状況を図に起こすとこんな感じ(↑)になっている。

ここは保津峡駅という無人駅らしい。周囲に人家は1軒もなく、店舗やリゾート施設がある訳でもなく、降りる理由があるとすれば視界のほとんど効かないトンネルばかりの区間で、ほとんど唯一保津峡の景観を眺めることができる……というくらいのものだろうか。




簡易的ながら駅舎はあり、クルマも3台くらいは停められるスペースがある。万年OPEN状態の改札口はフリーパスで、ホームへの出入りは自由だ。




おお、ここなら保津峡の流れがいい感じで捉えられる。クルマでやってくる人にとっても、カメラアングル的にこの駅はなかなか良い撮影ポイントとなりそうだ。




……が、清和天皇という切り口でここにやってきている筆者は、敢えて文明の利器である自動車道路や鉄道を視界から消し去って、1200年前にここを通って水尾に向かうという情景を思ってみた。京都の一等地で "天皇" などという位をもって生活していた殿上人に、ここは決して優しい風景ではない。




それでもなお、このさらに奥地に進み、そこで生涯を終えたいなどと思うのは、もはや厭世感そのものとしか言いようがない。世の中の何もかもがイヤになり、無意味に思えて、もう都の生活に未練はない。そう思ったからこそこんなところを遡ったのではないかな。




駅の案内板をみると、現代の水尾は柚子の里として売り出しているらしい。
さて、もうあとひと踏ん張り。いったい水尾とは、どんなところなのだろう。


(つづく)