2023.11.19 袋田の滝の紅葉(その2)
■大子
さて茶畑を見た後は大子の市街地を抜けて袋田の滝を目指す。移動距離にして10km程度なのでささっと抜けていく。 …が、滝に到着する前に、この距離感で確認しておくべき地理的な状況があるので説明しておきたい。
これは同じMAPを西側から3D図で見たもので、手前がJR水戸線の袋田駅、奥側が袋田の滝になる。画面の左右方向(実際には南北方向)に段差のようなものがあるのが分かるだろうか。
この段差は今から1500万年ほど昔に形成された溶岩層で、当時海底だったところに火山の噴火があった痕跡と言われる。それが傾斜しながら隆起して茨城県の陸地部分が形成され、周囲の地層より溶岩層が硬かったために浸食されずに段差となった。袋田の滝はこの段差部分を川が流れ落ちているものだ。
これを軽く頭の片隅に置いて風景をみると、なかなか面白い状況になっていることがわかる。
さてその滝がだんだん近づいてきた。
R461を進んでいくと袋田小学校を過ぎたあたりに袋田温泉があり、そこから滝に向かう支道が分岐する。見ればこの付近の紅葉もいい感じで進んでいる。
■ 袋田の滝の商店街へ
さて滝の周辺は土産物店がずらりと並ぶ商店街となっており、クルマは奥までは侵入できない。 駐車場が整備されているのは滝から1kmほど手前で、ここから先は徒歩での散策になる。
駐車場から滝方面をみると、浸食を免れて残った溶岩層の段差が明瞭に伺える。 こうしてみると、神々の遊戯の舞台は人間のスケールとはずいぶん違うものだな。
崖面はいかにも溶岩段丘らしく表土は薄い。崩れた部分が岩室のようになっていて、こういうところは修験者が好んで住み着きそうな感じがする。紅葉の色づきは……まあまあといったところか。
紅葉チェッカーで袋田の滝をみると3℃未満の累積日数が8日(上図は日付が明けて11/20になっているがまあ気にしない ^^;)ほどで、最低気温はぎりぎり0℃前後をウロウロしている。これ以上低温になると凍結により葉の色が褪(あ)せてしまうので、まあ本日あたりが良い見頃ということになるのだろう。
温泉街の楓はこんな感じで、赤色の乗りはたしかにちょうど良さそうかな。
■ 商店街を行く
さてそれではゆるゆると滝方面に歩いてみよう。名瀑があればそこに観光施設ありということで、滝の周辺は観光業者でひしめき合っている。通りに面したところは商店街、一歩奥まったところは旅館になっていて、でありながら道幅は充分に余裕があるので歩きやすい。
滝から流れ下る川は、その名も "滝川" という直球ストレートなネーミングだ。 この川相は非常に面白いのでチェックしておこう。
川底はいくらか砂地基調が混じるが比較的やわらかい砂岩質か凝灰岩質の岩盤であるらしい。それが水の流れで浸食されてこんな綺麗な滑床(なめどこ)を形成している。
砂地のすくないところだとこんな感じで、河床が一枚岩になっているのがよくわかる。いわゆる河原石というのはほとんど見当たらない。 それにしても、こんなゆるゆるな水の流れで削られてしまうなんて、よほどヤワで軟弱な岩盤なのだろうな。
駐車場から400mほどで橋を渡り、右岸(=上流側から下流側をみて右側)へと移動していく。左岸側でも滝に至ることは可能なのだが、滝を正面から見るには右岸側からアプローチしたほうが都合がよいのでこちらがメインルートになっている。
崖面が近くなってきたのでアップで一枚。遠くから空気層を挟んでみるよりも近くから見上げたほうが鮮やかにみえるな。
■西行法師の歌
さて右岸に渡ると途端に道が狭くなった。このあたりは滝に近い一等地になる。おそらくここに並んでいるのは最古参の茶店の末裔と思われ、その起源を遡れば修験者の自炊場とか休憩施設のようなものだったのではないか……と、筆者は推測している。
日本の山岳観光史を紐解けば、最初に修験者が奇岩奇石などを発見して拝所やお堂を建立し、そこに御利益を求めて一般人が通い始める基本パターンがある。やがて彼らに休憩宿/宿泊などのサービスを提供する施設ができ、リピーターの循環が増えたところで著名人が訪れて随筆や小説の一本も書けば完璧だ。かつては俳諧や短歌がその役割を担った。
物見遊山の記録としては、平安時代の終わりごろに西行法師(1118-1190)が訪れて歌を詠んでいるのが最古になるらしい。 江戸時代に徳川光圀(水戸黄門)なども袋田の滝を詠んでいるが、歌人としては西行の存在感のほうが圧倒的だ。なにしろ新古今和歌集にダントツの94首が収録され、現存する歌が2300首もある。……というかこんな物量で歌三昧ができるとは、西行法師はどれほど暇人だったのであろうか(笑)
その西行の通ったであろう道すじを、800年ばかりの時間差で筆者も歩いている。 彼がここを訪れたのはちょうど今ぐらいの季節で、やはり紅葉の盛りの頃であった。
西行の詠んだ歌は木々の色づきを錦の織物に喩えている。
花紅葉(はなもみち)
経緯(たてよこ)にして
山姫の 錦織出す 袋田の瀧
経緯と書いてタテヨコなんて読めるかよ、という方は地球儀の経度、緯度の意から読み解けばわかりやすいだろう。もともとは織物用語で、経糸、緯糸というのが織物のタテヨコの正式名称にあたる。
また歌に登場する山姫とは万葉の頃、奈良の都の東西南北に祀られた4人の女神のうちの一柱で、都の西側の竜田山に鎮座する竜田姫を指す。
竜田山は大和盆地における紅葉の名所で、転じて山姫には "秋" とか "鮮やかな紅葉" という意味も含まれる。和歌においては立田姫は秋の季語であり、ここではそのまま表現せずに山姫と言い換えているところに妙がある。 このあたりは和歌に関する教養がないとナカナカ理解が及ばないけれど、西行は幾重にも秋の風情を折り込みがら歌を詠んだわけだ。
さて一方川の様子はというと、このあたりから岩塊がゴロゴロしはじめる。滝壺までの距離はおよそ300mで、これは滝壺周辺の崖から崩れ落ちた溶岩隗の成れの果てだ。 滝壺に近づくほど、これが大きくなっていく。面白いものだな。
■四度滝不動明王
そのままゆるゆると歩いてゆくと、最古の商店街が尽きるあたりに不動明王のお堂が見えてくる。チャラチャラした観光客はみな素通りしてしまうようだが、ここは "信仰の対象としての滝" を理解する上では重要なところだ。とりあえず滝に参拝するからにはチェックしておこう。
ここの名称は四度滝不動明王といい、四度滝とは袋田の滝の別名だ。四度とは滝が四段になって落ちていることから来ているらしい。
不動明王が祀られているということは、ここが即ち修験道の聖地であることを示している。袋田の滝には仏教寺院はなく、滝壺付近に修験道の礼拝所があるのみだ。ではここは何かというと、境内の石碑によれば昭和34年に地元有志が建立した里宮ということになるようだ。
ちなみに昭和30年代は敗戦後の占領が終わり日本人が自己決定権を取り戻しつつあった時期で、神社やお堂の建設ラッシュ期でもある。占領軍は日本的なものを徹底的に破壊しつくして去っていったが、当然反発もあり主権が回復されたのちはコンチクショー!と伝統的な信仰のシンボルが再建、強化されるムーヴメントがおきた。ここもそのうちのひとつらしい。
狭い空間にかなり頑張って建てられたお堂はこんな感じで、山岳修験の雰囲気を纏っている。真言系なのか天台系なのかはよく分からない。ちなみに西行は仏道としては高野山に属し、四度滝の名の由来も西行との説があるので、その意味では真言系なのかもしれないな。
おお見れば境内にはいい感じの楓がある。
いささか雑然感はあるものの銀杏(いちょう)の古木もある。 なるほど山姫の織り成す錦とはこんな風情をいうのかな。
そのお堂の向こう側は、滝に向かうトンネルの入り口になっていた。昔は川沿いに崖っぷちを進んでいったそうだが、それでは危険だということで1979年にトンネルがつくられ、滝を正面から見られる位置までショートカットできるようになった。
まあせっかくの文明の利器であるから、筆者もひとつ使わせていただくとしよう。
<つづく>