2024.01.20 松島湾と瑞巌寺(その1)




松島まで行って参りました♪


仕事で仙台まで行く用事があり、ちょうど週末であったので、松島湾を見てくる機会があった。筆者にとっては久方ぶりの松島でもあり、またここの風景は過去に記事にしたこともなかったので、短稿としてまとめてみようと思う。

東北の海沿い風景というと東日本大震災(2011)の印象がつよいけれど、さすがに13年も経過すればそれなりに復興は進んで人々の日常は穏やかになっている。ここではそんな風景をゆるゆると眺めてみることにしよう。




■松島への道




さて今回の瞬間旅行は仕事のついでなので、移動に関しては思い切り省略して仙台から松島への道程から始めたい。仙台はかつての伊達藩の本拠地で、東北地方でも有数の都市となっている。人口は108万人ほどおり、東北地方で唯一の政令指定都市でもある。

地方自治法によると政令指定都市になる条件は人口50万人以上となっていて、その理屈だと筆者の住む栃木県の宇都宮市にも資格がありそうなのだがそうはなってない。実際に資格を得ているのは人口100万人規模の都市が多く、規定と実態にいささか乖離がある。

それはともかく政令指定都市となった仙台市はよく発展している。この資格を得ると県庁にいちいち "お伺い" を立てなくても独自に政策を決められる余地が増え、住民の利便性が向上する。仙台においてはとくに交通機関の接続具合が他の都市に比べてスムーズなように思える。




さて本レポートの出発点は仙台駅である。ここから松島湾の観光拠点、松島海岸駅までは仙石線でおよそ20kmほど行く。もうあと数日滞在できれば仙台城や加賀城、塩釜や名取海岸あたりも散策してみたいところだが、今回は使える時間が半日しかないのでそのへんは全部カットだ(笑) ひとまずは湾内風景と瑞巌寺が見られればよいと割り切っていこう。




仙石線は仙台市街地では地下鉄なので長めのエスカレータで降りていって乗車する。地方都市で地下鉄があるというのは珍しく、社団法人日本地下鉄協会によれば東京以北では札幌と仙台にしかない。いずれも政令指定都市で、全国的に見ても地下鉄は政令指定都市にしかないのである。こうしてみると政令指定都市ってやっぱり凄いな。




そんな訳でさっそく仙石線に乗って揺られていく。この路線は東北本線とほぼ並行しながら石巻~名取方面を結んでおり、他の地域なら二重投資だと指摘されかねないところ、長距離列車の多い東北線と別系統にしたことでうまく運用できている。




ほどなく松島海岸駅に到着。ここが松島湾観光の拠点駅となっている。妙に新しそうに見えるのは震災で建て替えられたためで、リニューアル工事が完了したのは2022年であるからまだ新築2年目である。震災後は長らく代行バスが運用されており、筆者はちょうどよいタイミングでやってきたことになるらしい。

時刻は朝の 08:30 …今日は土曜日で休日客がいそうなものだが、観光的にはオフシーズンのためか人影は少なかった。 まあ真冬に海に来る奴なんて根性系のマッチョメンか恋に破れた乙女くらいなものだろうから、これはこれで致し方なし(何)




駅舎から見る風景はこんな感じで、目前はすぐに松島湾である。海岸部分は観光船の船着き場を兼ねた公園になっている。市街地の奥行きは薄く、100mもない。これは海岸近くにまで崖面が迫っているためだ。




一見すると理想的な港湾都市になりそうな松島湾も、実は人の居住できる平野は少ない。湾内ではカキや海苔の養殖が広く行われているけれども基幹産業は消去法で観光業ということになっている。農地や工場用地がなくても、観光産業は成立するのだ。




さて観光と言えば筆者的にはクルーズ船である。駅前にいたキャッチセールスのおじさんの口車に乗ってさっそくチケットをゲット。今日は時間も無いことだし、細かい条件の比較なんて放っておいて、これでどーんと行ってみよう。

見れば筆者の購入したチケットは湾内を50分ほどかけて一周する最もスタンダードなコースのようだ。まあこれはこれでヨシ。



 

■ 出発の前に、震災の話を少々




さて駅前の通りを渡って海側に出ると、広々とした公園があった。見た目がさっぱりしているのは、2011年の東日本大震災で津波に押し流されたためらしい。かつてはいろいろな施設があったようだが、今は御覧の通り諸行無常の沙羅双樹といったところだ。




海岸まで寄ってみると、殺風景ななかに展示ボードがあった。見れば震災伝承版と書いてある。 すこしばかり目を通してみよう。




松島を擁する宮城県は、震災では都道府県単位で最も多くの人名が失われた。死者は1万568名、いまだ行方不明となっている方が1200名以上もいる。 10年経っても行がわからないということは残念ながらこれからも発見される見込みは少ないと思わざるを得ない。今は静かにその冥福を祈るのみである。

ちなみに震災における全国の死者+行方不明者の合計は2万2000名余あり、宮城県は1県でその過半数を占めている。




ボード上には湾内の  Before/After の航空写真があった。 津波で港湾施設や桟橋が大規模に流されたことが示されている。 この付近は約70cmほどの地盤沈下もあったそうで、これで湾内の島々にあった小規模な砂浜の多くが沈んでしまった。




そういえば海岸の散策路も心なしか海面ぎりぎりの水準にある。いくいらか嵩上げした痕跡もみえるがこれだとちょっとした高波で潮をかぶってしまうだろう。 居住するのを躊躇するには十分すぎるほど危なっかしく、さきの公園部分に建屋が復活しない最大の要因はこれのように思える。




そんな松島を盛り上げようと、ここにもご当地キャラが頑張っていた(笑) 伊達政宗を差し置いて美少女キャラが全面に出てくるあたり、時代性を象徴している気がする。



 

■ 湾内クルーズへ




さて定刻が近づき、ぼちぼち人が集まり始めた。見れば皆おっさんばかりで、妙齢のお嬢様などは居ない。まあ世の中そんなものだよな。




今回は2Fのちょっといい席に陣取ってみた。どうせデッキに出て歩き回るので座席はあまり関係ないのだが(笑)、まあそこはそれ。…それにしてもこの人口密度で採算は取れているのだろうか。




それはともかく乗務員氏は的確に業務をこなしており、定刻通りに出航。 久方ぶりの湾内クルーズと洒落込もう。




湾内はこんな感じで、外波が入ってこないため海面は穏やかだ。

筆者が前回ここに来たのは2006年のことで、震災の5年前にあたる。 70cmほど沈降したと言ってもこの距離感では変動の具合は視認できない。 ざっと見たところ、クルーズ船から見る景観に大きな変化はなさそうだ。




湾内の沿岸部はこんな風景が続く。凝灰岩とシルト(堆積岩)で構成された湾内の島々は岩石としてはやわらかい部類で、波に削られて浸食されながら現在の景観を形作った。まるで漆喰で固めたような白い岩肌が特徴で、他所のような玄武岩質の黒い色調とは雰囲気が異なっている。




この白い柔肌のような岩の上に、貧相な栄養環境+塩害に耐える植物として松が繁茂している。こんな島々が東西10km、南北10kmの湾内に260余りも点在している。かの松尾芭蕉が奥の細道の目標地としたくらいであるから、東日本のなかでも屈指の景観といえるだろう。




船内でのガラス越し撮影だとちょっと画像がネムくなってしまうのでデッキに出てみた。真冬ではあるけれど、海風があるのはいいね。

※「ネムい」 というのは写真用語でいまひとつ明暗のコントラストのはっきりしない状態をいう。遊覧船だと窓ガラスに潮が付着して意図しないソフトフォーカス効果を生じ、結果的にネムい画になってしまう場合がある。




やがて塩釜の市街地が見えてきた。あの向こう側には仙台市街地まで接続する平野が広がっている。都市としては松島海岸よりこちらのほうが発展している。

手前に見える杭のようなものは海苔の養殖設備らしい。松島湾の水深は4m未満と極めて浅い。外洋に面した外側いっぱいまで行っても10mかそこらで、波も穏やかなので養殖業を営むには適している。




ただしこれがそこら中にあるお蔭で、遊覧船の航路はあまり自由には設定できない。船そものはたくさんあるのに皆同じようなコースでバリエーションが少ないのは、そんな事情があるらしい。




おお、外洋(太平洋)が見えてきた。それにしても波が穏やかだな。




この波の穏やかさは、湾の外延部に多くの島々が連なって太平洋の荒波を防ぐ防波堤となっていることが大きい。震災のときの津波もこの天然の防波堤によって相当程度減衰されたらしい。もちろん湾内各地にも被害はあったのだが、太平洋に直接面した名取などと比べると、相対的に被害の程度は少なかった。




当時のニュース映像をみると、松島湾の南方20kmほどの名取付近では、津波は防風林帯を越えて仙台空港を丸呑みしている。空港付近での津波の高さは14mほどもあって、海岸から5km以上内陸まで到達した。こんなスケールの天災は、人間の力では到底防ぎきれるものではない。




それが松島湾では点在する島々が天然の堤防となり、また湾の入り口よりも内部のほうが広がっている地形的な特徴から、津波のエネルギーが分散する効果が得られた。これは近代的な港湾で防波堤によって形成される消波構造とそっくりである。

湾内に居住する人々は、もちろん災害を被った不運さはあったものの、この地形効果のおかげで他の被災地よりはその度合いを減衰された。不幸中の幸いという言葉が適切かどうかという論点があるのは承知しつつも、そのように表現しても違和感のない程度の恵みは受けていたのだろううと筆者は思う。


<つづく>