2024.01.20 松島湾と瑞巌寺(その3)




■ 瑞巌寺境内へ




そんな訳で、フェリー乗り場の真正面にある瑞巌寺へと足を進めていくことにする。ここは平安初期に天台宗の寺として開かれ、のち鎌倉時代に5代執権:北条時頼によって臨済宗に改宗された古刹である。

臨済宗と言えば頓智(とんち)で有名な一休さんの宗派で、いわゆる禅宗の一派に当たる。論理性と問答を尊び、学者肌の僧侶を多く輩出していることで知られる。

しかしながらこの寺には知的な禅寺の雰囲気はほとんど感じられない。もちろんここで言っているのは 「頭が悪そう」 とかそういう話ではない(笑) そこにあるのは濃厚な密教的テイストで、非常に呪術的な蝦夷の信仰の片鱗がみえるのである。 筆者にはそれが面白く、先のクルーズで見た松島湾の風景を思い出しながら、ゆるゆると散策してみようと思った訳だ。



瑞巌寺の縁起には明確な建立の日付はない。開基と伝えられる天台宗の仏僧:円仁は遣唐使として9年あまり唐に滞在し承和十四年(847)に帰国、その後仁寿四年(854)に没するまでに関東~東北で500あまりの寺を建てたとされる。7年で500寺とは凄まじい仕事ぶりだが、すべてをひとりで賄ったわけではなく、宗教的な事業として旗振り役を担ったとみるべきだろう。瑞巌寺の建立はこの成果のひとつである。

この時代は坂上田村麻呂による東北平定が一段落し、蝦夷の文化圏に大和の文化(具体的には神道と仏教、そして稲作)が浸透していく時期にあたっている。南都仏教の影響を排除したい朝廷の意向もあって、その役割は振興の密教勢力、具体的には真言宗と天台宗が多くを担った。

そこでは蝦夷古来の自然神を否定するのではなく、 "読み替え" によって 「実は我々も同じ神様(仏様)を信仰しているんだよ」 との説明が為された。 この方法論は古神道との融合で修験道が誕生したのと同じ文脈であった。




おかげで深刻な宗教戦争を起こさないまま蝦夷の人々は大和の文化圏に取り込まれていった訳だが、地元民にとってみれば "仏教徒になった" との意識は薄く、従来の土着神信仰が継続したままなのである。

その結果、中身は旧来の自然神信仰、外観だけは最新のキラキラ様式の仏教という、なんとも奇妙な宗教空間が出来上がった。東北の霊場を訪れる際、この二重性を頭の片隅に置いていると面白いものが感じられると思う。




……などと昔日に思いを馳せながら寺門をくぐると…あれれ? なんだこれは。 筆者の知っている瑞巌寺とはずいぶん違っているぞ。




同じアングルの2006年の写真はこんな感じであった。見ての通り、境内には鬱蒼とした杉林が続いていたのである。 これが今ではすっかり無くなってしまった。




聞けば2011年の東日本大震災のとき、巨大津波が境内にまで押し寄せ、杉は海水の塩分をかぶってその多くが枯死してしまったという。 杉は建築材としてはすぐれた性質をもっているけれども塩害には弱く、高潮や津波に遭うと全滅しやすい。 塩害に耐えるには松のほうが向いている。そしてこれは、昔から分かっていることであった。

それでも杉が植えられたのは、ひとえに寺の建替え時に使用する建築材を境内で自己調達したいという思惑によるらしい。杉の成長速度は松より早く、建材にした場合の狂い(割れ、ねじれなど)も少ない。幼木を植樹して伐採可能になるまで40~50年であるから、数百年に一度の津波を恐れて松を植えるより、ガンガン収穫サイクルを回して杉材を量産したほうが利得があるという。




ミもフタもない話だが、杉が枯死するのは津波が引いた後のことであって、塩害に強かろうと弱かろうと、いざ震災という瞬間に津波の勢いを削ぐ機能は果たすことができる。2011年の震災でも津波は瑞巌寺境内に流れ込んでいる訳だが、縦深200mに及ぶ杉林で減衰されて本堂の直前で止まった。おかげで瑞巌寺の主要な建物と宝物、伊達家に関わる古文書等は失われずに済んでいる。歴史マニア(特に伊達政宗ファン)はこれに感謝するべきだろう。




そして潮を被った杉の多くは枯れてしまった訳だが、その後に植樹されている幼木は、やはり杉なのである。 これは本当に感慨深い。



 

■ 寺と海蝕洞




さて長い参道を進んで本堂付近までやってきた。仏寺ではあるけれど敷地の構造は神社にちかい。いろいろと読み解くと面白い発見がありそうだが、時間もないのでそそくさと行こう。




ここから先は有料拝観エリアになる。筆者も来訪したからには幾許かのお金を落としてゆかねばなるまい。そんな訳で入場券をゲット。




とはいえここから先、建物内は写真撮影禁止のエリアが多いのでこのレポートでは紹介しない。伊達家ゆかりの宝物など見どころは多いのだが致し方なし。




順路で撮影OKなのは庫裡(国宝)の外観までとなる。




さてこのとき筆者の興味が向いていたのは建物ではなく、寺領外縁に分布する岩肌であった。一見、異様にもみえる岩肌にめり込んだような施設群。これが瑞巌寺の境内を特徴づけている。そしてこれこそが、密教的というか、はるか昔の蝦夷の信仰の痕跡ではないかと筆者は考えている。




瑞巌寺に限った話ではないけれども、関東~東北地方の古い寺院や霊場には、こうした岩場と洞窟の組み合わせが多い。




近寄ってみるとこんな状況になっている。 あきらかに人の手が加えられてはいるけれども、これは海蝕洞を利用した宗教空間だ。おそらく初期の頃には修験者の行場として使われ、のちに石仏などが奉納される聖地となったものだろう。




さきほどの湾内クルーズでも、類似の風景をみることができた。 凝灰岩ベースの岩肌に波による浸食で穴が穿たれているものだ。




貫通穴までいかなくても、窪みのような浸食痕はいたるところに見られる。




そしてそのうちの幾つかは人の手によって拡張されている。何に使われたのかよく分からないけれども、住居や倉庫にするには "岩を掘る" 労力というのはいささかコストが大きすぎるので、やはり神様や祖先の霊の祀りどころ……と解釈するのが筆者的にはすっきりする。 そしてこれは、一休さんの属した禅宗の作法ではない。




この海蝕洞の分布は松島湾の周辺に段々構造の壁面として残っている。これ↑は現在の松島湾沿岸で、ちょうど瑞巌寺のあたりを示したものだ。




ここで海水面を+8mほど上げてみると、瑞巌寺境内に分布する海蝕洞の穴位置とちょうど合致する。過去数万年の時間軸ではちょうどこのあたりに海面があった時期が長かったのだろう。湾内の主要な崖面はおおむねこの高さに分布している。




この海蝕崖面の跡が、瑞巌寺の境内の外壁部になっている。寺の建物が建っているのはかつての波打ち際の浜跡で、海面低下に加えて、隣接する高城川河口の堆積物によっても平地が広がったところだ。




そんな昔日の状況を想像するのはなかなかに面白い。

特に寺の成立した平安時代前半は現在より温暖で海面も高かったことが知られている(=平安海進)。 以前考察した霞ヶ浦の事例を参考に当時の海面を現在水準+3mと仮定してみると、瑞巌寺の本堂周辺は三方を天然の崖面に囲まれ、南面が海に開けた要塞のような立地になる(↑)。ちょうど本堂の裏手には湧き水もあって、人の滞在に適した条件がそろっていた。




この本堂を囲む∩型の崖面と、その正面に半島のように突き出した崖面に、無数の海蝕洞跡が分布している。




寺が成立するより遙かに昔から、おそらくここは神聖な場所として認識されていたのだろう。 ここだけ見ていてもピンと来ないけれども、湾内クルーズで海沿いの景色を眺めると、なにか共通の土着信仰の痕跡があるように筆者には思われる。そこに見えるのは何度もいうけれども蝦夷の信仰だ。




やがてそこに大和の民がやってきて、山岳信仰と仏教の入り混じった密教の一派である天台宗の寺院(=瑞巌寺)が建った。

彼らは奇岩奇石や洞窟に神秘性を見出して仏が顕現した場所として扱う傾向があり、それなりの崇敬の念をもってこれらの洞窟群を扱った。おかげで正体不明の新興宗教(⇒当時は中国から伝来して間もない ^^;)でありながら、割とすんなりと受け入れられている。



 

■ 天台宗から臨済宗へ




しかしそうやって平安時代初期に成立した寺院も、400年余りが経過して鎌倉時代になると変容してしまう。源平合戦を経て成立した鎌倉幕府は武家政権であり、話し合いよりも武断的な力押しで問題解決を図る傾向があった。

当時最大の問題は、朝廷から鎌倉幕府へという政治権力の移行に伴い、旧来の社会体制にあった様々な組織が新体制に服属するかどうかであった。このとき朝廷と親和性の高かった密教系の仏教勢力(天台宗、真言宗)は、反抗的な態度をとってなかなか幕府に従わなかった。 そこで幕府は武力を背景に有力寺院の中身の入れ替え、つまり "宗旨替え" を強要していくのである。

これで多くの密教系寺院が武家政権と親和性の高い "禅宗" の寺院となった。日本の禅宗は臨済宗と曹洞宗が2大派閥で、前者が上級武士(インテリ系)、後者が下級武士(体育会系)に人気があった。そして瑞巌寺にもこの動きが及び、幕府の執権:北条時頼の命により臨済宗に改宗している。




そして呪術的な要素の希薄な臨済宗になってから、従来は神のおはす神聖な場所とされていた筈の洞窟群は、拡張されて納骨堂として使用されるようになっていった。

しかし寺の坊さんが総入れ替えになったところで、庶民の信仰がそう簡単に切り替わる訳ではない。もともと多重構造になっているタマネギの表皮が変わったところで、中身は変わらないからだ。



こうして、あまり禅宗らしからぬ不思議な境内風景が出来上がった。

あきらかに古代の呪術空間の残滓がのこっているのにそれを消し去らなかったのは、宗旨替えを命じた鎌倉幕府の大雑把な性格の現れのようにも思える。 要するに彼らは寺院が政治的に反抗さえしなければ細かいことは気にしない。おかげで古い信仰や民俗は 「なあなあ」 のいい加減さで混ざりあったまま後世まで受け継がれた。




■ 伊達政宗による中興を経て


さてもう使える時間が残り少なくなってきた。そろそろ引揚げ時なので伊達政宗の話を少し交えて本稿の締めくくりとしよう。




時代が下って戦国の世も終わり、江戸時代に入ると、晩年の伊達正宗がこの寺を伊達家の菩提寺として整備した。現在の瑞巌寺の名称はこのときに付与されたものだ。 正式名称は松島青龍山瑞巌円福禅寺といい、略して瑞巌寺である。




伊達政宗は幼名を梵天丸といった。梵天とはインドのヒンドゥ教の主神ブラフマーであり、密教では四面四臂の姿で描かれる。「禅宗とは関係ないじゃん」 とか言われそうだが(笑)、それでも気にせず松島湾界隈で最古刹となる瑞巌寺を菩提寺としてしまうあたり、正宗は大変に大雑把な男であったらしい。

そんな大雑把さによるものかはよく分からないが、正宗以降の伊達家代々の当主は瑞巌寺の保護者の立場にあり、その肩書は "大神主" だった。 「それ、もはや仏教とちゃうやん(笑)」 とツッコミを入れてはいけない。奥州の信仰空間というのはもともと 「なあなあ」 で成り立っていて、細かいことを気にしてはいけないのだ。





…などと言っている間に、門まで戻ってきてしまった。かつては海であった筈の参道には、いまや売店が並んでよろしく観光が新興されている。 もうすこしゆっくり出来ればよかったけれど、今回はここまでにしておこう。




門前の車道脇には、もはや境内ではないけれど海蝕洞を拡張した洞窟がみえた。ここもかつては修験の場や納骨堂として利用されたのだろうか。松島の市街地を歩くと、こんな風景が当たり前のようにそこらじゅうにある。

千年以上も遡る遺跡群と混在する街。思えば、凄いところだ。 今回はなんちゃって旅行で通り過ぎただけだが、機会があればもうすこしゆっくりと歩いてみたい。 そんなことを思ってみた。


<完>