■ 2005.11.22 湯西川温泉:平家の里(その2)




■湯西川温泉




さてr249の最深部に達すると、川沿いに集落が見えてくる。あれが湯西川温泉郷だ。




温泉街の中心部にある 「平家集落」。 現在では実際に人が住んでいるのは3軒を残すのみとなった。その他の無人になった民家はこの先の テーマパーク 「平家の里」 に移築され、展示館として使用されている。手前を流れているのが湯西川である。




川底は数百mに渡って一枚岩のフルスクラッチになっていて、砂利河原がない。こういう地形には見覚えがある。塩原温泉だ。川が岩山を侵食していく過程で一時的に湖が生まれ、ある程度の土砂が堆積した後にダムになっていた部分の岩石が浸食で失われると小盆地ができる。ここはそんな地勢のような気がする。




その中心部には車を停められそうな大きな駐車場はないので、いったん温泉街を突き抜けて 「平家の里」 を見学することにした。おお、平家の赤い幟がいい味をだしている。

ここは集落中心部の建て替えで失われつつあった古民家を移築して保存しているテーマパークで、在りし日の湯西川集落の雰囲気を味わうことが出来る。史料館も兼ねており、平家落人の展示などもある。




屋根にはわずかに雪が残っていた。苔むしてなかなか貫禄のある家だなぁ。




内部は小川を挟んで茅葺民家が並び、かつての山里の一角を再現している。昔話の絵本に出てくるような正当な山村の風景である。館内には雰囲気を壊さない程度の音量で静かに琵琶の弾き語りが流れていた。題目は、もちろん平家物語だ。

祇園精舍の鐘の音(声)
諸行無常の響きあり
娑羅双樹の花の色
盛者必衰の理をあらはす

おごれる人も久しからず
ただ春の夜の夢の如し
猛き者もつひには滅びぬ
ひとへに風の前の塵に同じ

平家物語について話し出すと長くなるのでここでは詳細は省略しておきたい。昔栄華を誇った一族が戦に敗れて落ちのびてきた、ということが分かっていれば十分だろう。




民家の内部をみると、展示品の並ぶ一角と、民家の構造を見せようとする一角がうまく配置されている。写真は畳の座敷。伝統的な正しい日本建築を見ることが出来る。




こちらは里に伝わる武具や生活用品を展示している。壁に掛かっている蝶の文様は平家の家紋だ。これを使っている旧家がいたら、平家一門となんらかの関係があると思ってよいだろう。

ただし彼らは敗戦して追われる側であったから、平家の血統でも途中から家紋は別のものにした家も多い。実をいえば平家を追う側だった関東武士団の面々にも平家の家系は少なからずいた。平家筆頭だった平清盛は調子に乗りすぎて自分の近親者ばかり優遇した結果、本来仲間にできるはずだった一族末端の者どもをまとめきれなかったわけで、こんなところにも滅亡の理由の一端があるのかもしれない。




さてそんな平清盛は、なぜかものすごく濃い顔でリアルな像になっていた。聞けば映画の特殊メイクの技術を使っているそうで、英国の蝋人形の館みたいなコンセプトのようだ。




ここでは毎年6月に落人大祭なるものが開かれる。実際に見たことはないのだが、武者行列あり白拍子あり・・・と見どころは多そうに思える。機会があったら見てみたい。



 

■赤間神宮




敷地の最深部は赤間神宮である。赤間神宮は本宮が長門(山口県)にあり、壇ノ浦の合戦で平氏一門とともに入水した安徳天皇を祀っている。

平家落人伝説のある土地は全国にあるけれど、赤間神宮が正式に分祠されているのは実はここだけである。あたりには誰もおらず、わずか一坪ほどの社殿は静寂のなかでひっそりと佇んでいた。




余談になるが赤間神宮は明治維新の廃仏毀釈を経て現在は神社として存立しているけれど、もとは阿弥陀寺と称する仏寺であった。明治以前は仏教と神道が混ざりあった神仏混淆の時代が長く、安徳天皇も仏式で祀られていたのである。

ここは有名な説話 「耳なし芳一」 の舞台ともなった。平家の里に祀られた赤間神宮には仏寺であったころの痕跡はまったくないけれども、知っておきたい逸話だ。

※耳無し芳一のストーリーは天明年間に書かれた臥遊奇談(一夕散人)の一節を明治時代になって小泉八雲が 「怪談」 で紹介したもので、史実ではなく創作である。




神宮を見たのちは、敷地内の鹿をいくらか眺めてみた。角がないところをみると雌かな。ちなみに周囲の山々には野生の鹿がたくさんおり、この鹿も近所で捕獲されたもののようだ。


<つづく>