2007.06.29
沖縄紀行:琉球八社を巡る -2日目ー (その7)
■ 渡嘉敷(とかしき)
島の南端からとって返し、渡嘉敷集落にもどってきた。 海の撮影条件の都合でスルーしてしまった渡嘉敷だが、ようやく見学できる。集落の規模そのものはそれほど大きくないが、ここは外洋港に面しており、旧家が多いようだ。
この写真(↑)は村の有形文化財となっている根本家の石垣である。琉球王朝時代、ここから貿易船の乗組員として出稼ぎに出ている者が多くいた。根元家は中国行きの貿易船の船頭を勤めており、これで相当な財を成したらしい。それで立派な屋敷を建てて後世に残した。
珊瑚の粗積みではなく切り石(→手間がかかる高級仕様)になっているということからも、ここが長らく渡嘉敷の支配階級であったことが伺える。
琉球王朝では身分によって家屋のつくりや門構えなどに厳しく制限が設けられており、これだけの石垣を作れるということは、代官級の家柄だったのではないか。
根本家の周辺の住宅は、一段低い "ブロック塀" が続く。よくみると珊瑚の粗積みの石垣がセメントで塗り固められたものも混ざっている。
ここは米軍によっていったん破壊され、占領後は伊江島の住民が一時期テントを張って収容された時期があった。そんな時代を経て、頑丈な根元家石垣以外はすっかり様相が変ってしまったらしい。
その石垣の奥側に、渡嘉敷神社の鳥居がみえた。
神社の拝殿内では、地元のおばさんたちがお茶会を開いて談笑していた。ここは社務所は無いのですか、と聞くと 「ないですよー」 という。 うーむ。
実はここは、神社とはいっても実態はノロ(祝女)の拝所なのである。背後にある小高い山(クミチジ山)を聖地として代々のノロが祈りを捧げる場所で、世俗の冠婚葬祭のすべてが一箇所で済んでしまうスーパーマルチステーションなのだ。ちなみに任期を終えたノロはここに祀られ、神の一部となる。
ここが渡嘉敷神社と呼ばれるようになったのは昭和18年、古波蔵春という女性が神職講習を終了して字渡嘉敷の祝女となり、この拝所で祭りを行うようになった以後のことという。この拝所は物理的な建築物としては昭和40年築ということで新しいが、古い御嶽形式の信仰に神道が融合していく過渡期の状態を知るうえでは貴重な存在かもしれない。
鳥居の建立は昭和12年とあった。これは地元の漁師の寄進によるものだそうで、正式な神社となる前から神仏混交ならぬ神ノロ混交?のようなものが進んで、意識の上ではほとんど区別がなくなっていたことを示しているように思われる。
現在はここのノロは空席となっており、管理は地元の区長氏が行っているそうだ。本土で言えば神主さんのいない神社のような状態、と理解すればよいのかもしれない。
さて神社から集落の端のほうまでいくと、赤瓦の屋根が点在していた。よくみると屋根のシーサーは "焼き物" の立派なものではなく、一般的な瓦材と漆喰で作られている。これは古い形のシーサーだ。
今では沖縄のシンボルのように思われている屋根のうえのシーサーは、実は明治時代に誕生したものだ。タイミングとしては、琉球時代の身分制度が廃止されて一般民衆に "赤瓦が開放" されたのを期にしている。
最初は建材の余り品と漆喰で "建築祝い" として大工さんがサービスしたもので、それが進化して現在のようなシーサーになった。そんな由来があるので、首里城などの王朝系の建物の屋根にはシーサーは載っていないのである。
<つづく>