2007.06.29
沖縄紀行:琉球八社を巡る -2日目ー (その8)
■ 白玉之塔(しらたまのとう)
そうこうしているうちに港に戻ってきてしまった。マリンライナーの時刻まではまだ1時間少々余裕がある。さて、どうしようかと5秒ほど思案し、当初は予定になかった島の北側に向かうことにした。
見ておきたかったのは白玉の塔である。阿波連ちかくにある戦跡碑とは別に、港の北側に慰霊碑があるのだ。
港をぐるりと回って、最近整備されたらしい真新しい道路を登っていくと・・・
なんとも分かりにくい角度で折れ曲がった小道のさきに、芝のスペースがつくられており、階段が続いていた。
そこに建っているのが、白玉の塔である。この島における戦没者を祀った慰霊碑だ。
戦没者数は全島で570名。内訳は、軍人軍属202名、一般住民368名。驚くべきことに、一般住民戦没者のうち、実に329名(89%)が集団自決による死亡である。
死亡要因の9割が自決……
このときの状況を説明すると、それこそ本が一冊出来上がってしまうので、概要のみ記しておこう。
米軍による慶良間諸島への攻撃が始まったのは1945年3月23日である。最初は徹底的な空爆であった。集落や陣地のほか山林までもが焼夷弾で焼き払われ、その後艦砲射撃で大量の砲弾が撃ち込まれた。
米軍陸戦部隊の上陸は慶良間の西側の島々では3月26日、渡嘉敷では3月27日に行われた。上陸地点は渡嘉志久と阿波連・・・赤松隊の特攻艇が秘匿してあった基地の場所である。特攻艇は洞窟から海に降ろそうとしているところで戦況が悪化し、エンジンすらかけられずに自沈/遺棄処分となってしまう。
米軍が島の南側から上陸したため、赤松隊と住民は島の北部へと退避しはじめた。
米上陸部隊はわずか1日で渡嘉敷の住宅街までを占拠。赤松隊は北部山岳地まで後退、ここで陣地構築を始める。しかし陣地といっても避難壕どころかタコツボ程度の穴すらなく、砲撃の中で必死で棒切れで地面を掘っていたというのが真相らしい。住民は少し離れた谷間に移動していたが、すでに逃げ場所はのこっていなかった。
……ここから先は、資料によって内容は二分する。赤松隊長が 「長期戦は必至である。貴様らは食料を軍に残して死ね」 と住民に命令したことになっているものもあれば、砲弾の飛び交う極限状態の中で自発的に死を選んだとするものもある。戦後ジャーナリズムは圧倒的に赤松隊長鬼畜説の立場である。筆者はドキュメンタリー作家ではないのでインスタントな回答はもっていない。(※上図は文章資料から起こしているので解釈の違いがあるかもしれません)
碑に刻まれた名前をたどってみる。
同じ姓がずらりと並んでいる……まさに、家族単位で命を落としたわけだなぁ。
当時いわれていた "鬼畜米英" のスローガンが彼らの意識にどのように作用したかは、わからない。 しかし当時の連合国軍の戦法は "通商破壊作戦" ……つまり非戦闘要員である一般船舶への無差別攻撃であり、また沖縄の人々の移住が多かったマリアナ諸島ではやはり民間人が米軍の攻撃でほぼ全滅の憂き目に遭っていた。
軍による情報統制があたっとしても、船舶関係者や南洋各所への移住者の多い沖縄の社会でこれらの情報は遅かれ早かれ伝わったことだろう。"民間人を殺すのに躊躇しない米英" というのはきわめてリアルなイメージで人々に理解されていたのではないかと筆者は想像している。
碑の前には、真新しい折鶴の束が供えてあった。
渡嘉敷小学校……。そうか、つい6日前が沖縄の戦没者慰霊祭だったんだ。
果たして、この子らは学校でどんな歴史教育を受けているのだろう……。ふと、そんなことをと思ってみた。
<つづく>